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上げ下げ窓を上げ下げする機構

2024/1/8

前回にて繰り返しご覧いただいたように、明治43年(1910)築の立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、とても軽やかに上げ下げできます。




立花伯爵邸西洋館の窓はどれも大きいのですが、その大きさに見合った重さを予想しながら窓を開けると、肩透かしを食らいます。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』より



どうしてこんなに軽いのでしょうか? タネやシカケはどこに?

わたしには何の変哲もない木造の窓枠しか見えません。



株式会社 御花は、平成25年から27年(2013~15)の3ヵ年にわたり、外壁のペンキの塗り替えを主とする、西洋館のメンテナンス工事を実施しました。災害復旧にくらべると急を要しないため、閑散期である夏季に集中して施工されました。



外壁だけでなく、窓の状態もかなり悪化していたので、西洋館のすべての窓を取り外して、点検・修理をしていきます。

メンテナンス工事前 左下隅のガラスが抜けています

窓を取り外している現場では、予期せぬ”力技”に驚きました。

※5倍速です



作業のお邪魔にならないよう注意して、もう少し近寄ってみます。
(手ブレがひどく、ピントがズレている点はご容赦ください)

※音声注意

あらこんなところに、紐と錘と……滑車?



タネとシカケが隠されていました!



立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、「分銅式」の錘 オモリ を用いた機構により、上下の窓がどちらも自在に動かせる「両上げ下げ窓」です。
窓と同じ重さの分銅がバランスをとることで、小さな力での開閉や、開閉状態の固定が可能になっています。窓枠に仕組まれた分銅は、窓枠上部に取り付けられた滑車を介して、窓の両側とロープで繋がり、窓が分銅で吊るされたような形になっているのです。エレベーターと同様の仕組でもあります。

実際、メンテナンス工事の際に錘を量ると、およそ4.5kgほどでした。つまり、窓1枚の重さは4.5×2=9kgとなります。



立花伯爵邸西洋館の各窓枠には、上下2枚の窓と、ロープでつながる4つの分銅が収まっていますが、100年が経過するなかで、木製建具がゆがんだり、ロープが切れたり、滑車が回らなくなったり、分銅が腐食したりと、様々な不具合が生じていました。

メンテナンス工事では明らかな不具合は修理しましたが、建築当初の素材や機構をできる限り後世に伝えたいと、切れずに残っていたロープや分銅など、経年劣化が明らかな部品でも、なるべく現役で頑張ってもらっています。

ですので、

100歳を超えた木造建築に斟酌していただき、通常のご見学時には、窓の開閉はご遠慮ください。



その代わり、いつでもこちらで、宗茂さんと誾千代さんが上げ下げ窓を上げ下げしている様子を御覧いただけます。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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上げ下げ窓を上げ下げする

2024/1/2

2024年、令和六年 甲辰歳がはじまりました。



新年

あけましておめでとうございます。

※ぜひ音声付でご覧ください





このブログのため、柳川藩初代藩主・立花宗茂【立花家史料館公式キャラクター】に、明治43年(1910)に建てられた立花伯爵邸西洋館の窓を、開け閉めしてもらいました。




せっかくですので、宗茂の正室・誾千代姫 【立花家史料館公式キャラクター】 も。



お分かりいただけましたでしょうか?

宗茂さんも誾千代さんも、とても軽やかに窓を上げ下げしています。

*通常のご見学の際は、建物に手を触れないようお願いしていますので、特別な許可を得て、御二人に代行してもらいました*



ご覧のように、力を全く込めずとも、窓はスッと上がります。
閉めているときのギギギ音は、110歳を超える木造建築の音で、窓の重さには由来しません。

立花伯爵邸西洋館の窓はすべて「上げ下げ窓」、なかでも上下両方の窓が動かせる「両上げ下げ窓」です。文字通り、窓を上下にスライドさせて開閉します。

実は、軽やかに上げ下げさせる機構が、窓枠内部に仕込まれているのですが、それはまた別のおはなしで。




手を放しても、自然と上がっていく軽やかさを、もう一度ご覧ください。

この立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓のように、
本年が、軽やかで苦労がない一年となりますように。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney

2023/12/31

立花伯爵邸の煙突から、サンタさんはやって来ませんでした。
前回、ムリだろうなと予想しながらも誘ってしまい、サンタさんへの配慮に欠けていたと深く反省しています。




やはりこの穴のサイズでは、煙は通っても……

立花伯爵邸 西洋館の煙突の穴 2005年4月13日撮影 

この写真は、実際に立花伯爵邸 西洋館の煙突の穴を撮影したものです。



話は平成17年(2005)3月20日 日曜日にさかのぼります。

10:53 福岡西方沖地震が発生。
柳川市では震度5弱を観測しましたが 、幸いにも人的被害はありませんでした。

国指定名勝「松濤園」(当時の名称)の被害はどうでしょうか。

え?

え~⁇

西洋館の煙突って、レンガ造りだったの⁈



ここからは、当時現場にいた当館館長に取材し、臨場感を添えてお届けします。



日曜の自宅にて、地震に驚愕しながらも無事にやり過ごした午後、やっと電話も通じるようになったと思っていた矢先に、

「もう、大変なの~、大変なことになってるのよ!」 

という職場からの電話。
慌てて地震の混乱が冷めやらぬ通勤路を乗り越え、西洋館南側に到着。
柳川市の文化財保護担当者と、被害状況を確認しました。



柳川市作成の備忘録には、このように記されています。

14:00 名勝「松濤園」所有者の立花氏から西洋館損壊の連絡。
15:30 松濤園被害状況確認。西洋館マントルピースの上部損壊(崩落の危険性あり)。庭園内の灯籠2基が倒壊。対月館南側の水路際の塀が倒壊。西洋館周辺についてはコーンにより立入禁止区域を設定。

崩落の危険性!!!
頂上部分が落下し、対面の立花伯爵邸「大広間」を破壊するという、二次被害も想定されます。

どうする?

翌21日は振替休日でしたが、まずは福岡県文化財保護課へ被害状況を報告。
崩落防止のためにマントルピース周囲に足場を組み、建物からワイヤーなどで引っ張る措置を指導され、22日に応急措置を実施しました。

3月23日
柳川市史 歴史建造物専門研究員でもある、有明工業高等専門学校建築科助教授(当時)・松岡氏と、過去に西洋館を修理した実績がある株式会社 大林組により立入調査がなされ、構造的には問題はないが、マントルピース及び内装の修理が必要と診断されました。

しかし、崩落までのタイムリミットは変わりません。

なるべく早く、煙突頂上部分を取り外したいところですが、国指定名勝の一部なので、所有者の一存だけでは何も出来ません。

柳川市と福岡県と文化庁と、密に連絡をとり、協議を重ねます。
災害復旧のため、現状変更したり補助金を申請したりするにも書類の提出が必要となり、根拠を示す資料も作成しなければなりません。
他にも地震の被害が判明し、予期せぬ出費が次々と生じてきます。



平成17年(2005)4月13日 水曜日 
9:00 西洋館煙突の先行解体工事がはじまりました。

ハラハラ

※BGM注意、3倍速



ドキドキ

2本並んだ煙抜きは鉄製で、かなりの重さだと推測されていました。
ブロック状にしてクレーンで吊り降ろす間に、崩れる可能性もあります。
頂上部分を動かすことで、不安定になっているレンガにどんな影響があるのか分かりません。

※BGM注意



ホッ

※BGM注意、3倍速

無事に中庭へと降ろすことができました。
なんと重さは3.6トン!

さらに手作業の範囲で、上部から順にレンガを降ろしました。
ただ、これはあくまで応急処置でしかなく、修理工事は始まってもいません。



4月15日には福岡県から、4月22日には文化庁から、被害状況の現地視察に来られ、これから進めていく修理工事の方針が検討されました。

修理工事の監修は、ひきつづき松岡先生に依頼することになりましたが、設計してくれる方を早急に探さねばなりません。
そこで推薦されたのが、福岡県文化財保護課からの信頼も厚い、河上信行建築事務所(当時の名称)でした。



松岡先生と河上先生、ここに御二人が揃ったときから、現在の国指定名勝「立花氏庭園」の文化財としての整備が、大きく動き出すのです。



そして4月27日、福岡県西方沖地震被害にともなう松濤園修理事業実施のための具体的な協議のため、関係者が一堂に会しました。

株式会社 御花を事業主体者として、現状復旧を目的とした修理工事を進めるにあたり、 梅雨や台風による影響を考慮した修理箇所の優先順位、修理工事の期間、その間の営業導線の確保などが決定されていきます。



ただ、西洋館の煙突の修理方針については、議論が紛糾しました。

危険箇所のみを取り外して旧材を積み直す工法なら、暖炉は使用はできなくなるが、煙突を解体する範囲が狭まるかもしれないという意見も出ましたが、最後には、構造・デザイン・機能を取り戻したいという所有者の希望が尊重されました。

現時点で振り返ると、暖炉が現役のまま残されたことで、文化財としての活用の幅が広がって良かったと、しみじみ思います。


この協議を契機に、名勝「松濤園」の保存・活用を進めるための委員会が設置されたこと、伯爵邸の各部屋の名称が整理されたこと、営業及び来館者、宿泊客の導線の整理されたことで、後のわたしたちも大いに助けられました。



「一民間企業体としては、長期間の営業縮小というダメージは大きく、短い時間の中で重大な決断を次々と下して文化財修理と向き合わなければなりませんでした。」と館長が語る、当時の御苦労は重々承知してはいるものの、後日談として話を聞く身にとっては、まさに劇場版とも言えるスリルと疾走感で、ワクワクしました。



しかし、これから煙突が修復されるまで、まだまだ数多の困難が待ち構えていて、汗と涙があふれる日々が続くのです。



参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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サンタさん、立花伯爵邸の煙突、今も現役ですよ!

2023/12/23

明治43年(1910)に建てられた、立花伯爵邸西洋館の暖炉は、今でも薪を燃やして暖をとることができます。
もちろん、実際に火を点す機会はごくごく稀です。

立花伯爵邸 西洋館2階 暖炉

2019年2月の柳川藩主立花邸御花のイベント「Classic CAFE&BAR OHANA 」では、こんな感じ。
※4枚目と5枚目の写真をご覧ください

Classic CAFE&BAR OHANA 「夜の御花をゆっくりとくつろいでいただきたい」という思いからいまれたCAFE&BAR OHANA。 サックスやピアノ演奏もあり、西洋館が見事オシャレなバーに変わりました。 暖炉に火が灯り、どこか異空間にタイムスリップした気分です。 ちなみにバーテンダーは、前職でバーテンダーだったフロントスタッフのN氏。 さすが、カクテルを作る姿もさまになっております。 心地よい演奏を聴きながら、皆さん美味しいお酒に旅行の疲れを癒しておりました。 ( 2019年2月12日投稿 柳川藩主立花邸御花Instagram より)



つまり、立花伯爵邸西洋館の煙突は現時点でも外と通じていて、空気を取り込んでいるのです。


え、それって煙突からサンタさんがやって来られるってコト!?


実は、明治・大正期に日本で建てられた洋館の暖炉のなかで、立花伯爵邸西洋館のように薪を燃やすことができるものは、あまり残っていません。


薪を燃やすだけの暖房は、他の暖房器具と比べて暖房効率がとても低いので、多くの洋館では、暖房器具を暖炉から変更しています。
そして、昭和初期になって建てられた洋館では、ほとんどの暖炉は当初から装飾でしかなく、煙突は不要となってしまいました。


例えば、明治42年(1909)10月17日に開業した奈良ホテル(奈良県奈良市)の場合、大正3年(1914)に約1年をかけて全館セントラルヒーティング化(スチーム暖房化)したようです。(奈良ホテルHP「奈良ホテルヒストリー」
「マントルピースの煙突が、いつの頃からか屋根から消えていますが、この時の工事の際に取り払ったのかも知れません。奈良ホテルのマントルピースは、この工事を境に実用の物ではなく装飾品となりました。」(『奈良ホテル物語』)

煙突がある頃の奈良ホテル
奈良ホテル』(たましん地域文化財団 所蔵) 「ADEAC:デジタルアーカイブシステム 収録」 (https://cultural.jp/item/adeac-R100000094_I000102187_00)
Cultural Japan



また、明治29年(1896)に建てられた「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)の洋館の場合、最低限の煙突で各部屋に暖炉が備えられるよう工夫された配置や、 屋根にある煙突の痕跡から、建築当初は暖炉を使っていたようですが、「本邸は都市ガスを熱源にしたボイラーが設置され、スチーム暖房が全館に配備されていました。」(『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』)と記述されるので、早い時期に変更されたのでしょう。



しかし、立花伯爵邸は暖炉から新しい暖房器具へと変更しませんでした。
立花伯爵邸の西洋館は、伯爵家族が日常的に生活する場ではなかったので、暖炉のままでも困らなかったのかもしれません。



現存する明治・大正期に建てられた洋館のほとんどは、戦後になって公共施設として利用されていたものです。そのため、不便な暖炉は廃止され、邪魔な煙突は撤去されてしまいました。
立花伯爵邸のように、住宅のまま使われ続けた数少ない洋館の場合、なおさら快適さが優先され、やはり暖炉と煙突は失われてしまいます。


その後、これらの洋館が文化財として見直されると、暖炉と煙突が外見的に復元されるのですが、暖房器具の機能まで復活させた例を聞いたことはありません。

サンタより、火気厳禁の原則やメンテナンスの都合が重視された結果でしょう。



ゆえに、立花伯爵邸西洋館は、サンタさんをお迎えできる設備が現役のまま使われている、とても希少な明治期の洋館だといえるのです。



サンタさんへ
このような貴重な煙突、実際に通ってみたくないですか?
暖炉からのご訪問、お待ちいたしております。

現在の立花伯爵邸 西洋館1階 暖炉前



参考文献
営業企画課「奈良ホテル物語」編集室『奈良ホテル物語』2016年7月(株)奈良ホテル 、『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園 (都立9庭園ガイドブック)』2011年6月 公益財団法人 東京都公園協会、

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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総工費およそ40億円!?延床600坪余の豪邸ルームツアーをオススメする3つの理由

2023/11/26

現在、オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪」 (2023.11.28開催) の二次募集中です。本日23:59締切!
【終了しました】

せっかくの機会に、できるだけ多くの方々にご参加いただきたいと心より願い、今回のオンラインツアーを徹底的にプロモーションします。



1つめの理由

今回のオンラインツアーは、いま流行りのルームツアーです。
しかも、総工費およそ40億円、延床600坪あまりの超豪邸のルームツアーなのです。

是非、下世話な好奇心でご参加ください。

総工費は当時の金額で20万円を超えていました。
当時の1円が現在の2万円くらいの重みがあったという説に基づいて計算すると、およそ40億円となります。
※参考サイト「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?」(金融・経済を楽しく学ぶサイトman@bow
*ちなみに、明治42年(1909)10月に開業した奈良ホテルの建築費は、およそ35万円だったようです。 (『奈良ホテル物語』2016年7月(株)奈良ホテル )



2つめの理由

しかも、ただの豪邸ではありません。
ご案内するのは「立花伯爵邸」”伯爵邸”です。

明治2年(1869)から昭和22年(1947)に廃止されるまで78年間存続した華族制度。明治17年(1884)に華族令が制定され、公・侯・伯・子・男の五爵位により序列化されました。

「立花伯爵邸」は明治43年(1910)に、伯爵立花寛治の住居として建てられました。つまり、今はもう日本に存在しない、伯爵という地位に相応しい品格を備えた豪邸なのです。

そのシンボルともいえる「立花伯爵邸」の「西洋館」は、建築当初からの姿を変えずに残されています。

明治43年(1910)建築当初の「立花伯爵邸」 「正門」から見た「西洋館」

現在の姿を、是非オンラインツアーでご確認ください。



3つめの理由

さらに立花家は、江戸時代を通じて、柳川藩11万石の藩主であった大名家です。「立花伯爵邸」が建てられた場所は、江戸時代には殿さまのお屋敷「御花畠屋敷」がありました。近代に伯爵となった立花家が、藩主として治めていた領地「国元」に建てた、歴史の積み重ねのある豪邸なのです。

「立花伯爵邸」の「大広間」では、大名家の格式に圧倒されます。

現在の「立花伯爵邸」 「大広間」の背後に「西洋館」が見えます



ちなみに、近代に建てられた旧大名家の住居として6件が重要文化財に指定されていますが、明治・大正期に建てられたなかで、「立花伯爵邸」のように、和館と洋館を併置している邸宅が現存している例はありません。

  • 明治17年(1884)旧徳川家松戸戸定邸【千葉県松戸市】和館
  • 明治23年(1890)旧堀田家住宅【千葉県佐倉市】和館
  • 大正5年(1916)旧毛利家本邸【山口県防府市】和館
  • 大正6年(1917) 旧島津家本邸【東京都品川区】洋館
  • 大正11年(1922)萬翠荘(旧久松家別邸)【愛媛県松山市】洋館
  • 昭和4年(1929)旧前田家本邸【東京都目黒区】 洋・和館



伯爵家が名に恥じぬように費用を投じて建設した、
旧大名家の重厚さと、近代の華族の綺羅びやかさとを併せもつ、
延床600坪余の豪邸のルームツアー。

と聞くと、参加したくなって来ませんか?



これまで、実際に福岡県柳川市まで訪問してくださった方々も、安心してください。
通常は未公開のヒミツをお見せしますので、現地をご存知だからこそ、より楽しんでいただけます。



そして、こちらの解説冊子もお手元にお送りいたします。

立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求したつもりです。

A5判32頁と当初の想定よりボリュームは増えましたが、いま解説冊子を読み直していると、お伝えできていない点ばかりが浮かんできます。
取りこぼした話は、こちらのブログでちょこちょこと書いていきますが、まずはオンラインツアーにて、館長直々の案内の補足資料としてご活用ください。



「おはなのうむすび」・解説冊子の発送が、オンラインツアー開催日以降とはなりますが、ツアー参加の申し込みは、まだまだ受け付けていますので、是非!!
※アーカイブ配信もいたしますので、解説冊子は復習にご活用いただけますと幸いです。



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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西原吉治郎設計「西尾市岩瀬文庫書庫」

2023/10/19

まずは、前回の「Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》 」から、ご覧ください。





今回の捜索で出会えた、西原吉治郎の最大の足跡が「西尾市岩瀬文庫書庫」・「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」です。

ありがたいことに愛知県西尾市【公式】 が、吉治郎さんが設計した建物の解説動画を YouTube上で公開されているので、恩恵に預からせていただきます。




明治41年(1908)に、私立図書館「岩瀬文庫」を開設した豪商の岩崎彌助は、大正年間(1912‐26)に文庫の拡張を計画し、吉治郎が名古屋で開いていた西原建築工務店に依頼しました。

岩崎彌助については、この動画でわかりやすく解説されています。

西尾偉人図鑑
西尾市制70周年記念式典で放映された映像です。
※「岩崎彌助」の解説のはじまりを開始位置に設定



吉治郎が設計し、大正8年(1919)頃に完成した「西尾市岩瀬文庫書庫」は、レンガ造の地下1階地上3階建。小屋組はトラス構造です。

西尾市岩瀬文庫 旧書庫の案内
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫旧書庫の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



また、吉治郎は児童館も設計しました。
大正14年(1925)頃に完成した「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」は、小規模な木造の洋風建築 です。

⻄尾市岩瀬⽂庫 おもちゃ館(児童館)内の案内

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫おもちゃ館(児童館)の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



岩瀬文庫には他にも建物がありましたが、上記2棟のみが戦災や三河地震(1945)をくぐりぬけ、国の登録有形文化財となりました。

そして、令和4年(2022)3月に策定された保存活用計画にむけて、耐震補強工事等の調査が実施されていたようです。

* 詳細は、西尾市教育員会文化財課「西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB) 」2022.3



おかげで、普段見ることのできない内部構造の解説動画も公開されています。
建築家の専門家による丁寧な説明が、とても分かりやすく、楽しいです。



「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

現在調査中の西尾市岩瀬文庫旧書庫の内部構造についてお話を伺います。普段見ることのできない旧書庫の秘密が明らかに!




お分かりいただけましたでしょうか?

丸繁建築事務所の内田麻紀子氏が、「教科書どおり」と2回繰り返されました。

「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)

※30秒ほどの間で「教科書どおり」と2回繰り返していらっしゃいます



実は、修復工事で設計監理をつとめ、報告書を作成された河上先生が、立花伯爵邸を評するときに頻繁に使われた言葉も「教科書どおり」でした。



もういちど、 建築家・西原吉治郎(1868~1935)の簡単3行経歴を思い出してください。

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した



「教科書どおり」という言葉の背景に、吉治郎さんの経歴を重ねると、すんなりと納得できる気がします。勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿が浮かんできませんか。



「岩瀬文庫書庫・児童館」は、西原吉治郎が愛知県の職を辞した後に設計した建物です。
そして、吉治郎が福岡県時代に設計を引き受け、愛知県へ移動後は手紙などで工事を指示した「立花伯爵邸」も、吉治郎が個人的に請け負った仕事になります。

木造建築の公共施設は、利便性が優先されるため、時代に合わせて改築され、門も残さずに失われてしまう例がほとんどです。
いろいろな事情が重なった末に、福岡県と愛知県にそれぞれ残された西原吉治郎の建築が、立花伯爵と豪商・岩崎彌助という特徴的な個人を施主とするのは、とても興味深い巡り合わせではないでしょうか。



オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長が解説します。
福岡県に残る「教科書通り」の建築が気になる方は、 是非オンラインツアーへ!



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付

参考文献
YouTube「愛知県西尾市」【公式】文化遺産オンライン(文化庁)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館」文化財ナビ愛知) 西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 本文編 (PDF 4.0MB)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB)愛知県西尾市HP西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》

2023/10/17

ただいま、 オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催) の解説冊子を鋭意作成中です。


立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求しています。

しかし、報告書の作成は平成19年(2007)。新知見も出てきています。


とくに、立花伯爵邸「西洋館」を設計した西原吉治郎については、調査研究が蓄積され、その姿がより明確に見えてきました。


詳細な経歴は下記の文献におまかせして、建築家・西原吉治郎(1868~1935)の経歴をものすごく簡単に3行にすると、

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した

となります。

吉治郎は明治初年生まれ。およそ30歳、40歳、50歳で職場を変えながらも、工手学校在学時からずっと現場でキャリアを積み、建築家として働き続けました。
わたしは勝手に、勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿を想像しています。


優れた先行研究をもとに、現存する吉治郎作品をインターネットにて捜索していたら、興味深い事実をいろいろと見つけてしまいました。


そこで急遽、建築家・西原吉次郎の足跡をたどるGoogleマップツアーを開催!
オンラインツアーのプレ企画として、 お楽しみください。


吉治郎の在籍時に福岡県営繕が手がけた建築活動は、病院や県立学校、郡役所など様々でした。

なかでも、明治33年(1890)9月に「設計及工事監督」を嘱託され、翌年に竣工した「日本赤十字社福岡支部本館」は、吉治郎が最初に設計した本格的洋館であり、のちに設計する「立花伯爵邸西洋館」と共通する点も多かったようです。

*共通点の詳細は、河上信行・松岡高弘「福岡県技手西原吉治郎と雇亀田丈平」(『日本建築学会研究報告』49号 2010.3 日本建築学会九州支部) を参照

残念ながら建物は昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で焼失してしまいました。



ところが、その正門の門柱は焼失を免れ、病院とともに場所を移して再建された日本赤十字社福岡支部の門として、今もきちんと保存されているのです。

日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱 【福岡市登録有形文化財】
高さ3.59m 上部の笠石は別造り 石材は徳山産花崗岩



そして、本来は左右2本ずつ計4本だった門の外側の2本は、久留米赤十字会館ににて門柱としての役を担っています。



これらの門柱と、立花伯爵邸の正門とを見くらべると、

同じバイブスを感じます。

門扉など鉄を素材とした部分は戦時中の物資供出で失われ、戦後に再現されました



立花伯爵家のアルバムを探すと、明治43年(1910)の竣工よりも前、建築工事中の正門の写真も見つかりました。【上段左写真の赤枠内】

まさに、西洋館が”映える”ようにデザインされた門柱ではないでしょうか。



建物の設計者が必ずしも門までデザインするわけではなく、誰の作だと判断する術もないのですが、立花伯爵邸の正門については、当時の寸法図が残されています。

正面門柱の正面図 原寸1/5スケール

ここまで精密に描かれた図面をみると、吉治郎自身がデザインした可能性は十分にあります。

となると、共通する雰囲気をもつ日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱にも、吉治郎の意向が反映されていると考えたいところです。



作例は多いほど楽しいので、吉治郎さんの足跡をさらに辿ってみます。



吉治郎の在籍中に福岡県営繕が手がけた建築には、県立中学校も含まれます。
現時点で吉治郎がどの学校を担当したのかは不明ですが、柳川の伝習館、久留米の明善、福岡の修猷館、京都の豊津、北九州の東筑……
そういえば、我が母校はどうだったっけ?

木造校舎ではありませんでしたが、古めかしい正門があったような気がします。

明治31年(1898)開校の福岡県東筑尋常中学校は、翌年「福岡県東筑中学校」と改称、明治35年(1902)に現在地の新校舎に移転しました。
今の県立東筑高等学校の正門は、新校舎移転時からのものだと推測されます。

「日本赤十字社福岡支部本館」や「立花伯爵邸西洋館」の門柱と、共通する雰囲気があるような……

いずれ確かめに行かねばなりません。



さらに愛知県へと足をのばします。

西原吉治郎は、愛知県では営繕のトップにつき、多種多様な公共施設の設計・工事監督を担当しました。

例えば、吉治郎が新築移転の任にあたった、大正3年(1914)完成の「愛知病院・医学専門学校」の正門がこちら。2基が同じ道路沿いに立っています。

旧愛知県立愛知病院正門及び外塀 【国登録有形文化財】

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀 【国登録有形文化財



ここまで見てきた門柱たちのバイブス、かなり似てなくない?



しかし、趣がちがうデザインの門柱も残されています。

明治村第八高等学校正門【国登録有形文化財】 
昭和45年(1970)愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町より移築

吉治郎を中心とした愛知県営繕が設計を担当し、明治42年(1909)に建てられた第八高等学校の正門が、今は博物館明治村の正門として残されています。

赤煉瓦と白御影石を積んだデザインは、この頃に流行していた「辰野式」を彷彿させます。「辰野式」とは、日本近代建築の父とも称される建築家・辰野金吾が好んで用いた様式のこと。
吉治郎さんの意向ではなく、第八高等学校の設計の基本方針を示したとされる初代校長や文部省営繕課の意向が影響した結果ではなかろうかと、わたしは邪推しています。ただし、根拠はありません。



今回は結局、門だけしか見てきませんでした。
(それでもわたしはものすごく楽しかったです)
もっと西原吉治郎について知りたくなった方は、是非オンラインツアーへ!

オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長がじっくりと解説しながら、ちゃんとご案内いたします。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



建築家・西原吉治郎についての先行研究





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、福岡市文化財HP平成25年度の福岡市指定文化財・登録文化財について」、 文化遺産オンライン(文化庁)、福岡県立東筑高等学校同窓会東筑會HP「母校沿革」文化財ナビ愛知HP(愛知県)、博物館明治村HP

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花伯爵邸「家政局」七変化

2023/9/24

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。

まずは前回の、「大広間」修復工事のビフォーアフターをご確認ください。





そして、「家政局」のビフォーアフターは、こうなりました。

どうして…どうして…




安心してください。

取り戻したかった、100年前の「家政局」の姿は、こちらなのです。

おそらく昭和40年代(1965~75)の「家政局」



ただし、この写真は昭和40年代(1965~75)に撮影されたと推測されるもので、厳密には100年前の姿とは言えません。
実は、「家政局」の昔の写真は、あまり残されていないのです。



明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸は、西洋館・大広間・御居間・御子様御部屋・仏間・御宝蔵・女中部屋などの多くの棟が連なり、廊下で繋がれていました。

立花伯爵邸全域の航空写真 1930~1937年



「家政局」棟は、木造2階建。1階に家政局の事務所と職員の控室が、2階には会議室2部屋と客間1部屋が設けられていました。
もともと家政局とは、伯爵立花家の財産管理などを担う家政機関の名称です。
当時「御役所」と呼ばれていたオフィス棟を、今は「家政局」と呼んでいます。

現在、伯爵邸時代に撮影された「家政局」の外観写真は、撮影日が不明の、この2点しか確認できていません。伯爵立花家の家族が生活する場所ではなかったので、立花家のアルバムに写真が残されなかったのです。



立花家のアルバムに残る「家政局」っぽい室内写真は、今のところコレだけ。
上の2点の外観写真の、高欄の形などから推測しました。

伯爵邸時代の「家政局」?の室内写真
「家政局」は昭和62年(1987)頃にサッシ窓に替えられました。

かわいい。


ですが、伯爵邸時代の「家政局」については、また別のおはなしで。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付




時代はとんで昭和20年(1925)、第二次世界大戦の終結後。
戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なったため、立花家は収入源を確保しようと、 料亭・旅館業をはじめます。

昭和25年(1950)5月、立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。
立花家が伯爵ではなくなると、家政機関は不要となり、「家政局」は役割を失います。


立花家17代目の想い出話では、16代当主・和雄は、空きスペースとなった「家政局」を赤の他人に気前よく貸し出し、そのあげく「家政局」でダンスホールが営業されていた時もあったようです。 *これもまた別のおはなしで。



現時点で最も古い、撮影日が確かな「家政局」の写真は、昭和45年(1970)10月30日、「焼肉とイタリアンスナック 御花 一番館」オープン時のものです。

当時「家政局」は60歳、外観を一変して再出発がはかられました。
墨漆喰の黒壁を、なまこ壁風白壁に変えたところに、当時の流行を感じます。
ただし、骨組は変えていません。



昭和39年(1964)の東京オリンピックと昭和45年(1970)の大阪万博を画期として全国的に整備された交通網が牽引し、マイカーの大衆化や高速道路網の発展が推し進めた観光ブームは、柳川にも波及しました。

はじめは伯爵時代の建物・食器・布団などを贅沢に流用して料亭旅館を営んでいた立花家も、昭和46年(1966)に株式会社 御花となり、観光ブームに乗り遅れないよう設備の充実をはかるようになります。
「家政局」の改装も、その一環でした。



「御花」を訪れる観光客はドンドン増え続け、昭和49年(1974)には10万人、昭和56年(1981)は20万人を突破します。



観光地として大賑わいをみせる「御花」では、ホテル棟やレストラン棟が新築され、代わりに「焼肉とイタリアンスナック御花 一番館」は閉店します。

今度は「御花」の来園受付兼土産物店となった「家政局」。
当時は団体旅行で来園した大勢の旅行客がひっきりなしに出入りして、芋の子を洗うような混雑も見られたようです。

残念ながら、当時の写真はありませんが、修復工事の直前の「家政局」のそこここにも、往時の名残が感じられます。



平成6年(1994)に、ショップ「お花小路」を併設した史料館棟が新築、受付の機能が他に移されたため、再びお役御免に。その後は、株式会社御花の事務所として使われるようになりました。

しかし、現代オフィスには必須の、電気設備も空調設備もネット回線も想定されていない旧「家政局」は使い勝手が悪く、すきま風に煩わされない現代建築への大改装を望む声が日に日に大きくなっていきます。


ちなみに、家政局の別の一区画では、すでに昭和26年(1651)頃から柳川藩主立花家に伝来した美術工芸品が展示されていました。

「立花家史料室」 1970年代の「御花のしおり」掲載写真

史料館棟の新築後は、民具を展示していた時期もあります。



ところが、にわかに「家政局」は見直されます。

福岡県西方沖地震(2005.3.20発生)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)を機にご縁ができた、建築の専門家の方々が、「家政局」の歴史的価値を一目で見抜いたのです。
立花家をはじめとする関係者一同は思いもよらず、大改装も考えていた時でした。

奇跡的に生き残り、築100年にならんとする「家政局」。

全国的にみても、旧大名家の家政機関であった建物は残されておらず、いつの間にか希少な一例となっていました。よそのお宅の「家政局」は、役割を失った際にダンスホールにはならず、すぐに更地にされたのでしょう。



そして平成23年(2011)年、もともと旧立花伯爵邸の敷地【下図青色範囲】は、昭和53年(1978)に「松濤園」の名で国の名勝に指定されていましたが、指定範囲が追加され【下図赤色範囲】、名称も「立花氏庭園」と改められました。

ついに「家政局」も、名勝の重要な構成要素として、文化財に!

たちまち、河上建築事務所の綿密な調査により、「家政局」棟の骨組の大部分が建築当初のまま維持されていることが確認され、改造前の姿に戻す「復原」兼、修復工事が計画されました。


また、工事準備にあたり、昭和末期から「家政局」内で営まれていた社員食堂をふくむ、すべての事務所機能がホテル棟へ移されました。



伯爵邸時代から現在まで、一貫して人が集う場所でありつづけた「大広間」と、それとはまさに対照的に、めまぐるしく役割を変えてきた「家政局」。
それぞれ異なる問題を抱えていましたが、様々なハードルを乗り越え、平成の大修復工事が実施されたのです。



100年前の姿を取り戻した「家政局」。
白い「西洋館」との組合せが映える、クラシカルな美しさをご覧ください。

「家政局」修復および外観復元後 2019年4月

「家政局」の過去を知っていると、実際の3倍ほどステキに見えてきませんか?

わたしは、ここに書ききれなかった伯爵時代からの七変化の詳細を知っているので、実際の7倍ほどステキに見えています。


「家政局」を7倍ステキに見たい方は、是非ともオンラインツアーへ。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。

2023/9/14

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」修復工事(2016-17) では、雨漏り被害が年々拡大していた屋根を全面的に改修して、約1万3千枚の瓦をすべて葺き替えました。

修復工事前 2014年7月

修復工事前の瓦の話はこちら。




現在、全国の瓦の多くは、限定された製産地でつくられた機械製品です。

しかし、昭和初期頃までは、各地の身近な土で焼かれた手づくりの瓦がつかわれていました。筑後地方でも、大正7年頃までの瓦生産は、手作業でした。
「大広間」の瓦は、刻印から、地元柳川でつくられたことがわかります。

修復前の旧瓦は、土の耐火度が低いために焼成が十分ではありませんでした。
そして、100年以上にわたり風雨にさらされ続けてきました。

修理の時点で、ほとんどの瓦は、 瓦に滲みた水分が凍結と融解を繰り返す「凍害」により、割れ・欠け等の破損がありました。


新しく葺く瓦は、日本三大瓦の産地といわれる愛知県三河地方の「三州瓦」をつかいます。

耐久性があり、かつ明治期の瓦となじむ色味に調整できる瓦を探しました。良質の粘土を高温で焼き締めた均質な瓦は、明治期の瓦よりもグンと長持ちするはずです。




はい!
では、これから、 約1万3千枚の瓦を葺き替えていきたいと思います!


まず「大広間」を素屋根で覆います。




2016年7月

それでは、瓦をはずしていきましょう。

2016年8月



これは……土、でしょうか?



まごうかたなく土ですね!



ご覧ください!
こんな大量の土が、「大広間」の屋根に隠されていました……



「大広間」は壁の少ない構造の上に、瓦や土を積んだ重く大きな屋根が架けられた「頭でっかち」だとは聞いていましたが、想像をはるかに超えていました。
これでは非常に重いはずです。

屋根全面に敷きつめた土(粘土に川砂や石灰を混ぜたもの)に、瓦をのせて安定させる工法を、「土葺き」といいます。 昭和20年代までは、この工法が主流でした。これだけの量の土なら、断熱効果も高そうです。
屋根の板の上に杉の皮などの下葺き材を敷き、その上に粘土をのせ、粘土の接着力で瓦を固定するそうですが、こんなに石がゴロゴロあって大丈夫だったのでしょうか。

現在は、葺き土を使用しない 「空葺き」工法が一般的です。


文化財の修復は、本物としての価値を損なわないため、現状維持を原則としますが、今回の修復工事では、「土葺き」を「空葺き」に替え、瓦も旧瓦よりも軽い「三州瓦」をつかいます。

屋根をできるかぎり軽量化して、耐震性を高めるためです。
「大広間」内に出入りする見学者の安全確保を、何よりも優先して決めました。





それでは、こちらのバキューム車で、土を取り除いていきましょう!









「大広間」屋根の土の除去作業
【注意:掃除機に似た音がします】

観光客に配慮して、砂埃が舞わないようバキュームで吸い込みました。土というより礫に近く、手作業で砕かないと吸い込めません。吸引力を高めると、野地板の上に敷かれている杉皮まで吸い込むので、加減が難しかったそうです。

想定以上の大量の土を、なんとかバキュームで吸いあげました。



無事、土もなくなりました!
これからは倍速でお見せしていきます !


細い木で押さえれられていた杉皮が撤去され、野地板 ノジイタ (屋根の下地板)があらわになりました。 さらに野地板もはずしていきます。



垂木 タルキ(棟から軒にかけた斜材)は、なるべく元の木材を残しながら、腐朽した部分を修理しました。



あわせて950枚ほどの野地板を新しく張った上に、「改質ゴムアスファルトルーフィング」(合成樹脂を混合したアスファルトを浸透させた防水紙)を敷いていきます。



ルーフィング(防水紙)の上に縦横に桟木 サンギを打ち付け、針金や釘で瓦を桟木に固定します。



最後にかわいくデコっていきましょう!

立花家の家紋「祇園守紋」があらわされた鬼瓦は、旧瓦と寸分たがわぬよう、焼成後の収縮率を計算した上で、手彫りでつくられました。




はい!完成です!!

2017年8月



ビフォーアフターは、こんな感じ。

なんということでしょう!
ただ瓦が新しくなっただけに見えます。


大量の土が失われ、屋根の重さが激減したことに、いったい誰が気づくでしょうか?(反語)


わたしと吉村さん(現場代理人)と河上先生(設計監理)と、バキューム作業に携わった少人数しか知りえない事実をわかちあった貴方に、ひとつお願いがあります。




立花伯爵邸「大広間」が超重い屋根に耐えてきた100年間を、どうか忘れないであげてください。   



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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かりそめの素敵な素屋根

2023/9/8

工事中の建物を風雨から守るために覆う仮屋根を、「素屋根」といいます。

文化財建築物の修復工事の現場では、各々の事情に合わせ「素屋根」が設営されますが、すべて工事後には解体され、その姿をとどめることはありません。


現在(2023年9月)、Googleマップ航空写真に見る「立花氏庭園」は、「大広間」修復工事中(2016-17) に撮影されていたようです。

国指定名勝の全貌が見えないのは残念ですが、今にいたるまで素屋根の姿が残されていて、わたしはとても嬉しいです。

工事終了後の全貌 は、Googleアースの航空写真で見られます。



現場代理人・吉村さんの頼れる背中

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」工事の現場代理人は、吉村さん。
センス・知恵・経験が豊富で、ものすごく頼りがいがありました。







「大広間」工事の素屋根には、吉村さんの英知がこめられています。



作業足場と素屋根の設営は、修復工事のはじめの一歩。
しかし、その前に大きなハードルがありました。


修復工事と観光の両立です。

民有の文化財である国指定名勝「立花氏庭園」の修復工事は、国・福岡県・柳川市からの補助をうけながら、所有者の株式会社 御花が主体となって実施します。

文化財保護のためには、「安かろう悪かろう」工事は許されません。
民間企業としては、文化財を活用して蓄えた資金を文化財の修復に費やすという運用をストップできないので、営業を続けていかねばなりません。


「大広間」はおよそ110歳、大規模な修復工事は今回が初めてです。

順次建てられた新築時とは異なり、北は「西洋館」、東は「御居間」、南は「松濤園」と密接しています。四方を文化財で囲まれた「大広間」まわりの狭さは、航空写真をみると一目瞭然でしょう。


修復工事中も平常とかわらず観光客を迎えるなか、文化財を傷つけずに工事作業をすすめるため、有識者による「名勝立花氏庭園整備委員会」でも議論が重ねられましたが、観光客の多少の不便は仕方ないという雰囲気でした。しかし、所有者の希望は、お客様ファーストです。


どうする吉村さん!

わたしは今も鮮やかに思い出せます。
工事の落札直後、吉村さんが「素屋根の改良案があるのですが」と言い出された瞬間を。



そして、「松濤園」展望デッキが組み込まれた「素屋根」が設営されたのです。

CNES/Airbus、Maxar Technologies、地図データ ©2023を加工

「工事後も展望デッキは残してほしい」と本末転倒な声があがるほど、大好評を博した展望デッキは、予定を超過して、素屋根を解体するギリギリまで活用され続けました。



素屋根足場に凝らされた吉村さんの工夫は、これだけではありません。


限られたスペースを効率的につかい、台風にも負けない強度となるよう、ブレース構造(筋交い)の枠組を多用したり、防炎シートをスムーズに張れるよう、屋根部分をフラットにしたりと、計算を重ねてています。
天井に半透明部分をスリット状に入れて、採光を確保。全体を覆うのは、内部に熱や湿気がこもらない通気性のシートです。


屋根材としては、トタン板(亜鉛鉄板)やタキロン(硬質塩化ビニール波板)などの候補もありましたが、手間・工期・費用・強度・勾配を総合的に判断して防炎シートに決めたと、吉村さんから聞きました。シートは継ぎ目ができないため、屋根の勾配を緩くできるそうです。


たとえば、福岡県西方沖地震(2005.3.20発生、柳川市は震度5弱)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)の「素屋根」と見比べると、屋根の形やつくり等の差違がわかります。

「御居間」は文化財建物に挟まれてないので、「大広間」まわりより余裕がありました。何より、松濤園のマツの木々との距離にもゆとりがあります。



「大広間」の工事では、どのように工夫してもマツが邪魔してきます。
しかし、素屋根足場の障害物となるマツも、国指定名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素です。文化財の一部として、保護しなければなりません。



マツには少し退いていただくことになりました。


しかし、これを理由に100年かけて育ってきたマツが衰弱したら、困ります。
前年に根回し(根の周囲を切って細根の発生を促す準備)をした上で、 2016年2月に仮移植しました。
「松濤園」には重機が入らないので、すべてが人力作業。とてつもない大仕事でした。

もちろん、工事終了後は、元の位置にきちんと戻っていただきます。

植木職人さんから「戻さなくても良いのでは?」と尋ねられました。
わたしも気持ちが傾きかけましたが、「名勝」とは「眺め」を文化財として指定されているので、指定時の「眺め」から変更することは許されません。
ふたたびの重労働の末、マツは工事前の位置に戻されました。




マツに退いてもらっても、作業スペースは確保できません。


解決策として、「大広間」と「西洋館」の間の中庭、ソテツの上空に作業用ステージを設けました。ここで素屋根のパーツも組み立てています。



しかし、ソテツも名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素
枯らさないため、 日照と雨水を確保できるよう配慮しました。



台風襲来!
嵐が来るぞ、”帆”をたため!!

「計算上どんな台風でも全く問題ありません」という吉村さんの言葉は非常に頼もしかったのですが、台風接近予報のたびに、”帆”をたたみ、ブルーシートで覆う手間はとても大変そうでした。




ふりかえってみると、現場代理人・吉村さんと、設計監理・河上先生と、素敵な「素屋根」とともにあった「大広間」修復工事の日々。



あの素晴らしい「素屋根」をもう一度……とは全く思いません。

2017年3月 
2016年4月発生の熊本地震による災害復旧工事も同時進行していました



かりそめがゆえの美しい想い出。


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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