Twitter
Instagram
facebook
Twitter
Search:

大河ドラマ「立花宗茂」でぜひ見たい!家臣との絆のエピソード

2023/6/2

なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、小野家で伝えられてきたのでしょうか?




以前ご紹介した我らの大先輩、渡辺村男さんは、このように書いています。

※あとで解説しますので、読み飛ばしてかまいません。
 臨場感あふれる描写を、わたしだけが楽しむのは勿体ないので長めに引用しました。




小野成幸 小伝 

(中略)碧蹄館の役先鋒隊長の一人たり。午前の戦争中勇猛を振ひ敵を斬る事多し。時に 成幸 両袖あれば敵を斬るに邪魔となるを以て、之を切り捨てゝ奮戦せり。

宗茂 休息中 成幸 を招き 其奮闘抜群を賞す。且つ曰 鎧の袖なきは甚だ見苦しき也。故に軽き袖を与るを以て之を著けよ。又敵将の持ちたる団扇を与へて曰、之を以て部下を指揮せよと。成幸感泣して曰 之を以て功を建て其恩に報せんと。

正午の激戦 成幸 金甲の先鋒隊を率ゐ敵の本陣に突貫す。時に宗茂の隊は常に中堅を砕き直進し、其左右と後方とは浮田[引用註:宇喜多]小早川等の軍に委ね咸な殊死驀進す。其状恰も疾風の秋葉を払ふが如し。狼狽せる敵中一将あり、成幸 馬を躍らして之に薄る、遂に重囲に陥り戦死す。

其後 其子孫 唐団扇を以て家紋となし、又宗茂より賜ひし鎧の両袖は今尚之を保存すと云。(後略)

※表記は原文のままですが、漢字の旧字体だけは新字体に変換しています
渡辺村男 『碧蹄館大戦記 』大正11年(1922)民友社  246・247頁(下記の書誌163コマ目)

渡辺村男 著『碧蹄館大戦記』,渡辺村男,大正11.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕


小野成幸は、文禄元年(1592)に宗茂とともに朝鮮に渡った、2千5百の立花軍の一員でした。
翌2年(1593)1月、朝鮮漢城〔現在の韓国ソウル〕北方の碧蹄館における明軍との激戦の中で、成幸は動きの邪魔となった両袖を切り捨てます。

袖とは、両肩につける、鎧の一部品です。
甲冑の袖は、古くは矢を防ぐ盾となるように大型でしたが、火縄銃が主戦力となる16世紀末頃からは、動きやすさが重視されたのか、次第に小型化していきます。成幸も袖は無用だと思ったのかもしれません。

しかし、袖のない成幸を見た宗茂は、見苦しいからと、自分の鎧の軽い袖を与えて、着けさせます。

当時の鎧は、基本的に頭、胴、腕、股、臑を守る部品のデザインをそろえ、一式として着用するものでした。他は自分の鎧のまま、宗茂の袖をつけた成幸は、ちぐはぐに見えたはずです。

それでも、成幸にとって、 主君の袖は大きな誉れでありました。それに報いんと先鋒隊を率いて奮戦し、残念ながら戦死を遂げます。


この話の袖こそが、小野家に伝来した 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵) ではないかと考えられるのです。



なんとドラマティック!!
とても宗茂らしいエピソードだと、わたしは勝手に思っています。

忠義な家臣との絆を感じます。
そして、平和な儀礼の場ではない、厳しい戦いの合間に、袖を邪魔だと言う家臣に、見た目が悪いという理由で袖を与える、宗茂の空気の読めない大らかさがステキです。

刀や鑓ではなく、身に着ける防具をやりとりするなんて……
NHK大河ドラマ「立花宗茂」が実現したら、絶対にこのシーンは見たい!






主君の宗茂から拝領した袖に、 さらに主筋の大友家の家紋「杏葉紋」の金具が付いていたとしたら、成幸や小野家にとって、非常に大きな誉れであったと想像されます。だからこそ、本人の死後に異国の地から持ち帰られ、大切に伝えられてきたのでしょう。

「金白檀塗色々威壺袖」と「杏葉紋」については
この動画を150秒ご覧ください



実際、ともに小野家に伝来した具足の他の部分柳川古文書館所蔵)と、袖とを見比べても、全くスタイルが異なるため、袖だけを宗茂から拝領した話にも頷けます。さらに、唐団扇紋のついた指物も、具足と同じ櫃に納められて伝来しているのです。



袖のやりとりは本当にあったんだ! 村男さんは嘘つきじゃなかった!

わたしたちは、その場で見ていたかのように描写しながらも、引用元を明かさない村男さんの話を、話半分か四分の一に聞いていたので、2016年秋の”袖の再発見” は、とても嬉しい驚きでした。

喜びのあまり、おむかいの黒田屋菓子舗さんで、特注の袖ケーキまで作ってもらっちゃいました。

※とても素晴らしく、美味しかったケーキなので再掲しました。


村男さんが調査した100年前は、今では失われてしまった史料も残存していたのでしょうか?
小野家伝来の袖の存在も、宗茂と成幸のやりとりも、当時の柳川ではよく知られていたのかもしれません。

しかしながら、近代から現代にいたる間に、袖の話はいつしか忘れ去られてしまっていたのです。


実は、この袖のやりとりは、江戸時代の武具類の台帳に記録されていました。
逆に言えば、村男さんの著作以外では、武具類の台帳でしか確認できません。

現在確認できる、最も古い記録はこちらです。
武具類の台帳なので、前後のやりとり等は省略され、いたってシンプルです。

一、 御鎧  壱領
立斎様朝鮮御陣中御召 負箱ニ〆外箱入 
右者文禄年中於朝鮮御陣中 御袖小野喜八郎江被為拝領候 其後同御陣中ニ而御袖小田部新助進上仕 唯今之御袖ニ御座候

「御道具改御帳」(柳河藩政史料1011-2)  安永7年(1778) 柳川古文書館所蔵

朝鮮御陣中において、御袖を小野喜八郎へ拝領せられる。其の後、同御陣中にて、御袖を小田部新助が進上つかまつる。 唯今の御袖がそれである 。



ドラマティックさは全くなく、袖のやりとりが追加されました。



贈る方を白、贈られる方を黒にして図解すると、こうです。

小野成幸 ●←拝領―○ 立花宗茂 ■←進上―□ 小田部統房


小野喜八郎は小野成幸〔小野和泉守鎮幸の従兄弟〕のこと、小田部新助は小田部統房〔立花宗茂の姉妹の夫〕だと考えられます。
どちらも天正10年(1582)頃には戸次道雪の近臣として名前が確認でき、宗茂とともに朝鮮に渡っています。

■もっと知りたい方のために■
・小野成幸
白石直樹「新市史抄片150 宗茂の養子入りと戸次家家臣」(柳川市HP「広報やながわ」2017.12.1号)※リンクが繋がらない場合はタイトルで検索してください。
・小田部統房
堀本一繁「No.336 戦国時代の博多展8-安楽平城をめぐる攻防」(福岡市博物館HP > アーカイブズ > 企画展示
「小田部新介小伝(中略)碧蹄館役常に宗茂の左右に侍り作戦計画に参加せり(後略)」( 渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社)

●の袖は小野家に伝来した「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)。
となると、■の袖は立花家に伝来しているはずです。



伝来していました。
2010年の調査で、小田部家の家紋がつく大袖が、立花家に伝来してきたことが再発見されました。小野家の袖が再発見される6年前です。

黒漆塗本小札藍韋威大袖 立花家史料館所蔵


大名道具をあつかう史料館の学芸員にとって一番の醍醐味は、伝来してきたモノ史料と文字史料の相乗効果により、新たな知見が得られることです。

この袖のやりとりは、その最たる例だといえます。

小野家拝領の袖、小田部家進上の袖、わずかな文字史料をあわせると、村男さんのドラマティックさを超える、史実のファンタスティックさが見えてきます。
だからこそ、わたしはこのエピソードを映像化してほしいと願うのです。


それでは、皆さまの疑問にお答えします。
ドラマティックさを超えるファンタスティックさって、どういうこと?




※次回こそなるべく早くアップしますので、お待ちください。

参考文献
渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社、柳川市史編集委員会 編『柳河藩立花家分限帳(柳川歴史資料集成 第3集)』1998.3.20 柳川市

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

▲ページの先頭へ

6代藩主 立花貞則、豊前大里浜で暴死す

2023/5/3

前回は、6代藩主貞則の生涯を、丁寧に江戸時代の史料をひもときながら見てきました。前回で完結する話を今回までひっぱったのには理由があります。




前回で紹介した江戸時代の史料と、現代の柳川市史編さん事業の刊行物。
その間に挟まれた近代の史料に、ある懸念があるのです。

7代 貞則公〔引用者註:貞則は6代柳川藩主かつ立花家7代当主]

(中略)

延享3年 〔1746〕 6月20日江戸を発し、入部の途に就く

7月17日豊前大里浜に於いて暴死す。

同21日遺骸生存の如くして柳城に入る。同27日喪を発す。8月5日福厳寺に葬る。享年21。法号等覚院殿廊融性営大居士と云ふ 。

公 子なし。弟を以て嗣とす。

渡辺村男 『旧柳川藩志』上巻 60頁(下記の書誌 53コマ目)

渡辺村男 著 ほか『旧柳川藩志』上巻,福岡県柳川・山門・三池教育会,1957.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります*



この『旧柳川藩志』を著したのは、立花家伝来の史料を調査研究の対象とする、我らの大先輩、渡辺村男です。

柳川市史の編纂事業が開始する80年前、大正3年(1914)に、立花家が主体となり、藩史編纂の事業がはじめられました。その編纂に携わった中学伝習館教諭の岡茂政や、岡とともに明治44年(1911)に柳川史談会を創立した渡辺村男は、どちらも長年の調査の集大成をまとめた、柳川の歴史についての大著を残しています。この二人の著作は、柳川市史の刊行がはじまるまで、柳川の歴史を知るための必携の書であり、他に代わる書籍はありませんでした。

岡茂政 著 ほか『柳川史話』,青潮社,1984.9.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕



わたしも、当館展示室の年表パネルを作成するために、当時未刊の『柳川の歴史』シリーズを切望しながら、ほかに頼るあてもないので、渡辺村男『旧柳川藩志』岡茂政『柳川史話』 を熟読したものです。



今なら、絶対に柳川市史の刊行物を頼ります。だって、読みやすいし、わかりやすいし、何より信頼がおけます。




村男さんも岡さんも、尊敬できる大先輩ですが、戦前と現在とでは情報量に圧倒的な差があり、今の基準でみると、二人の史料の精査は全く足りていません。当時の印刷技術の事情もあるでしょうが、年号のズレや漢字の誤記も少なくないので、その都度、江戸時代の史料とのつき合わせが必要となります。それでも、活字は流し読みができるので、崩し字解読が苦手な身には助かりました。



あらためて引用部分にもどります。
注目すべきは「豊前大里浜に於いて暴死す」。


え!

おだやかでない響きですが、どういうこと?
江戸時代の系譜や、その他の文書類を確認しても、よくわかりません。


安心してください。辞書にちゃんと記されていました。

【暴死】  ぼう‐し
にわかに死ぬこと。急に死ぬこと。頓死。

広辞苑・大辞泉・ 日本国語大辞典 の記述を集約  


な~んだ、あっさり解決です。

貞則の「急死」を村男さんが劇的にあらわしただけでした。当時の貞則の近臣たちの気持ちを慮ると、「暴死」という表現がマッチしているように感じます。


結局のところ、前回で周知の事案「死体の偽装」と「公文書偽造」、これ以外のことはどこにも書かれていません。懸念もなにもなかったのです。

ちなみに、貞則の事案の約90年後には、より大きな事案「藩主すり替え」があるのですが、それはまた別のおはなし。






実はいま、「立花貞則 大里」とWeb検索すると、貞則が暴漢におそわれて亡くなった風に説くサイトが上位にあがってきます。遺憾ながら、数も多いです。

※検索結果をご覧になるだけで、各サイトを訪れるのはご遠慮いただけますと嬉しいです。



前回と今回とで皆さまと共に見てきたように、これはまったくの空言です。
ただ、「暴死」にひっかかった身として、状況証拠から推測できる気がします。

長年、柳川の歴史を記述する図書や雑誌には、だいたい渡辺村男の著作が引用されてきました。「立花貞則が豊前大里浜で暴死」は、そのまま孫引き、ひ孫引きされていきます。その間に、どこかのだれかに魔が差したのでしょうか?

先のブログ「殿さんが騙された?大広間の瓦の疑惑」の事例と同じく、ここでも誰かが、貞則の死の隠蔽の理由を、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、幻想を作ってしまったのでしょう。
そして、”暴” “死” “浜”の組合せが、センセーショナルなイメージを掻き立てるような、しないような。





インターネットに漂う仇花、その発生の経緯は大変興味深いのですが、誰にとっても迷惑でしかありません。存在しないものを無いという証明は難しく、流れてくる全てを摘み取るのはとても面倒……

願わくば、世の人々が「立花貞則」をWeb検索したときに、このブログのタイトルが上位あがってきますように。



参考文献
渡辺村男著 柳川山門三池教育会編 『旧柳川藩志』1957 福岡県柳川・山門・三池教育会 、柳川市史編集委員会 編 『新柳川名勝図絵 』2002.9.30 柳川市( 「渡辺村男と柳河史談会」123-126頁、「対山館文庫」138・9頁、「立花家の歴史編さん」143・4頁)

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

▲ページの先頭へ

6代藩主 立花貞則、生者のまねして柳川城に入る

2023/5/3

立花家史料館の学芸員として思うところがありましたので、あらためて柳川藩6代藩主・立花貞則の生涯を、皆さまと共に史料でたどってみます。



まずは、江戸幕府が編纂して文化9年(1812)にまとめた、大名旗本諸家の家譜集成 『寛政重修諸家譜』 から。柳川藩主立花家の項目は、8代鑑寿(~1820)の長女誕生までが記されています。



貞則 〔引用者註:父は柳川藩5代藩主 貞俶〕

虎吉 虎之進 丹後守 伯耆守 飛騨守 従五位下 従四位下

母は上〔柴田氏〕 におなじ。嫡母のやしなひとなる。

享保十年〔1725〕柳河に生る。

元文四年〔1739〕八月十五日 はじめて有徳院(吉宗)に拝謁す。時に十五歳 五年〔1740〕十二月二十一日 従五位下丹後守に叙任し、寛保二年〔1742〕六月五日 伯耆守にあらため、延享元年〔1744〕七月十三日 遺領を継、十九日 飛騨守にあらたむ。二年〔1745〕閏十二月十六日 従四位下に叙す。

三年〔1746〕四月十八日 はじめて城地にゆくのいとまをたまふ。七月二十七日 柳川にをいて卒す。年二十二。 廓融性瑩等覚院と号す。彼地の福厳寺に葬る。

『寛政重修諸家譜』 第1輯 巻百十二 立花 686頁(下記の書誌 354コマ目)

『寛政重脩諸家譜』第1輯,榮進舍出版部,1917.
国立国会図書館デジタルコレクション〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります*



貞則さんの20年ほどの経歴の、オフィシャルな記録です。
今回の注目ポイントを太字にしています。



オフィシャルがあればプライベートな記録もあります。

立花家に伝来したいくつかの系譜から、立花家の祖となる大友能直から11代藩主鑑備までを書きあげた系譜「御内實御系譜下調」の、貞則の項をみてみます。この系譜は天保年間(1830~44)以降の記述がないので、その頃に成立したのでしょうか。

貞則 

享保十二年〔1727〕丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家〔柳川〕 ニ生ル 

(中略)*貞則の項の全文は本ブログ末に記載*

同年〔1746〕六月二十日 東都〔江戸〕ヲ発シテ封〔柳川〕ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜 ニ卒ス 行年二十一歳

嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月二十一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城 〔柳川城〕 ニ入ル 同二十三日 急ニ四箇所藤左衛門〔通久〕ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎ム 同二十六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香〔7代藩主 鑑通〕ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 二十七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日

同月二十九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名 等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク

「御内實御系譜下調」 当館蔵 柳川古文書館寄託  ※ここでは廿を二十と変換



あれれ~おかしいぞ~

そうです、1727→25と、オフィシャルな記録の生年が、2年早くなっています。

実は、武家当主の年齢詐称の事例は少なくありません。
江戸時代、大名や旗本の死は、お家の安泰を左右する大問題でした。トップが次代へ相続できなければ、家臣たちは職を失います。

幕府に届け出た実子や養子がないまま当主が亡くなると、家は断絶という武家相続の法がありました。1651年には、死の寸前(末期)でも、存命中に養子を願い出ればよしとする「急養子」(末期養子)が認められますが、当主が17歳以上50歳未満に限るという条件が付けられます。

当主が17歳になるまで、常にお家存続の危機にさらされ続けますが、回避するには年齢を詐称するしかないのです。貞則も4歳の時の届出で、2年多めに盛られました。


1744年に6代柳川藩主となった貞則は、年中行事ごとに江戸城へ登城する公務をこなしていましたが、1746年に藩主として初めて国元の柳川へ入るため(「初入部」)旅路につきます。

再び、オフィシャルな記録とプライベートな記録を見くらべてみましょう。



あれれ~おかしいぞ~

そうです、貞則が亡くなった場所と日にちが違います。
プライベートな記録の、詳細で複雑な描写を追ってみます。


6月20日 江戸を出発 発病 →だんだん病状が悪化
7月17日 豊前国大里の浜〔現在の福岡県北九州市門司区〕 にて亡くなる→養子がいないので隠蔽

7月21日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル
つまり、貞則の遺体を生きているように見せて柳川城に到着しました。

7月26日 弟・鑑通を養子とする届出をもった使者が柳川出発
7月27日 この日に貞則が亡くなったとして、死を公表



貞則の急死による無嗣断絶から逃れるために、死を隠蔽し、「遺骸を生者として入城」 させ、亡くなった日を10日遅らせて公表したのです。

後世からみると、「早めに養子の届出をしてれば」とか、「ここまでして10日だけ?もっと余裕もったら?」とか、言いたいところですが、結果として、無事に弟の鑑通への相続が認められ、柳川藩主立花家は存続できました。



貞則の例は、船上での死なので煽情的な経緯となりましたが、「末期養子」の都合上、届出は当主の存命中に限られるため、当主の死の隠蔽は珍しくはなかったようです。無嗣断絶の混乱を避けたいと、幕府も黙認していたように見受けられます。
したがって、立花家に限らず、どこの家でも、建前をオフィシャルに記録し、実情はプライベートな記録として手元に残していたのでしょう。



オフィシャルな記録に簡単にアクセスできても、プライベートな記録が秘されているなら、“歴史の真実”は隠蔽されつづけるのではないか?と思われた方、



安心してください。柳川古文書館があります。




柳川藩主立花家から立花家史料館へと伝来した、重要文化財「大友家文書」「立花家文書」をふくむ3万点以上もの貴重な古文書・古記録類は、柳川古文書館に寄託され、その管理のもとで調査研究が進められています。

そして今、この全史料をネット上で公開する計画が進行中!
近い将来、よりスムーズに柳川藩主立花家のプライベートな記録へアクセスできるようになります。

しかし、ネット上の公開を待たずとも、すでに刊行された書籍があります。

わたしの専門は美術工芸品なので、文字史料の扱いは得意ではありません。
今回は本題のため自力で苦心していますが、柳川市の市史編さん事業で刊行された書籍には、貞則のことも、もっと詳しく、わかりやすく書かれています。

系譜1点をそのまま紹介するのが精一杯のわたしとは違い、柳川古文書館の学芸員さんをはじめ、文字史料の専門家たちは、考えうるかぎり史料を集め、その真偽を丁寧に検討した上で、調査・研究を進められています。 市史編さんの刊行物 では、その成果が平易な文章で解説されているのです。





とくに、柳川藩主立花家に関連する刊行物は、ここからもご購入いただけます。




貞則のことは、「貞則の急逝」(柳川の歴史5『柳河藩の政治と社会』143-145頁)、「貞則と鑑通」(柳川市史別編『図説立花家記』72・73頁)を中心に読むだけで、長年の緻密な調査・研究の集大成をお手軽に享受できます。ブログ執筆中に抱いた私の疑問の回答も、すでに書いてありました。さすがエキスパート!



そして、ここまでが前段階……やっと本題にたどりつきました。

それでは次回、「6代藩主・立花貞則、豊前大里浜で暴死す」!!
長くなってますが、どうかお付き合いください。





「御内實御系譜下調」の貞則の項の全文はこちら。ご興味のある方はどうぞ。

※ 下記史料の内容に関しては誤りのないよう心がけましたが、入力に際して適切にWeb上で再現できない、あるいは原文の表記と異なる場合がありますのでご留意ください。
※割註〈 〉、引用者註[ ]

貞則
従四位下  丹後守 伯耆守 飛騨守 幼名 虎吉 虎之進
 母ハ立花弾正源貞晟ノ女。〈名於千〉
 実母ハ諒體院。〈柴田氏 名ハ於由井〉
享保十二年丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家ニ生ル 六月十六日 山王社ニ詣テ直チニ内城ノ二ノ丸ノ館ニ入ル
同十九年甲寅三月廿六日 立テ嫡子ト為ル〈九歳〉
同二十年乙卯正月元旦 広間ニ於テ諸士之礼ヲ受ク
元文三年戌午五月十七日 花畠之亭ニ移ル
同四年巳未三月三日 世子ト称ス 同月五日 柳河ヲ発シ四月四日 東都ニ至ル 吉弘五左衛門統倪傅ト為ル
同年八月十五日 始テ吉宗公ニ拝謁ス〈太刀馬代金縮緬ヲ献ス〉
殿中ニ於テ座席未ダ定ラナク時ニ朝老松平左近将監〔乗邑〕告テ曰 立花者世々良家也大廊下杉戸ノ内ニ座スベシト也〈時ニ年十三〉
同年九月九日 節句始テ登営ス
同年十一月十五日 始テ月次ノ御礼トシテ登営ス
同年十二月 朔日疱瘡ス
同五年庚申嘉定玄猪共ニ営ニ登ル
同年十二月廿一日 従四位下ニ叙シ丹後守ト改ム 同廿八日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金ヲ献ス〉
寛保元年辛酉六月廿六日 額ヲ隅シ袂ヲ短ス
同二年壬戌二月廿二日 加冠ス〈年十六〉
延享元年甲子五月廿五日 貞俶卒 同七月十三日 朝命ヲ受テ立ツ〈朝老 松平左近将監〔乗邑〕 邸ニ召シテ台命ヲ伝フ〉
是日飛騨守ト改ム〈時ニ年十八〉 同日廿八日 家督之御礼ト為シテ登営ス 〈太刀馬代金三枚綿三十把之献ス 蓋シ諸家家督之御礼ニ黄金三十枚綿三百把ヲ献ス 特例也頃者命ヲ下シテ之ヲ減ス以テ十分一ト為ス〉 是日国老二人御目見〈矢島采女 小野織部 各ゝ馬代銀一枚ヲ献ス〉 貞俶之遺物ヲ献セズ〈是ヨリ先命ヲ下シテ諸家遺什ヲ献ル者ヲ禁ゼラル故也〉
同二年乙丑閏十二月十六日 従四位下ニ叙ス〈年二十〉
同三年丙寅正月七日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金之献ス〉 同月十二日 問注所三右衛門康端ヲ京都ニ使シテ口宣及ヒ位記ヲ拝受ス

同年六月廿日 東都ヲ発シテ封ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜ニ卒ス 行年二十一歳 嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月廿一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル 同廿三日 急ニ四箇所藤左衛門ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎シム 同廿六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 廿七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日也
同月廿九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ于朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク

「御内實御系譜下調」 (柳立85) 当館蔵 柳川古文書館寄託  

参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、 大森映子「大名相続における年齢制限をめぐって」(『湘南国際女子短期大学紀要』8号 2001.2月 湘南国際女子短期大学、柳川市史編集委員会 編 『図説柳川家記』2010.3.31 柳川市、白石直樹『柳川の歴史5 柳河藩の政治と社会』2021.3.31 柳川市

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

▲ページの先頭へ