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意外なところで再発見!立花宗茂の金色の鎧

2023/5/14

NHK大河ドラマ「どうする家康」にて、とても象徴的にあつかわれ、番組のアイコンともなっている金色の鎧、徳川家康所用「金陀美(金溜塗)具足」(静岡・久能山東照宮所蔵)【重要文化財】 。ドラマのなかでは、家康が今川義元から贈られていました。

え、この話の流れ、立花宗茂で見たことある!!

実は宗茂にも、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう”というエピソードがあります。しかし、残念ながら、宗茂の金色の鎧は現存していません。
そもそも、宗茂の金色の鎧を着ていたことは、最近まで研究者にも知られていませんでした。


現存する立花宗茂の甲冑は2領「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。どちらも立花家史料館が所蔵しています。

ダークブラウンをベースにビビットな赤を差し色とし、それぞれの佩楯を金と銀にするという、派手さに走らないシックな装いです。
わたしは宗茂を、カラフルな色や金ピカさとは無縁のオシャレ上級者だと思っていました。



これらの甲冑について詳しく解説すると長くなりすぎるので、ご興味のある方は、このオンラインツアーにご参加いただけますと嬉しいです。

オンラインツアー「立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ~すべて魅せます!表も裏も細部まで~」(2023.6.2開催)では、「鉄皺革包月輪文最上胴具足」の内側や細部を植野館長が直接カメラで撮影しながら解説。付録ブックレット(B6版フルカラー 24頁)も大充実。他の武将の当世具足を鑑賞するときにも必携の書となるはずです。

◆販売中◆  解説本『立花宗茂の甲冑大解剖』(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足 ) 330円/解説本『立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ(鉄皺革包月輪文最上胴具足) 500円 (どちらも税込・送料別)  展示室では鑑賞しずらい裏面や細部の拡大写真とともに詳細な解説を掲載。 B6判 全16ページ オールカラー  ※まとめての購入は送料がオトクです





ところが、7年ほど前に、柳川藩士小野家の御子孫宅にて、大切に伝えられてきた 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)が再発見され、この認識がくつがえされます。

*リンク先のGoogleアートアンドカルチャーでは、この袖の金具の魚子地がわかるほど、画像を拡大できますので、ぜひご覧ください *

金白檀塗の7枚の横長板を、上から紫、紅、白、紫、紅、白と色を変えた毛引威でつなぎ、壺のような曲線で肩にフィットする形にした壺袖。 “金白檀塗”とは、金箔を貼った上に透明な漆をかぶせる技法です。ちなみに、金溜塗は、金泥を塗った上に透明な漆をかぶせるので、同じ金色でも発色が違います。
注目ポイントは、杏葉紋のついた金具です。



この袖が宗茂のものと比定できる要因の1つが、杏葉紋です。

大友氏が寄進したと伝わる「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮所蔵)【重要文化財】 や「大友の鎧(色々威腹巻)」(長崎・松浦史料博物館所蔵)など、宗茂の主筋であった大友氏ゆかりの甲冑との関連を感じさせます。

すべては、この動画を150秒見るだけで分かります

ご覧いただけましたでしょうか?



つまり、宗茂の金の鎧は、主の大友義統(1558‐1605)から下賜された可能性が高いのです。
まさに、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう” です。



まことに残念ですが、小野家伝来の袖以外のパーツは失われているので、宗茂の金の鎧の全体像は、想像するしかありません。

しかし、当時の鎧は、基本的に各部品のデザインをそろえていたため、同じ杏葉紋をつけた「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮蔵) を参考に、小野家伝来の袖のスタイルを他の部品にも反映させた、「金白檀塗色々威具足」復元イメージ図を、”立花宗茂生誕450年記念特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』“のために作成しました。

作画をお願いした大久保ヤマトさんが、いかにも宗茂が着ていそうな金の鎧のイメージ像を、考証に忠実に、とても緻密に描いてくださってます。

「金白檀塗色々威具足」復元イメージ  
大久保ヤマト氏作画


わぁ、格好いい!

白檀塗によるキラびやかな金色とカラフルな威糸は、現存する宗茂の甲冑の配色とは対照的で、これまで誰も想像しなかった宗茂の若武者姿になりました。


白檀塗の明るく透明感のあるゴールドに、毛引威の威糸が前面に出ていて、華やかで上品です。さすが、オシャレ上級者!

威糸の紫、紅、白の3色の組合せもステキ。ケーキにしても、すごく映えます。





先日、浜松まつりでパレードする、金の鎧を着た松潤殿をTVで拝見しました。
とてもとてもウラヤマシイ……

立花宗茂と誾千代がNHK大河ドラマになった暁には、出演者の方々に、ぜひ柳川で水上パレードしてほしいと心から願っております。
そのときは、当館所蔵のオシャレ甲冑も捨てがたいですが、やはり光り輝く金の鎧の方が映えるかなという思いのまま、ここまで書きあげてきました。






それでは、皆さまの疑問にお答えします。
なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、家臣の小野家に伝来したのでしょうか?






*立花家史料館は、大久保ヤマトさんに、本当にさまざまなイラストを描いていただいてます。それぞれのイラストの詳しいお話を、是非こちらでご覧ください *

参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、「しずおか文化財ナビ 金溜塗具足」(静岡県HP)久能山東照宮(静岡県)柳川古文書館(福岡県)柞原八幡宮(大分県) 松浦史料博物館(長崎県)

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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6代藩主 立花貞則、豊前大里浜で暴死す

2023/5/3

前回は、6代藩主貞則の生涯を、丁寧に江戸時代の史料をひもときながら見てきました。前回で完結する話を今回までひっぱったのには理由があります。




前回で紹介した江戸時代の史料と、現代の柳川市史編さん事業の刊行物。
その間に挟まれた近代の史料に、ある懸念があるのです。

7代 貞則公〔引用者註:貞則は6代柳川藩主かつ立花家7代当主]

(中略)

延享3年 〔1746〕 6月20日江戸を発し、入部の途に就く

7月17日豊前大里浜に於いて暴死す。

同21日遺骸生存の如くして柳城に入る。同27日喪を発す。8月5日福厳寺に葬る。享年21。法号等覚院殿廊融性営大居士と云ふ 。

公 子なし。弟を以て嗣とす。

渡辺村男 『旧柳川藩志』上巻 60頁(下記の書誌 53コマ目)

渡辺村男 著 ほか『旧柳川藩志』上巻,福岡県柳川・山門・三池教育会,1957.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります*



この『旧柳川藩志』を著したのは、立花家伝来の史料を調査研究の対象とする、我らの大先輩、渡辺村男です。

柳川市史の編纂事業が開始する80年前、大正3年(1914)に、立花家が主体となり、藩史編纂の事業がはじめられました。その編纂に携わった中学伝習館教諭の岡茂政や、岡とともに明治44年(1911)に柳川史談会を創立した渡辺村男は、どちらも長年の調査の集大成をまとめた、柳川の歴史についての大著を残しています。この二人の著作は、柳川市史の刊行がはじまるまで、柳川の歴史を知るための必携の書であり、他に代わる書籍はありませんでした。

岡茂政 著 ほか『柳川史話』,青潮社,1984.9.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕



わたしも、当館展示室の年表パネルを作成するために、当時未刊の『柳川の歴史』シリーズを切望しながら、ほかに頼るあてもないので、渡辺村男『旧柳川藩志』岡茂政『柳川史話』 を熟読したものです。



今なら、絶対に柳川市史の刊行物を頼ります。だって、読みやすいし、わかりやすいし、何より信頼がおけます。




村男さんも岡さんも、尊敬できる大先輩ですが、戦前と現在とでは情報量に圧倒的な差があり、今の基準でみると、二人の史料の精査は全く足りていません。当時の印刷技術の事情もあるでしょうが、年号のズレや漢字の誤記も少なくないので、その都度、江戸時代の史料とのつき合わせが必要となります。それでも、活字は流し読みができるので、崩し字解読が苦手な身には助かりました。



あらためて引用部分にもどります。
注目すべきは「豊前大里浜に於いて暴死す」。


え!

おだやかでない響きですが、どういうこと?
江戸時代の系譜や、その他の文書類を確認しても、よくわかりません。


安心してください。辞書にちゃんと記されていました。

【暴死】  ぼう‐し
にわかに死ぬこと。急に死ぬこと。頓死。

広辞苑・大辞泉・ 日本国語大辞典 の記述を集約  


な~んだ、あっさり解決です。

貞則の「急死」を村男さんが劇的にあらわしただけでした。当時の貞則の近臣たちの気持ちを慮ると、「暴死」という表現がマッチしているように感じます。


結局のところ、前回で周知の事案「死体の偽装」と「公文書偽造」、これ以外のことはどこにも書かれていません。懸念もなにもなかったのです。

ちなみに、貞則の事案の約90年後には、より大きな事案「藩主すり替え」があるのですが、それはまた別のおはなし。






実はいま、「立花貞則 大里」とWeb検索すると、貞則が暴漢におそわれて亡くなった風に説くサイトが上位にあがってきます。遺憾ながら、数も多いです。

※検索結果をご覧になるだけで、各サイトを訪れるのはご遠慮いただけますと嬉しいです。



前回と今回とで皆さまと共に見てきたように、これはまったくの空言です。
ただ、「暴死」にひっかかった身として、状況証拠から推測できる気がします。

長年、柳川の歴史を記述する図書や雑誌には、だいたい渡辺村男の著作が引用されてきました。「立花貞則が豊前大里浜で暴死」は、そのまま孫引き、ひ孫引きされていきます。その間に、どこかのだれかに魔が差したのでしょうか?

先のブログ「殿さんが騙された?大広間の瓦の疑惑」の事例と同じく、ここでも誰かが、貞則の死の隠蔽の理由を、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、幻想を作ってしまったのでしょう。
そして、”暴” “死” “浜”の組合せが、センセーショナルなイメージを掻き立てるような、しないような。





インターネットに漂う仇花、その発生の経緯は大変興味深いのですが、誰にとっても迷惑でしかありません。存在しないものを無いという証明は難しく、流れてくる全てを摘み取るのはとても面倒……

願わくば、世の人々が「立花貞則」をWeb検索したときに、このブログのタイトルが上位あがってきますように。



参考文献
渡辺村男著 柳川山門三池教育会編 『旧柳川藩志』1957 福岡県柳川・山門・三池教育会 、柳川市史編集委員会 編 『新柳川名勝図絵 』2002.9.30 柳川市( 「渡辺村男と柳河史談会」123-126頁、「対山館文庫」138・9頁、「立花家の歴史編さん」143・4頁)

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6代藩主 立花貞則、 生者のまねして柳川城に入る

2023/5/3

立花家史料館の学芸員として思うところがありましたので、あらためて柳川藩6代藩主・立花貞則の生涯を、皆さまと共に史料でたどってみます。



まずは、江戸幕府が編纂して文化9年(1812)にまとめた、大名旗本諸家の家譜集成 『寛政重修諸家譜』 から。柳川藩主立花家の項目は、8代鑑寿(~1820)の長女誕生までが記されています。



貞則 〔引用者註:父は柳川藩5代藩主 貞俶〕

虎吉 虎之進 丹後守 伯耆守 飛騨守 従五位下 従四位下

母は上〔柴田氏〕 におなじ。嫡母のやしなひとなる。

享保十年〔1725〕柳河に生る。

元文四年〔1739〕八月十五日 はじめて有徳院(吉宗)に拝謁す。時に十五歳 五年〔1740〕十二月二十一日 従五位下丹後守に叙任し、寛保二年〔1742〕六月五日 伯耆守にあらため、延享元年〔1744〕七月十三日 遺領を継、十九日 飛騨守にあらたむ。二年〔1745〕閏十二月十六日 従四位下に叙す。

三年〔1746〕四月十八日 はじめて城地にゆくのいとまをたまふ。七月二十七日 柳川にをいて卒す。年二十二。 廓融性瑩等覚院と号す。彼地の福厳寺に葬る。

『寛政重修諸家譜』 第1輯 巻百十二 立花 686頁(下記の書誌 354コマ目)

『寛政重脩諸家譜』第1輯,榮進舍出版部,1917.
国立国会図書館デジタルコレクション〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります*



貞則さんの20年ほどの経歴の、オフィシャルな記録です。
今回の注目ポイントを太字にしています。



オフィシャルがあればプライベートな記録もあります。

立花家に伝来したいくつかの系譜から、立花家の祖となる大友能直から11代藩主鑑備までを書きあげた系譜「御内實御系譜下調」の、貞則の項をみてみます。この系譜は天保年間(1830~44)以降の記述がないので、その頃に成立したのでしょうか。

貞則 

享保十二年〔1727〕丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家〔柳川〕 ニ生ル 

(中略)*貞則の項の全文は本ブログ末に記載*

同年〔1746〕六月二十日 東都〔江戸〕ヲ発シテ封〔柳川〕ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜 ニ卒ス 行年二十一歳

嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月二十一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城 〔柳川城〕 ニ入ル 同二十三日 急ニ四箇所藤左衛門〔通久〕ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎ム 同二十六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香〔7代藩主 鑑通〕ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 二十七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日

同月二十九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名 等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク

「御内實御系譜下調」 当館蔵 柳川古文書館寄託  ※ここでは廿を二十と変換



あれれ~おかしいぞ~

そうです、1727→25と、オフィシャルな記録の生年が、2年早くなっています。

実は、武家当主の年齢詐称の事例は少なくありません。
江戸時代、大名や旗本の死は、お家の安泰を左右する大問題でした。トップが次代へ相続できなければ、家臣たちは職を失います。

幕府に届け出た実子や養子がないまま当主が亡くなると、家は断絶という武家相続の法がありました。1651年には、死の寸前(末期)でも、存命中に養子を願い出ればよしとする「急養子」(末期養子)が認められますが、当主が17歳以上50歳未満に限るという条件が付けられます。

当主が17歳になるまで、常にお家存続の危機にさらされ続けますが、回避するには年齢を詐称するしかないのです。貞則も4歳の時の届出で、2年多めに盛られました。


1744年に6代柳川藩主となった貞則は、年中行事ごとに江戸城へ登城する公務をこなしていましたが、1746年に藩主として初めて国元の柳川へ入るため(「初入部」)旅路につきます。

再び、オフィシャルな記録とプライベートな記録を見くらべてみましょう。



あれれ~おかしいぞ~

そうです、貞則が亡くなった場所と日にちが違います。
プライベートな記録の、詳細で複雑な描写を追ってみます。


6月20日 江戸を出発 発病 →だんだん病状が悪化
7月17日 豊前国大里の浜〔現在の福岡県北九州市門司区〕 にて亡くなる→養子がいないので隠蔽

7月21日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル
つまり、貞則の遺体を生きているように見せて柳川城に到着しました。

7月26日 弟・鑑通を養子とする届出をもった使者が柳川出発
7月27日 この日に貞則が亡くなったとして、死を公表



貞則の急死による無嗣断絶から逃れるために、死を隠蔽し、「遺骸を生者として入城」 させ、亡くなった日を10日遅らせて公表したのです。

後世からみると、「早めに養子の届出をしてれば」とか、「ここまでして10日だけ?もっと余裕もったら?」とか、言いたいところですが、結果として、無事に弟の鑑通への相続が認められ、柳川藩主立花家は存続できました。



貞則の例は、船上での死なので煽情的な経緯となりましたが、「末期養子」の都合上、届出は当主の存命中に限られるため、当主の死の隠蔽は珍しくはなかったようです。無嗣断絶の混乱を避けたいと、幕府も黙認していたように見受けられます。
したがって、立花家に限らず、どこの家でも、建前をオフィシャルに記録し、実情はプライベートな記録として手元に残していたのでしょう。



オフィシャルな記録に簡単にアクセスできても、プライベートな記録が秘されているなら、“歴史の真実”は隠蔽されつづけるのではないか?と思われた方、



安心してください。柳川古文書館があります。




柳川藩主立花家から立花家史料館へと伝来した、重要文化財「大友家文書」「立花家文書」をふくむ3万点以上もの貴重な古文書・古記録類は、柳川古文書館に寄託され、その管理のもとで調査研究が進められています。

そして今、この全史料をネット上で公開する計画が進行中!
近い将来、よりスムーズに柳川藩主立花家のプライベートな記録へアクセスできるようになります。

しかし、ネット上の公開を待たずとも、すでに刊行された書籍があります。

わたしの専門は美術工芸品なので、文字史料の扱いは得意ではありません。
今回は本題のため自力で苦心していますが、柳川市の市史編さん事業で刊行された書籍には、貞則のことも、もっと詳しく、わかりやすく書かれています。

系譜1点をそのまま紹介するのが精一杯のわたしとは違い、柳川古文書館の学芸員さんをはじめ、文字史料の専門家たちは、考えうるかぎり史料を集め、その真偽を丁寧に検討した上で、調査・研究を進められています。 市史編さんの刊行物 では、その成果が平易な文章で解説されているのです。





とくに、柳川藩主立花家に関連する刊行物は、ここからもご購入いただけます。




貞則のことは、「貞則の急逝」(柳川の歴史5『柳河藩の政治と社会』143-145頁)、「貞則と鑑通」(柳川市史別編『図説立花家記』72・73頁)を中心に読むだけで、長年の緻密な調査・研究の集大成をお手軽に享受できます。ブログ執筆中に抱いた私の疑問の回答も、すでに書いてありました。さすがエキスパート!



そして、ここまでが前段階……やっと本題にたどりつきました。

それでは次回、「6代藩主・立花貞則、豊前大里浜で暴死す」!!
長くなってますが、どうかお付き合いください。





「御内實御系譜下調」の貞則の項の全文はこちら。ご興味のある方はどうぞ。

※ 下記史料の内容に関しては誤りのないよう心がけましたが、入力に際して適切にWeb上で再現できない、あるいは原文の表記と異なる場合がありますのでご留意ください。
※割註〈 〉、引用者註[ ]

貞則
従四位下  丹後守 伯耆守 飛騨守 幼名 虎吉 虎之進
 母ハ立花弾正源貞晟ノ女。〈名於千〉
 実母ハ諒體院。〈柴田氏 名ハ於由井〉
享保十二年丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家ニ生ル 六月十六日 山王社ニ詣テ直チニ内城ノ二ノ丸ノ館ニ入ル
同十九年甲寅三月廿六日 立テ嫡子ト為ル〈九歳〉
同二十年乙卯正月元旦 広間ニ於テ諸士之礼ヲ受ク
元文三年戌午五月十七日 花畠之亭ニ移ル
同四年巳未三月三日 世子ト称ス 同月五日 柳河ヲ発シ四月四日 東都ニ至ル 吉弘五左衛門統倪傅ト為ル
同年八月十五日 始テ吉宗公ニ拝謁ス〈太刀馬代金縮緬ヲ献ス〉
殿中ニ於テ座席未ダ定ラナク時ニ朝老松平左近将監〔乗邑〕告テ曰 立花者世々良家也大廊下杉戸ノ内ニ座スベシト也〈時ニ年十三〉
同年九月九日 節句始テ登営ス
同年十一月十五日 始テ月次ノ御礼トシテ登営ス
同年十二月 朔日疱瘡ス
同五年庚申嘉定玄猪共ニ営ニ登ル
同年十二月廿一日 従四位下ニ叙シ丹後守ト改ム 同廿八日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金ヲ献ス〉
寛保元年辛酉六月廿六日 額ヲ隅シ袂ヲ短ス
同二年壬戌二月廿二日 加冠ス〈年十六〉
延享元年甲子五月廿五日 貞俶卒 同七月十三日 朝命ヲ受テ立ツ〈朝老 松平左近将監〔乗邑〕 邸ニ召シテ台命ヲ伝フ〉
是日飛騨守ト改ム〈時ニ年十八〉 同日廿八日 家督之御礼ト為シテ登営ス 〈太刀馬代金三枚綿三十把之献ス 蓋シ諸家家督之御礼ニ黄金三十枚綿三百把ヲ献ス 特例也頃者命ヲ下シテ之ヲ減ス以テ十分一ト為ス〉 是日国老二人御目見〈矢島采女 小野織部 各ゝ馬代銀一枚ヲ献ス〉 貞俶之遺物ヲ献セズ〈是ヨリ先命ヲ下シテ諸家遺什ヲ献ル者ヲ禁ゼラル故也〉
同二年乙丑閏十二月十六日 従四位下ニ叙ス〈年二十〉
同三年丙寅正月七日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金之献ス〉 同月十二日 問注所三右衛門康端ヲ京都ニ使シテ口宣及ヒ位記ヲ拝受ス

同年六月廿日 東都ヲ発シテ封ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜ニ卒ス 行年二十一歳 嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月廿一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル 同廿三日 急ニ四箇所藤左衛門ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎シム 同廿六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 廿七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日也
同月廿九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ于朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク

「御内實御系譜下調」 (柳立85) 当館蔵 柳川古文書館寄託  

参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、 大森映子「大名相続における年齢制限をめぐって」(『湘南国際女子短期大学紀要』8号 2001.2月 湘南国際女子短期大学、柳川市史編集委員会 編 『図説柳川家記』2010.3.31 柳川市、白石直樹『柳川の歴史5 柳河藩の政治と社会』2021.3.31 柳川市

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100年前の手仕事が、現代の機械には難しい……

2023/3/25

立花伯爵邸「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的に、平成28~31年(2016-2019)の修復工事は実施されました。
屋根瓦の葺き替えは、現代の機械により省力されましたが、機械化があだになった工程もあります。

とくに「大広間」の内装工事では、100年前の手仕事と、機械化が進んだ現代とのギャップに苦心しました。

例えば、「大広間」のガラス障子の格子模様。
奈良の金剛砂(柘榴石)を吹きかけて削る、サンドブラストという技法によります。

【修理前】格子模様のないガラスが補完されています

修理工事では、(株)クライミング に、「大広間」のガラスを模造してもらいました。
通常は、ブラスト加工と薬品処理で “表情豊かなガラスを創る” を実現されている会社ですので、単純な格子模様はまったく難しくなかったのですが、意外な落とし穴がありました。

ガラスの厚さです。
明治43年(1910)築「大広間」のガラスは厚さが2mm、現代の一般住宅でよく使われるのは3~6mmなので、すこし薄めです。

この厚さ2mmのガラスに、通常どおり機械で砂を吹きかけると、ガラスが割れてしまいます。
しかし、風圧を落とすと、砂がノズルに詰まってしまう……

「大広間」の建具は厚さ2mmにあわせて作られているので、ガラスを厚くする手もありません。

職人さんも予期せぬ難点でしたが、「割れるな」と念を込めながら微調整を繰り返した結果、100年前の「大広間」のガラスが模造されました。

【修理後】すべて格子模様のガラスが補完されました

それ以上に苦心したのは、やはり「大広間」の壁紙です。




もう一度、修理前の壁紙をご覧ください。

【修理前】「大広間」東床の壁紙

お分かりいただけますでしょうか?

そこここに模様が抜けている箇所があります。

模様が緊密だと息苦しくなるため、適度に空白をつくり、軽やかに仕上げたのでしょう。
とってもお洒落です。

しかし、この空白をつくり出すのが一苦労でした。

京都から来た株式会社 丸二の職人さん達・設計監理・現場監督の三者により検討が重ねられました。

空白に法則性があるかも?と、長時間にわたり壁紙と向きあい続けた職人さん達。

ついには「”寿”という文字が見える!」と口走りはじめました。

あたかもランダム・ドット・ステレオグラムのように、「目を凝らせば見える」と。

ランダム・ドット・ステレオグラム一昔前に流行しましたが、ご存知でしょうか?
わたしは見えた経験は全くないのですが、言われるがままに壁紙を凝視します。


なんとなく”寿”が浮かびあがってくるように感じました……



結局、無作為だろうという判断におちつきました。



元々の「大広間」の壁紙の模様は、版木をつかって擦られたものでした。

株式会社 丸二さんが、版木による色擦りについて、とてもわかりやすい動画を公開されています。

「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)

絵具のせの段階で、のせたりのせなかったりと、無作為にムラをつくったのでしょう。

当時の職人さんの気持ちでつくられた空白には、文字は隠されてないはずです。



壁紙を張り替えるにあたり、この”無作為”が、最大の難点でした。

現代でも動画のように手仕事をお願いできますが、予算をとてつもなく超過してしまいます。

文化財を末永く保存活用していくためには、無尽蔵ではない予算を上手に配分せざるを得ません。
補助金を交付する国・福岡県・柳川市と相談しながら、名勝立花氏庭園整備委員会で修理の方針を決めていきます。



現代の機械をつかって、可能な限り「大広間」の壁紙に近いモノを制作することになりました。
つかう技法は、版木のような凸版ではなく、孔から絵具を通して刷る孔版です。ステンシルや合羽刷りともいいます。

“寿”を空目した職人さんたちにより、バランスよく空白を入れた4パターンの型紙が描きおこされました。

4パターンの型紙 福井県越前市 前田加工所にて

そこに、金銀2色刷と組み合わせることで、意図的に無作為をつくり出しました。(わたしは計算が苦手なので、4パターンの型紙×2色の場合、何通りの模様が出来るのか全く見当もつきません)

金色のみ印刷した壁紙 福井県越前市 前田加工所にて

100年前の手仕事とくらべると、すごく遠回りはしましたが、現代の機械でも、適度に空白のある軽やかな壁紙が出来ました。

【修理後】「大広間」東床の壁紙

わたしには見えませんが、もし”寿”の字が見えた方がいらっしゃいましたら、挙手をお願いします。



参考文献
株式会社クライミング(福岡県みやま市)HP株式会社 丸二(京都府)HPYouTube動画「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑

2023/3/15

平成28~31年(2016-2019)の修復工事がはじまる頃、(株)御花の古株社員の某氏から、深刻な表情で話しかけられました。

某氏「今度の修理では大広間の瓦もやりますか?」

「やります!すべて葺き替えます!これで雨漏りに悩まされなくなりますよ!」

暗い顔の某氏「今の瓦はどうなりますか?」

「残念ながら記録を残して廃棄ですねぇ」(古い瓦に愛着があるのかな?)

さらに暗い顔の某氏「言っていいものかどうか迷うのですが……」

「そんな話こそ聞きたいです!」

某氏「あのですね……新入社員の頃に大先輩から聞いた話なのですが」

(ワクワク)

某氏「大広間の建築資材は大阪から船で運んできたそうで」

(口伝だ!大阪から運んだことは報告書でも読んだぞ〔註1〕

某氏「その船上でですね」

(船上!ワクワク)

声をひそめた某氏「大広間のための瓦が粗悪品とすり替えられたそうなんです……」

(え!!!!)

某氏「木材は建てた後も殿さん〔註2〕の視界に入るけれど、瓦は屋根に載せたら最後、絶対に殿さんの目には入らないからバレない、と」

(すごくもっともらしい!騙され方が、とても殿さまっポイ!)

某氏「大広間の瓦は、出来が良くないからヒビが入って、だから雨漏りするんですよ」

(これは事実。実際、大広間の瓦は焼き締めがあまく経年劣化が激しいです〔註3〕

某氏「柱などの木材はすべて立派じゃないですか」

(これも事実。選りすぐりの木材が使われています〔註4〕

某氏「木材と瓦の品質に差がありすぎるのは、殿さんが騙されたからだと大先輩が言ってました」

(ちゃんと筋が通ってる!信じちゃう!)

深刻な某氏「殿さんが騙された話は、おおっぴらには言えないので、今まで黙ってきました」

(えらいな、社員の鑑だな)

とても深刻な某氏「でも、瓦も修理するなら、白日の下にさらされるのですよね……」

「安心してください、殿さんは騙されていません。大前提が違ってます。木材は大阪から取り寄せましたが、瓦は地元の柳川周辺でつくられたものです

某氏「え!!!!そうなのですか?
でも、木材はわざわざ遠方から取り寄せたのに、なんで瓦はそうしなかったのですか?」

「それはですね、瓦はとても重く、そして大量の瓦が必要だったからです。 当時の輸送力では、遠方から瓦を運ぶのはとても難しく、地産地消となったのです

某氏「じゃあ、騙された殿さんはいなかったのですね、よかった……」

以上、多少脚色しましたが、実話です。


おそらく御花の大先輩は、目の前のチグハグさを、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、知らずにストーリーを作ってしまったのでしょう。とても興味深い事例です。
そして、殿さんが騙された話は絶妙に面白く、確証がなければ、わたしも完全に否定できなかったかもしれません。

註を解説しながら、騙された殿さんがいないことを証明していきます。

まずは、註2:殿さんは、柳川ではトンさんと読みます。


註1
国の指定文化財を、国・県・市などから補助金を交付されて修理する場合、修理の前後をきちんと記録に残すために、報告書を作成しなければなりません。

(株)御花が主体となって実施した修理工事の報告書は、2007年『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』、2020年『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』の2冊があります。

報告書の作成にあたり、有明高等工業専門学校建築学科教授・松岡高弘氏と(株)河上建築事務所・河上信行氏が中心となって、残された図面や古文書類まで丹念に調査され、その成果も報告書にまとめていただきました。

とても充実した内容の、自慢の報告書です。


註3
立花伯爵邸の瓦は、瓦に刻印された地名から、地元柳川でつくられたことがわかります。

現在、全国の瓦の多くは、限定された生産地域でつくられた機械製品です。しかし、昭和初期ころまでは、それぞれの土地で焼かれた手作りの瓦がつかわれていました。

修理前の瓦は、土の耐火度が低いために焼き締めが十分でなく、100年の経年劣化もあわせて、「凍害」「割れ」「欠け」のある瓦が多く見られました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、明治期の瓦に色が近く、耐久性のある瓦をもとめ、瓦の日本三大産地のひとつ、愛知県の三州瓦を約1万3千枚つかっています。


註4
立花伯爵邸の材木「御建築用材」の調達は、成清仁三郎さんが請け負い、長崎・大阪・名古屋で材木の市場調査の末、材料や木挽人夫等の手間賃の高騰に困らされながも、ケヤキ・ヒノキ・スギ・ツガ・マキ・タガヤサン等を大阪から納入したことが、残された文書資料からわかります。

ただし、修理で発見された板の摺書には、秋田や宇都宮の地名も見られるので、全国から集められた中で選りすぐりの良い材木を見分したのでしょう。



報告書では、刻印や摺書の写真や、ほかの文書資料なども掲載され、註3と註4がさらに詳述されています。



実際の修復工事にて、大型トラックやクレーン車、瓦を屋根に揚げる機械「瓦揚げ機」の大活躍ぶりを目にすると、100年以上前に人力のみで瓦を葺いた際の労力は計り知れません。

この修復工事をつぶさに見学した経験と、報告書の記録により、 わたしは確信をもって瓦の疑惑を否定することができます。


ですが、歴史を学ぶ必要性を実感する、とても良い教材となりました。


参考文献
名勝松濤園修理事業委員会 河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花伯爵邸には無いモノを紹介します

2023/3/5

前回よそのお宅をのぞいていると、立花伯爵邸には無いモノが、とても気になりました。




目の前の作品を解説するとき、無いモノは説明しづらいので、在るモノだけを紹介せざるをえません。
しかし、無いモノにも、無いことの理由があり、”無い”という特徴になるのです。

そこで、前回Googleマップストリートビューで訪れた、「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」に在って、立花伯爵邸には無いモノを紹介します。



立花伯爵邸には、趣向を凝らした天井がありません(ただし、洋館はのぞく)。



重要文化財「旧伊藤家住宅」(福岡県飯塚市)はどうでしょう?

北棟「本座敷」廊下が、矢羽 ヤバネ 天井となっています。

柾目の板を斜めにして、V字を連続させたような文様に貼り、錯視効果を狙ったともいわれます。
畳を横使いに敷き詰め、広さが強調される畳廊下は約50mつづきますが、欄間で区切られた、本座敷と次之間の範囲外は、装飾性が低い棹縁 サオブチ 天井です。

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趣向を凝らした天井をもつ廊下は、重要文化財「旧岩崎家住宅」(東京都台東区)にもあります。

洋館と和館がつながる廊下が、船底 フナゾコ 天井です。横にわたされる梁は、岩崎家の家紋にちなんだ三菱紋形に削り出されているそうです。

並べてみると、どちらも廊下が長く見える効果を狙っているように感じます。
ちなみに、両者の廊下の幅はおおよそ同じです。



旧長州藩主の毛利家が大正5年(1916)に建設した重要文化財「旧毛利家本邸」山口県防府市)では、角材を格子に組んだ格 ゴウ 天井が、重厚さを醸しだしています。

格天井(小組格天井)は、この部屋「本館客室(一階大広間)」の格式の高さをあらわします。
向かって左奥、床の間がある部屋は、天井の中央部分を一段高くへこませた折上 オリアゲ 格天井にして、さらに高い格をあらわしています。*Googleマップストリートビューではのぞけませんので、ぜひ現地へ*



当主家族が食事をとる部屋「食事ノ間」の天井もスゴイ‼
内側は格天井で、一枠ごとに木目の方向を互い違いに配しています。
周囲を囲むのは一枚板なのでしょうか?



「旧毛利家本邸」では、このように、いたるところで豪奢な木材を堪能できます。
例えば、玄関から応接間にいたる廊下は、台湾産の巨大ケヤキの一枚板です。 加えて、部屋部屋を仕切る各板戸は屋久杉(神代杉)の一枚板。

一枚板とは、大きく育った一本の木から切り出された、継ぎも接ぎもない板のこと。とくに節がなく木目が美しいものは珍重されます。



立花伯爵邸には、このような一枚板はありません。



もちろん、立花伯爵邸「大広間」や「御居間」の柱や長押に使われているスギ材は、すべて均一な柾目で、とても上等です。他の部材も、伯爵邸の建築にあたって選び抜いた大量の高級木材を、大阪から運んできました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、屋根裏にいたるまで贅沢に木材を使っていると、どの大工さんも褒めてくださいました。

でも、立花伯爵邸には一枚板は無く、わかりやすいケヤキやヒノキも無いのです。



しかし、趣向を凝らした天井も一枚板も無いことが、立花伯爵邸の特徴-明るさと軽やかさと新しさ を、より際立せているとも言えます。


とくに、重厚でゴージャスな毛利公爵邸と、軽妙でスタイリッシュな立花伯爵邸と、それぞれの個性が対照的なのも、大変興味深いです。



今回は、重要文化財「旧伊藤家住宅」も、重要文「旧岩崎家住宅」も、重要文化財「旧毛利家本邸」も、立花伯爵邸と比較するために、ごく微細な部分しか取り上げておりません。

どれも見どころ盛りだくさんの素晴らしい建物ですので、Googleマップストリートビューでも楽しめますが、ぜひ実際に訪れて、床の間を見て、天井を見て、各部材をイチイチ見て、同行者や周りの人々から不審がられてください。



【2013.3.14追記】
浅学のため見逃していました。毛利博物館の柴原館長が、「旧毛利家本邸」の見どころを解説される、贅沢で素晴らしく、とても勉強になる動画です。レポーターの方がとても羨ましい…… 豪奢な木材も十分に堪能できます。

You Tube「防府市公式チャンネル」

『重要文化財 旧毛利家本邸(前編)』(ほうふほっとライン:2021年7月放送)

『重要文化財 旧毛利家本邸(後編)』(ほうふほっとライン:2021年8月放送)



参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸(福岡県飯塚市)、
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビュー (飯塚市提供)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」、毛利博物館(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会、YouTube「防府市公式チャンネル」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。




最近は床の間のない住宅が主流になりつつあります。
床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も多くはありません。
床の間になじみのない方に、テキストだけで説明するのは難しすぎるのだけれど、どうしよう……


そんなときは新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。
立花伯爵邸内のGoogle撮影に立ち会ったのに、すっかり忘れていました。
画像の拡大も、360°回転も可能です。


さっそく、立花伯爵邸「大広間」東床を、のぞいてみましょう!

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ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にうってつけのメディアです。
東床と西床とが並べられ、間違い探しも楽しめます。




立花伯爵邸「御居間」棟にも「床の間」があるので、この機会に並べてみましょう!

現在「御居間」は柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用され、通常の有料見学範囲には含まれておりませんのでご注意ください



最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

左上に見える欄間の意匠は「帆の丸祇園守紋」。立花家の家紋「祇園守紋」のバリエーションの1つです。

*薄字の解説はご自由に読み飛ばしてください*

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。



ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。



隣は寛治の書斎であった「鈴の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

右をのぞくと見える欄間の意匠は「崩し祇園守り紋」。これも立花家の家紋のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。




「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。
伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左上に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



寛治の三番目の妻・鍈子(明治31年結婚)の居間が「花の間」です。
伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左をのぞくと見える欄間の意匠は梅、やわらかく洒落た雰囲気になっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



なんということでしょう!
各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。

さらに、視点を変えられて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

「御居間」の「床の間」を並べると、当主をトップとするヒエラルキーが見えてきます。
柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅だからこそでしょうか?

よそのおうちの「床の間」がとても気になる……
それに、数多くの作例を見るほど、「床の間」を “見る目” も養われていくはずです。


今回は、明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準作とし、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、《オンラインツアー「床の間」拝見》にGO!!



まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビューもオススメです*

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。
さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。かわりに襖に趣向が凝らされ、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。



床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格が下げられています。
ちなみに、紙貼り付け壁ですが、「四分一」はつけられていません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱は鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。 伯爵家から傳右エ門 嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1.5間の畳床、床柱は赤松の面皮柱筍面付、床框は三色黒漆塗の面皮塗残し、丸竹の落掛け。床脇は欅玉杢の一枚地板に亀甲組の天井が見えます。





次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

全体に伝統的な和風意匠を用いた住宅建築……大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。

文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』) より引用

贅を尽くした旧毛利家本邸では、 誰もが豪華さに圧倒されるでしょう。
さらに、”11万石外様” “伯爵”というウチ (立花伯爵邸) を基準としながら見ると、”薩長土肥” “公爵” という風格がより明確に感じられるので、オススメです。

*事前に「立花伯爵邸」(立花家史料館)をご見学いただいておくと、「 旧毛利家本邸」(毛利博物館)を十二分に楽しめます。ぜひ先に「立花伯爵邸」へどうぞ。
見る順が逆だと、ウチがしょぼく見えてしまうかもしれませんが、ウチには”西洋館”があるので大丈夫です *



わたしのイチオシの「旧毛利家本邸」の「本館客室(一階大広間)」をのぞきましたが、絶妙な画角での撮影で「床の間」を拝見することができませんでした。 惜しい!
とてもゴージャスなので、ぜひとも現地でご覧ください。





最後は、洋館と和館を併設した住宅というつながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名です。

今回は「大広間(和館)」をのぞいてみます。
床柱は正角、おそらく杉の四方柾でしょうか。この部屋の格の高さがわかります。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。
*勉強不足のため、この「床の間」の形式は、今後の課題です。畳床の畳を特注せず、縦に畳を使っている点が、とても合理的に思えます*




このオンラインツアー、とても楽しいです。
結論は、「みんなちがって、みんないい」



参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸HP(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、『飯塚市指定有形文化財 旧伊藤伝右衛門邸修復工事報告書』2007.3.31 飯塚市、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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フレキシブルな「大広間」床の間[後半]

2023/2/22

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の西側の床の間「西床」を復原しました。




参考としたのは、一枚の古写真と柱や梁に残された痕跡です。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

河上建築事務所による入念な調査の末に、復原のための設計がなされました。

理想としては、元の「西床」の木材を再利用したいところですが、関係者一同、誰も心当たりがありません。
ステージの改造は、およそ半世紀前。
当時は文化財であるという意識も薄かったので仕方ないと諦めて、新造する設計になりました。

修復工事がはじまった頃、わたしは倉庫で丸太につまずきました。
年に5回ほどしか来ない倉庫なので、毎回忘れて、毎回つまずくのです。

なぜここに 丸太が 転がっているのだろう?
長くて重くてすごく邪魔……と思った瞬間、ハッとひらめきました。

これって「西床」の木材じゃない?!

きちんと見ると、長さ12尺(3.6m)ほどの鉄刀木 タガヤサンで、ホゾ穴があき、加工されています。東南アジア産の鉄刀木は、漢字のとおり非常に硬くて重い高級木材であり、よく床柱として使われる材です。

急いで設計監理の河上先生に報告すると、フレキシブルに設計が変更され、「西床」の床柱として組み込まれることになりました。



きれいに洗われて、今では立派な床柱によみがえっています。




見るたびに、これぞ適材適所としみじみ思います。


修復工事後に、戦前から立花家・御花に勤めていた番頭さん(故人)が「大広間の床柱と仏間廊下のケヤキ板を床下に入れた」と仰っていたという証言を聞きました。
現時点では床下ではなく倉庫ですが、ケヤキ板もちゃんと保管されていますので、ここに記しておきます。



よみがえった「西床」の床柱は鉄刀木の面皮柱です。
「東床」はどうでしょうか?



2017年8月のGoogle撮影時は床框 トコカマチ(床の間の前端の化粧横木)に保護カバーが被せられていますので、こちらもご覧ください。

大広間「東床」修復後
ちなみに修復前の「東床」

お分かりいただけますでしょうか?

「東床」の床柱は杉の角材です。
数寄でも侘びでもなく、まったく面白みはありません。

しかし、この柱は「四方柾 シホウマサ」
四面すべてを細めで均一な柾目 マサメ(まっすぐな木目)にするために、数倍の大きさの丸太から贅沢に切り出された最高級品です。

また、縦の床柱と横の長押 ナゲシ との接点(釘隠 クギカクシ のある所)での、長押が裏までまわりこむ取付き「枕捌 マクラサバキ」や、床框の黒漆蝋色塗 ロイロヌリ での仕上げなど、すべてに手間がかけられています。

つまり「東床」は、最も格式が高い床の間としてつくられているのです。

ちなみに「西床」は、長押が床柱の正面でとまる「雛留 ヒナドメ」という取付き、床框は拭き漆仕上げとなっていて、一段階ほど格が下がります。

それでも、床の間の畳「畳床」にはサイズ(東床は約390×120cm、西床は約242×95cm)に合わせた大きな特注品(一般的な畳のサイズは約182×91cm)が使われるなど、シンプルですが贅沢です。



修復工事では、「東床」の床框も塗り直しました。

「東床」の蝋色塗仕上げも、 「西床」の拭き漆仕上げも、どちらも丹念な手仕事です。とくに「西床」は、 参考資料が白黒写真しかなかったため、色合わせに苦心しました。

木地に油分を含まない漆を塗り、木炭で研ぎ出し、さらに磨いて光沢を出す「蝋色塗仕上げ」の工程は、古研ぎ→錆繕い・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り鏡面仕上げ。
木地に透けた漆を塗り、余分な漆を拭き取る「拭き漆仕上げ 」の工程は、生漆固め・研ぎ→ 錆下地付・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り。
どちらも下塗り3回に上塗り1回という工程を重ねています。


この艶めき、キズひとつ付けてはならぬ!と心に誓いました。


実際の「大広間」では、どうか、お手を触れずにご鑑賞ください。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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フレキシブルな「大広間」床の間[前半]

2023/2/13

明治43年(1910)築の立花伯爵邸「大広間」が誇る、 “明るさと軽やかさと新しさ” 、その “新しさ” のアピールポイントは、まだあります。




再び、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、 『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手にまた選んでみました。

「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

しかし、今回は床の間の向かい側をくらべます。
お手数ですが、3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』「大広間」(Matterport)にて、ふりかえってみてください。

*実際にふりかえると、畳廊下をはさんで「使者之間」があります。つまり、「大広間」からは出てしまいます*



では、立花伯爵邸「大広間」は? 

立花伯爵邸のGoogleストリートビュー「大広間」 にて、ふりかえってみてください。

お分かりいただけますでしょうか?

ふりかえると見えるのは、こちらの床の間です。

立花伯爵邸「大広間」西床 修復後

そうです、
立花伯爵邸「大広間」には、床の間(床・棚・付書院)が2つあるのです。

『高山陣屋』のような近世の書院造では、一方向の軸性が強調されます。

他方、立花伯爵邸「大広間」は、南側の庭園「松濤園」を隅々まで見わたせるような部屋の配置で、東西に床の間があるため、横の広がりを感じさせます。

東の床の間が主であり、西の床の間は、広間を分割して使用する際につかわれたのでしょう。
このフレキシブルさが、近代ならではの新しさだといえます。



実は、今ご覧いただいている西の床の間「西床」は、平成28~31年(2016-2019)の修復工事によって復原されたものです。

修理前はステージが設けられ、貸会場として「大広間」を利用される際には大活躍していました。

立花伯爵邸「大広間」西側ステージ 修復前

もちろん、明治43年(1910)の建築当初は、写真のような床の間でした。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

昭和42年(1967)ころには、ステージへと改造されたようです。

床の間 → ステージ → 床の間復原 という変遷なら、をみると、ステージの時代は不要だったと思われるかもしれません。
しかし、フレキシブルに姿を変えてきた「西床」は、立花伯爵邸の歴史をそのまま反映しているのです。



昭和25年(1950)に立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なった状況で、収入源を確保するため、立花家は料亭・旅館業をはじめます。

「大広間」は、宴会場として地元の人々に頻繁に利用されるようになりました。
宴会には余興が欠かせません。
需要にこたえて「西床」が解かれ、ステージが設けられたのです。

時代に即したフレキシブルに 改装などにより、料亭旅館「御花」は創業70年をこえる老舗となり、立花伯爵邸は失われることなく、新築時からの姿を大きく変えずに残されました。


築50年は珍しくはありませんが、築100年をすぎると文化財として扱われるようになります。現に、旧大名家の明治期の住宅が良好に保存されている例は全国的に見ても希少であり、立花伯爵邸をふくめた「立花氏庭園」は、国の名勝に指定されています。



文化財となると、今度は「変わらない」努力が求められます。

文化庁の指導に基づき、国・福岡県・柳川市のご協力を賜りながら、適切な維持管理に努めるなかで、「大広間」の修復工事が計画され、そこに「西床」の復原も組み込まれたのです。
文化財建造物の修理の際に、改造前の姿に戻すことを「復原」と言います。


それでは、一枚の古写真と、柱や梁に残された痕跡をもとに、「西床」はどのように復原されたのでしょうか?




参考文献
高山陣屋HP(岐阜県)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ

2023/2/6

立花伯爵邸「大広間」の明るさと軽やかさのヒミツは、修復前の写真にも写っています。

お分かりいただけますでしょうか?

2016年7月 修復工事の直前

現代を生きる私たちは、明るくて広い室内空間に慣れすぎているため、驚きなく「大広間」を受け入れてしまいます。

よく畳の数を質問されますが、わたしが宣伝したいのは軽やかな開放感です。

ただし、「大広間」は襖で3室に区切られますが、近年はすべての襖をはずしているので、より開放感が増しております。

蛇足ですが、平成28~31年(2016-2019)の修復工事 で新調全交換した「大広間」の畳の数は、97枚+半畳2枚+本床2枚です


立花伯爵邸「大広間」は、室町時代にはじまる住宅建築の様式「書院造」をきちんと踏襲し、旧大名家にふさわしい格式を備えています。

書院造 →わかりやすい動画解説「書院造」(『NHK for School』)

本来は呼称のとおりの書斎でした。
 例:『吉水神社書院』【重要文化財】、『慈照寺東求堂【国宝】

時代が下がると、接客や儀礼の場として使われるようになり、大規模な書院もつくられました。
 例:『二条城 二の丸御殿【国宝】、『本願寺書院(対面所及び白書院)【国宝】、『名古屋城 本丸御殿(復元)』

※画像が見られる例を選びましたので、ぜひ各サイトもご覧ください。とくに名古屋城本丸御殿は、3Dバーチャルツアー (Matterport) 『本名古屋城丸御殿(表書院をスタート地点に設定)』も楽しめます。



しかし、明治41年(1908)築の立花伯爵邸「大広間」には、近代ならではの新しさもあります。


新しさを実感できるよう、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手に選んでみました。

岐阜県高山市「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

立花伯爵邸「大広間」修理後の写真ですが、見くらべやすいので

このように並べると、よくわかるのではないでしょうか?

立花伯爵邸「大広間」の柱の数が少ないのは、一目瞭然です。

3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』(Matterport)では測定もできます。
ためしに比べると〔 高山陣屋/立花伯爵邸 〕、 柱と柱の間は1.7m/5.88m と、立花伯爵邸「大広間」が3倍も広くなっています。ちなみに 柱の高さ2.83m/3.64m 、柱の太さ12cm/15cm でした。

2017年6月 障子の張り替え


また、障子・ガラス障子・欄間障子がはめられていて見過ごしがちですが、とにかく壁面がありません。
加えて天井も高いので、とても明るく軽やかで開放感がある室内空間となっています。






2017年7月 細い柱と長押しかありません



この開放感ある室内空間は、建築当時の新技術によって実現できました。
明治時代に日本へもたらされた技術の1つ、トラス構造で屋根を支えているのです。

立花伯爵邸「西洋館」「大広間」断面図  トラス構造「洋小屋」

従来の屋根の構造、いわゆる「和小屋」では、屋根を支える力を下へと流します。他方、三角形のトラス構造「洋小屋」は、力を外に分散させるので剛性が高くなり、各部材をより細く、柱と柱の間をより広くすることができます。

木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」
(明治36、7年頃)東京都立図書館蔵


例えば、同時代の設計例の木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」(明治36、7年頃 東京都立図書館蔵)は、斜めの筋交いはありますが、屋根の重量を1本の梁材にもたせる「和小屋」です。








東京都立図書館「木子文庫」
内裏の作事に関わる大工であった木子家に伝わる建築関係資料群。 明治期以降、帝国大学の建築学の講師や教授を勤めた木子清敬、幸三郎関係の建築図面や建築写真など約29,000点があり、明治宮殿をはじめ近代の宮殿建築の主要なものをほぼ網羅する。
*「立花伯爵邸」と同時代の建築図面や建築写真が多数公開されています*


現在も「和小屋」と「洋小屋」は使い分けられているので、新技術だからといって、日本の屋根の構造が一変した訳ではありません。

実際、立花伯爵邸「御居間」棟の屋根は「和小屋」です。必要な室内空間の広さにあわせて使い分けたのでしょう。

「大広間」の屋根を、並列する「西洋館」と同じトラス構造としたのは、近世にはなかった、明るく軽やかな広い空間が求められたからではないでしょうか。



また、立花家のお歴々は、とても「新しモノ好き」だったようです。



立花伯爵邸の新築から現在まで、およそ110年が過ぎました。
その間、めまぐるしく産業技術は更新され、最新技術がすぐに古びてしまいます。
現代において、はじめて伯爵邸がお披露目されたときの、人々の新鮮な驚きを追体験するのはとても難しい……

どうにか時代を遡って、立花伯爵邸「大広間」が誇る “明るさと軽やかさと新しさ” を実感してもらおうと、ここまで長々と書き連ねてきましたが、実はまだ終わりではありません。

この機会に声を大にして、とことんアピールしていきます。




参考文献
NHK for School国指定文化財等データベース(文化庁)吉水神社(奈良県)臨済宗相国寺派銀閣寺(京都府)元離宮二条城(京都府)西本願寺(京都府)名古屋城(愛知県)高山陣屋(岐阜県)木子文庫(東京都立図書館)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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