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〚館長が語る3〛柳川城主となった立花宗茂

2024/6/1
立花宗茂[1567~1642]

豊臣秀吉にその武功を高く評価され、大友家の家臣から豊臣大名となり、柳川に領知を得た立花宗茂は、妻誾千代を伴って柳川城へ移ることになりました。
天正15年(1587)6月のことです。








間もなく宗茂は、隣国の肥後で勃発した国衆の一揆※討伐に加わります。
宗茂にとって豊臣大名となって初めての戦となったわけですが、そこでの戦功が際立っていたことが秀吉の朱印状に記されています。

※肥後国衆一揆…天正15年、秀吉に肥後を与えられた佐々成政は検知を行うが、それを拒否した隈府城の隈部親永に肥後の国人衆が加担して大規模な一揆に拡大した。秀吉は小早川秀包を総大将とし、筑後、肥前の諸将を討伐に向かわせた。



宗茂はその後、誾千代と共に初の上洛を果たし、若き豊臣大名として大坂と柳川を頻繁に行き来しながら柳川の統治を進めることになります。宗茂22歳のときでした。



そして文禄元年(1592)、秀吉の「唐入り」にあたり、宗茂は小早川隆景を主将とする第六軍配属され朝鮮半島へ渡ります。


小早川隆景 [1533~1597]

隆景は、すでに実父と養父を亡くしていた宗茂にとって第三の父とも言える人物です。
若い宗茂に大きな影響を与えた武将であり、これまでの活躍から宗茂に対して高い信頼を置いていたようです。









その期待に応える働きをした宗茂は加藤清正や島津義弘をはじめとする西国大名と固い信頼関係を築くことになります。








誾千代[1569~1602]

一方、誾千代は柳川城の南にある宮永という地に館を建て、城を出て別居することになりますが、その時期は、文禄4年(1595)と慶長4年(1599)の二つの説があります。









いずれも、2度にわたる宗茂の朝鮮出陣直後のことですので、この大きな戦の間に二人の関係に何かがあったのではないかでしょうか。

資料が残っていないため想像の域は出ませんが、初代道雪の娘であり元城主であった誾千代と、婿でありながら秀吉に見いだされて一大名へ出世を果たした宗茂には、それぞれに強い忠節を抱く家臣がおり、そのバランスの危うさも別居の背景にあったのではないかと考えられています。



豊臣秀吉 [1537~1598]

慶長3年(1598)、豊臣秀吉死去の後に朝鮮から帰国した宗茂は、その1年7か月後に天下分け目と言われる関ケ原合戦において、西軍に加担します。









ここに至る経緯については資料が乏しく不明ですが、島津義弘が遺した文書によると「秀頼様に対したてまつるご忠節のため、御軍役の人衆過上の由」と記されているように、軍役の規定を大きく上回る大軍を派兵したとされ、強い決意をもって西軍に投じたことがわかります。



しかしながら、大津城を攻略していた宗茂の軍は関ケ原合戦の本戦には間に合わず、そのまま敗軍の将として無念の思いを抱きつつ九州へ帰還することになりました。



この戦の後、宗茂の人生は大きな試練の時を迎えることになります。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

大久保ヤマト氏イラストの【 宗茂と誾千代キャラクターズバッジ】 をお手元に





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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〚館長が語る2〛女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代

2024/5/3

前回は、7歳で立花城主となった誾千代が、13歳の時に2つ年上の宗茂を婿に迎えるまでのお話しをしました。





今回は、宗茂と誾千代の結婚と二人の立花城時代についてお話ししたいと思います。

大友宗麟 [1530~1587]

元亀2年(1571)、大友宗麟の命により立花城主となった戸次道雪ですが、男子がいなかったため、主である大友宗麟は戸次一門のうちからしかるべき男子を養子として「立花城」の家督を譲るように勧めます。









しかし、道雪はこれを聞き入れず、天正3年(1575)数え年わずか7歳の娘・誾千代に立花城主の座を譲ってしまいます。この相続は大友宗麟と義統も認めたため、ここに幼少の女城主が誕生したのです。

天正三年(1575)五月二十八日
戸次道雪譲状写(部分)【重要文化財】





その6年後、誾千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが高橋紹運の長男であった弥七郎 ヤシチロウ 統虎 ムネトラ、のちの立花宗茂でした。
誾千代と宗茂の婚儀は天正9年(1581)8月と言われています。

こうして、立花城主の座は夫となった宗茂に引き継がれたのです。



二人の婚儀の背景には、騒乱の九州にあって衰退する大友家の家臣として北部九州を守る戸次道雪と高橋紹運が堅固な軍事同盟を結ぶという意義があったのではないかと言われています。


その頃、道雪と紹運はともに筑前筑後の各地で反大友勢力との戦の中にありましたが、宗茂と誾千代の結婚からわずか4年後の天正13年(1585)9月、道雪は筑後北野の陣で没し、翌14年(1586)7月末には紹運の護る筑前岩屋城も九州の統一をもくろみ北上する島津軍との戦いで陥落、紹運も戦死します。



二人の父を相次いで亡くした宗茂と誾千代は、その時19歳と17歳という若さでしたが、立花家を率い、立花城を包囲する島津軍との20日間におよぶ決死の籠城を耐え抜きます。




そして、大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の軍が九州に入るという報を受けて島津勢は撤退を開始し、立花城は危機を脱しました。宗茂はこの機を逃さず、島津方にあった高鳥居城を激戦の末落城させ、岩屋・宝満両城も奪回します。

豊臣秀吉 [1537~1598]

この武功に感じ入った秀吉は、黒田如水、安国寺恵瓊等に宛てた書状で宗茂を「九州之一物(九州一秀でた武将)」と激賞しています。









この軍功により、天正15年(1587)立花家は大友家から独立して筑後柳河に新たな領知を与えられ、大名となったのです。

天正十五年(1587)六月二十五日 豊臣秀吉朱印状【重要文化財】


九州の要衝である立花城は、その後小早川隆景が入ることになり、宗茂と誾千代は筑後柳川城へと移りました。


立花家御城印シリーズ 「立花城」「柳川城」はじめました






若き豊臣大名・立花宗茂は戦巧者としてその名を知られるようになるのですが、そのお話は、次話でご紹介いたしましょう。




文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


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立花家のヨメが、徳川家康のヒマゴで、伊達政宗のマゴ!?

2024/4/28

柳川藩主立花家にお嫁入りした女性のなかに、今でも「仙台奥様」や「仙台奥さん」と、なぜか親しげに呼ばれる方がいます。



その方は、2代柳川藩主・立花忠茂(1612~75)の継室となった、鍋子(1623~80)さん。

正保元年(1644)の祝言までの経緯を、柳川古文書館学芸員の白石氏がわかりやすく解説されています。

白石さんによる詳しい経緯の解説はコチラ






忠茂 33歳と鍋姫 22歳の縁組は、いろいろと異例でした。


忠茂の先妻・長子〔玉樹院〕の場合、大御所秀忠に仕える西丸老中の父・永井尚政は、最終的には淀藩(京都府)10万石の藩主となりますが、結婚当時は古河藩(茨木県)8.9万石の藩主でした。
柳川藩(福岡県)11万石と、ほどよく釣り合った縁組だといえます。


しかし、鍋子さんは仙台藩(宮城県)62万石の2代藩主・伊達忠宗の一人娘。

しかも母親は、 姫路藩(兵庫県)52万石の初代藩主・池田輝政の娘、かつ初代将軍・徳川家康の孫であり、2代将軍・秀忠の養女となって嫁いだ正室・振姫です。


ちなみに、振姫の母親は、2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』で印象深い役柄だった「お葉」〔西郡局〕であり、北条氏直との離縁後、再婚した池田輝政との間に振姫をもうけました。
「お葉」さんの娘!俄然親しみがわいてきます。
また、父・忠宗の両親、伊達政宗と正室・愛姫についても、1987年NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』のおかげで、よく知っている気がします。

わたしは日頃、血統ではなく「家」という枠で系図を見ていますが、今回はフカボリするほどに意外な血縁が判明して、ワクワクしました。


あいにく振姫の実子3人のうち男子2人は早世したため、側室から生まれた綱宗が3代仙台藩主となります。
つまり鍋ちゃんは、徳川家康と伊達政宗との血を受け継ぐ、一粒種となってしまったのです。

忠茂が 「つりあわぬ身躰」 と感じたのも、無理はありません。

まさに格差婚。
しかも老中が祝言を急かすので、予期せぬ大きな出費が嵩んでムリっぽい。

そこで老中は、本来ならば江戸上屋敷ですべき祝言を、下屋敷で行うよう助言してきました。柳川藩の苦しい財政事情を鑑みた、立花家の負担を減じる指示でしたが、鍋姫や伊達家にとっては不本意だったかもしれません。

いろいろと異例な縁組と祝言には、3代将軍・家光の意向「上意」が働いていたようですが、家光の目的は何だったのでしょうか。


大きな格差はありましたが、忠茂と鍋姫はいい夫婦となれたようです。

二人の間には、夭折した千熊丸、後の3代柳川藩主・鑑虎、先の永井家に嫁いだ、忠茂から「雷切丸」をもらった茂辰、早世した兄から「雷切丸」を引き継いだ茂堅、縁起を担いで養子に出された、旗本として分家を立てた貞晟、福岡藩主黒田家に嫁いだ呂久と、5男2女〔一説には6男2女〕が生まれました。

脇指「雷切丸」の話はコチラ



江戸時代、大名の正室には跡継ぎの確保が期待されました。

幸運にも鍋姫は、実子の鑑虎(1645-1702)が無事に成人して3代柳川藩主となりましたが、その鑑虎が、両親の供養のためにつくらせた位牌もまた異例でした。

忠茂と鍋姫それぞれの位牌が、一つの厨子の中におさめられています。
厨子には、立花家の家紋「祇園守紋」と、伊達家の家紋と思しき「竹に雀紋」があしらわれているのが、かろうじて見て取れます。
夫婦の位牌をまとめて厨子におさめた例は、意外にも少ないのです。


同じ永禄10年(1567)に生まれた立花宗茂と伊達政宗。
勇将として名高い二人の没後に奇しくも結ばれた、養嗣子と孫の縁組。
徳川家康・高橋紹運・池田輝政・伊達政宗の血を継ぐサラブレッド鑑虎の誕生。
今にいたるまで立花家の仏間で祀られてきた、両家の家紋があしらわれた厨子。

なんか、すごくエモくない?

現代から立花家の歴史をふりかえると、2代藩主・忠茂の最大の功績は鍋姫との逆玉婚と言いたくなります。

実際、鍋姫は自らの血縁を活かして、立花家と伊達家との仲介をつとめたり、江戸城大奥を通じた「奥向」の交渉ルートをつかったりと、誰にもできない役割を果たしました。
そして、その威光は実子たちにも及び、彼女の没後も輝き続けるのです。

近世大名家の女性達の名と活躍は、歴史の表舞台に出ることはあまりありませんでしたが、立花家の婚姻を紐解き、彼女たちの生涯を追ってゆくと、歴史の節目にいかに大きな役割を果たしたのかが見えてきます。




6月4日(火)開催のオンラインLIVEツアーでは、 江戸時代の大名家間で行われた婚姻について、遺された豊富な婚礼調度や文書資料を使って実像に迫ります。
立花家から黒田家・毛利家・蜂須賀家へ嫁いだ姫たちもまた、鍋姫にまさるとも劣らぬ物語を紡いでいるので、是非ご参加ください。【終了しました】

オンラインLIVEツアー「華麗なる縁-柳川藩主立花家の婚礼」 (2024.6.4 19時~開催) 立花家の婚姻物語や大名家の婚姻の儀式を紹介、生配信カメラで伝来の婚礼調度に肉迫して解説します。 ◆解説ブックレットA5版カラー・オリジナル紅茶と焼き菓子のセット 付



立花家の歴史に多大な影響を与えた鍋姫の法名は、「法雲院殿龍珠貞照大夫人」。
本来ならば「法雲院さま」と敬称すべきで、「仙台奥様」「仙台奥さん」と気安く呼ぶような感じではないのですが……






参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、作並清亮『伊達略系』(仙台文庫叢書第1集)1905、柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市 【正室鍋姫 50~53頁】、中野等・穴井綾香『柳川の歴史4近世大名立花家』2012.3.31 柳川市 【伊達家との婚姻 330~332頁】、柳川市史編集委員会 編 『柳川文化資料集成第3集-3 柳川の美術Ⅲ』2013.5.24 柳川市 【立花家仏間の位牌 218~233頁】、角田市文化財調査報告書第55集『牟宇姫への手紙3 後水尾天皇女房帥局ほか女性編』2022.3.28 角田市郷土資料館

*** ココまで知ればサラに面白い ***
学芸員として人前で作品解説をする際、ココまで知ればサラに面白くなるけれどと思いながらも、時間等の都合でフカボリせずに終わらせることは少なくありません。そんな、なかなかお伝えする機会のないココサラ話をお届けします。

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〚館長が語る1〛近世大名立花氏の誕生と戸次道雪

2024/4/3

福岡県では、旧柳川藩の城下町であった柳川市をはじめゆかりの市町村とも手を結び、戦国時代の終わりに北部九州で活躍し、初代柳川藩主となる立花宗茂と、その妻であり女城主であった誾千代の物語をNHK大河ドラマとして取り上げていただくための招致活動を行っています。


まずは、皆さまに親しみを抱いていただけるよう、「立花宗茂と誾千代」の物語を6回に分けてお話していきます。



今回は、プロローグとして近世大名立花家誕生までのお話。



戸次道雪[1513~1585]

柳川藩主立花家は、戸次 ベッキ 鑑連 アキツラ 、改め道雪 ドウセツ を初代としています。
ネット上や、歴史本では「立花道雪」と書かれていることが多い戦国武将ですが、史実では生涯戸次姓のまま立花城主の座にあった人物です。






立花宗茂[1567~1642]

道雪は立花姓の使用を主の大友宗麟から許されなかったのですが、道雪の養子となった統虎 ムネトラ (後の宗茂)が、天正10(1582)年、「立花」姓を継ぐことになったのです。









さて、そもそも「立花」姓は、遡る事252年の南北朝時代、立花山に城を築いた城主が名乗ることから始まります。



その人物は豊後の有力守護大名となる大友家の一族、大友貞載 サダトシ で、立花貞載となります。これを、道雪以降の立花家と区別して、前期立花家と呼びます。



近世大名立花家のルーツは、豊後の守護大名大友家に深く関わっています
「立花家」について、より深く知りたい方にオススメ‼

◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー






立花城主であった前期立花家は、7代立花鑑載 アキトシ のとき、大友家に謀反をおこし、敗死します。代わって立花城主となったのが、戸次道雪でした。



誾千代[1569~1602]

道雪には男子がなかったため、一人娘誾千代 ギンチヨ が7歳の時に、城主の座を譲られました。










ここに戦国史上稀な女城主誕生となったわけですが、誾千代が13歳のときに、同じ大友家家臣の高橋紹運 ジョウウン の長男統虎15歳を婿養子に迎えました。


高橋紹運 [1548~1586]

紹運が長男を養子に出すということはそれだけ重い決意があったはずで、衰退する主家大友家を最後まで支え続けた戸次家と高橋家が堅い同盟を結ぶという意義が示された婚姻であったといえるでしょう。








九州の戦国期に勇将として名高い二人の武将、紹運と道雪、二人の薫陶を受けて成長した立花宗茂は頭角を表すことになります。





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。







文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

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シン・立花伯爵邸西洋館煙突

2024/3/24

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。(前回は先にレリーフ復原の話をしました。)





平成18年(2006)の春、立花伯爵邸の煙突は全解体され、この世界に存在しなくなりました。



西洋館1階食堂から見ると、こんな感じ。



しかし、解体された個々のレンガには番号が付され、丁寧にモルタル(セメント+砂+水) がはがされた後、また記録の通りに積み直して、「立花伯爵邸西洋館煙突」は再構築されるはずでした。

ですが、積み直すにあたっては「耐震補強」が必須であり、ただ元に戻すだけとはいかなかったのです。


「耐震補強」とは、 建造物の強度や靱性を改善して、耐震性能を向上させること。世界でも有数の地震多発地帯にある日本では、耐震・制震(制振)・免震の三対策がとられていますが、すでに建っている文化財建造物ではもっぱら「耐震補強」が選択されます。



明治43年(1910)に建築された立花伯爵邸西洋館は木造ですが、耐火でなければならない煙突部分のみレンガ造です。

木造の建築が一般的であった日本では、 洋風建築の技術とともにレンガ造がもたらされ、明治時代の耐火建築物に盛んに用いられるようになりました。しかしながら大正12年(1923)の関東大震災を境に、耐火建築物の主流は施工の簡単な鉄筋コンクリート造へと変わっていきます。



明治・大正期(1868~1926)につくられたレンガ造の建造物は、ほとんどは現在にいたるまでに淘汰され、かろうじて残ったとしても耐震性への不安から解体される例も少なくありません。

例えば、ご近所のレンガ塀、おそらく明治34年(1901)頃の柳河高等女学校の南塀は、スペースやコストの制限等により耐震補強を施す術がなく、年々崩落の危険性が高まるため、保存を諦めるしかなかったそうです。

2022年12月時点のGoogleストリートビュー

2023年10月時点のGoogleストリートビュー

ちなみに、百武 秀「福岡地方の古い赤れんがの化学成分:第2報」『福岡大学工学集報』77号 2006 福岡大学研究推進部 ) によると、柳河高等女学校南塀のレンガと、立花伯爵邸西洋館煙突・立花伯爵邸正門東塀のレンガは、寸法が同じ(230㎜×110㎜×60㎜)であり、柳川周辺で同じ粘土を使って焼かれた”同期の煉瓦”だと見られています。



レンガやコンクリートなどの工業製品を用いた近現代建造物の保存・修理には、日本で長年培われてきた木造建築の保存・修理の手法が活かせず、建造物ごとに新たな課題に直面します。

近現代建造物は,煉瓦,石,鉄,コンクリートといった材料を用い,一体的な躯体を形づくるところに特徴がある。それゆえ,木造のように部分的に解体して,傷んだ部材を補修した後,再び組み立てることは難しく,解体を伴う修理や改修は,文化財の価値を保持する上で必ずしも適当とはいえない。例えば,煉瓦造やコンクリート造の建造物を解体して,分解した材料を再利用しても,材料自体は残るが,建設当初の工法の一部は損なわれる。また,継続的に供用されている近現代建造物は,一般的には設備機器の更新が定期的に行われ,その際には機械の搬入や据付けのための改修を伴う。そうした設備の更新や,それに伴う改修を計画するに当たり,その時点での工事内容を検討するだけでなく,建設当初の記録などを基に現状と比較し,更には将来の改修の可能性も含めて,長期的かつ全体的に計画することが重要である。そのほか,建設材料には工業製品が用いられるようになっているが,その更新に同一の材料や製品を確保することが難しく,類似の新しい工業製品を使わざるを得ないといった課題も見られる。

PDF「近現代建造物の保存と活用の在り方」文化庁HP近現代建造物の保存と活用の在り方(報告)」平成30年(2018)7月より)



「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の当時、レンガ造の文化財建造物の修理事例はまだ些少で、レンガ造の煙突に耐震補強を施した前例は全くありませんでした。

暖炉の機能を残すためには、中を空洞にしなければなりません。外側から補強すれば、煙突の意匠が損なわれます。可能な限り元のレンガを用いるという条件も外せません……難易度がハードすぎるんですけど?
わたしが担当者だったら、早々に暖炉の機能を諦めたかもしれません。



修理工事の補助金を交付する 国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ね、耐震補強の工法が検討されました。「文化財建造物の内部に火は不要ではないか?」と問われたこともあったそうです。

そのなかで、設計・監理を担う河上先生は、難しい要求を淡々と受けとめ、傍からは愉快そうに見えるほど前向きに取り組まれて、下の図面に到達しました。

修理工事後

修理工事前

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花

「耐震補強」は安全のために必要不可欠でしたが、内部構造のビフォーアフターを見ると、 現在の立花伯爵邸西洋館の煙突は、明治43年(1910)当時の煙突と同一であるとは、厳密には言えないかもしれません。

いうなれば、シン・立花伯爵邸西洋館煙突でしょうか。



それはともかく、この「耐震補強」の効果は地震時にしか発揮されないので、今でも正解は分かりません。できれば正解は分かりたくありませんが、分からないが故に迷いも生じます。

それでも文化財というバトンを預かり、次世代へと継承していくために、その時々の最善を探りながら、保存と活用をうまく両立していかねばなりません。

そして、この道の先にゴールは存在しないのです。

文化財は,有形・無形の多種多様な文化的所産からなり,取扱いに細心の注意が必要な文化財が存在する一方で,社会の中で適切に活用されることで継承が図られる文化財も存在する。文化財は一度壊れてしまえば永遠に失われてしまうため,それぞれの文化財の種類・性質についての正しい認識の下に,適切な取扱いがなされることが必要である。
また,保存と活用は互いに効果を及ぼし合いながら,文化財の継承につなげるべきもので,単純な二項対立ではない。保存に悪影響を及ぼすような活用があってはならない一方で,適切な活用により文化財の大切さを多くの人々にえ,理解を促進していくことが不可欠であるなど,文化財の保存と活用は共に,次世代への継承という目的を達成するために必要なものである

PDF「文化財保護法に基づく保存活用計画の策定等に関する指針(最終変更 令和5年3月)」 文化庁



文化財の保存と活用も、諦めたらそこで終了です。

諦められることなく「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)で取り戻されたシン・立花伯爵邸西洋館煙突
知る人ぞ知る劇場版的エピソードを、下記の4話をかけて、やっとお披露目できました。

■ 一気読み! 立花伯爵邸西洋館煙突修理!■
1話 劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney
2話 解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」
3話 失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》
4話 シン・立花伯爵邸西洋館煙突


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》

2024/3/3

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。






レンガの積み直しの話はちょっと先送りして、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の終了後まで跳んでみましょう!



修理工事のビフォーアフターをご覧ください。

煙突が全解体されたとは信じられないくらい、変りがありません。


……あれ気付いちゃいましたか? 煙突のレリーフに。


修理のついでに、いい感じにデコっておきました……という訳ではなく、明治43年(1910)の建築当初の姿に復原したのです。



このように、大正年間(1920年代頃)の撮影だと推測される写真では、煙突にお洒落なレリーフがあることが確かめられます。

おそらく大正年間に撮影された「立花伯爵邸西洋館」南面 

煙突がある立花伯爵邸西洋館の南側は、「大広間」との間の中庭からしか見られないので、わずかな写真しか残されていません。現時点でレリーフが確認できる写真は、この1枚だけです。



そして、いつしかレリーフは失われてしまいました。

昭和61~62年(1986~87)に西洋館の大がかりな修理をした際には、古写真や図面の詳細な調査はなされず、そのままペンキが塗り直されただけでした。

昭和62年(1987)4月

その18年後の平成17年(2005)3月20日に福岡西方沖地震が発生。

平成17年(2005)3月20日 地震直後の「立花伯爵邸西洋館」南面

地震のはるか以前からレリーフは失われていましたが、文化財建造物として健全な状態に回復させるためには、できるかぎり建築当初の姿に復原しなければなりません。

しかし、個人の勝手な判断で、いい感じにデコることも許されません。



有明工業高等専門学校建築科助教授(当時)・松岡氏と河上信行建築事務所(当時)・河上氏が中心となって、立花家に未整理のまま残っていた図面や古写真が丹念に調査されました。煙突が写っている唯一の古写真も、このとき発見されています。

この調査の結果をもとに、柳川市と福岡県と文化庁とも協議を重ねて、煙突のレリーフが復原されたのです。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花 147頁より


デザインが決定したら、あとは漆喰を用いてレリーフを仕上げます。



はい!できました!

平成19年(2007)3月

しかし、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)のビフォーアフターの違いは、 レリーフだけではありません。


その違いの話は複雑で、とても長くなるので、次にします。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」

2024/2/28

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震により、立花伯爵邸西洋館煙突は大きく破損しました。
4月13日に、鉄製の「煙抜き」を地上に降ろすという応急処置がなされ、4月27日に、構造・デザイン・機能を取り戻すため、煙突は解体修理とする方針が決まりました。




諸々の準備を重ねて7カ月後、とうとう災害復旧を目的とする国庫補助事業「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)が、 河上信行建築事務所の設計監理、株式会社 田中建設の施工ではじまりました。

工事の現場代理人は、田中さん。
この工事が終わってから現在までずっと、立花伯爵邸の建物をとても気にかけてくださっています。



西洋館煙突は、応急処置が終わった状態がそのまま維持されていました。



「解体修理」とは、建造物を解体して各部材の補修を行い、 建造物を健全な状態に回復させる修理のこと。つまり、 全ての部材を解体して組み直すのです。

「解体修理」とは、こういうことです。


このスライドショーは、平成18年(2006)1月上旬から3月下旬までの72日間の解体作業にて、煙突のレンガを上から一段ずつ解体して撮影した現場写真を、約2分間に凝縮しています。



文化財建造物の価値を損ねないために選択される「解体修理」では、できる限り元の部材を修理して再利用するので、破壊しないように、石ノミで丁寧にレンガを外していきます。


外されたレンガは、一つ一つモルタル(セメント+砂+水)を剥がして、再利用のために保管されます。「解体よりも、レンガをキレイにする作業の方が、すごく時間がかかってツラかったですもんね」というのが、田中さんの感想です。



また、元の通りに組み直すため、レンガが積まれていた状況を記録しなければなりません。一段ごとに写真やスケッチで残された情報は、このように図面としてまとめられ、国庫補助事業の義務として作成した報告書にも掲載されています。
※図面の段数は、上のスライドとは逆の、最下段からの番号です。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花


そして、この図面の作成は、地震による破損状況も詳らかにしてくれました。

 煙突の破損がもっとも大きいのは軒蛇腹位置(桁位置)であった。一般に煙突など屋根から突出したものが震動を受けた場合、ホイッピング現象(むちうち現象)とよばれる現象が生じ、建物本体より大きく揺れる。当西洋館の場合、頂部が重く(3.6t)、煉瓦積みの煙突が建物の端にあって偏心しているため、接合部に応力集中が生じ、軒蛇腹付近が破断したと考える。また煙突が建物本体に挿入しているために、この部分の建物軸部は、壁や胴差しがなく、土台と桁だけでもっており、建物本体の中でも応力集中が生じ、大きく変形した可能性がある。そのような状況の中、2階床梁、1階大曳からの水平力も煙突に影響し、1、2階の床付近にクラックが生じたと推測する。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花  47頁



わたしは報告書を読んで後日談として知っただけですが、当時の担当者たちの苦労を想像してふるえてしまいました。

無尽蔵ではない予算の範囲で “暖炉に火が入っている光景”を何とか残せないかと、補助金を交付する国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ねた末に「解体修理」が実現できた過程を、ただ中にいた当館館長から聞いた後に見ると、この写真の得難さが身に沁みます。

立花伯爵邸2階 暖炉



解体が完了し、あとは外したレンガを積み直すだけ……とはいきませんでした。
「劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney」は、まだまだ終われないのです。





【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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〇〇藤四郎じゃない【国宝】短刀 銘吉光(立花家史料館蔵)

2024/2/13

当館が所蔵する「短刀 銘吉光」は、国宝に指定されています。




吉光は、鎌倉時代中期に京都粟田口(現在の京都市東山区)で作刀していた刀鍛冶の名前です。江戸時代には正宗、郷義弘とあわせて「天下三作」と評価され、短刀の名手として知られています。


この吉光が作刀した刀のうち、現在(2024年2月)国宝に指定されているのは、 短刀3口と剣1口。当館所蔵の短刀をのぞいて、みな “あだ名” をもっています。

「厚藤四郎」に「後藤藤四郎」に「白山吉光」……いいなぁ……



ちなみに、「厚藤四郎」(東京国立博物館蔵)と「後藤藤四郎」(徳川美術館蔵)の “あだ名” は、徳川幕府8代将軍・吉宗の命で編纂された『享保名物帳』により定着した名物としての号です。
また、「剣 銘吉光」(白山比咩神社蔵)は、江戸時代の記録にて「白山吉光」と称されていることが確認できます。




立花家伝来の「短刀 銘吉光」 にも、 “あだ名” があったらいいのになぁ……

うちのコも、 現存する吉光作の短刀のなかでも傑作と評価され、国宝に指定された名刀なのに……
制作当初の姿のまま伝世してきた、ピチピチのカワイコちゃんなのに……

と、ずっと残念に思ってきました。

いっそ「立花藤四郎」(仮)とか “あだ名”をつけちゃおうかしら?と、浅はかにも考えたこともあります。



しかし今回、 オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史」解説ブックレットで「短刀 銘吉光」について執筆するにあたり、改めて史料を見直しているうちに、目が覚めました。
立花家が所持しているから “あだ名” を「立花藤四郎」(仮)にしちゃえという考えは、全くの心得違いだったのです。



「短刀 銘吉光」について、立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、次のように記されています。

(前略)同九年[註:天正九年(1581)]辛巳 宗麟之命ニ因テ立花親善之嗣ト為リ立花ヲ以テ氏ト為三器之譲ヲ受ク。所謂三器ハ其一ハ軍旗。頼朝公自ラ八幡大菩薩ノ五字ヲ於軍旗ニ書テ之ヲ大友能直ニ賜フ。其二ハ軍扇。建武四年正月十日大友貞載結城親光ヲ楊梅東洞院ニ斬ル。首ヲ軍扇ニ載将軍尊氏之覧ニ具フ。之ヲ血付ノ扇ト謂フ。其三ハ短刀。貞載親光ヲ斬ル之功ニ因テ尊氏粟田口吉光短刀ヲ貞載ニ賜フ。(後略)

簡単に解説すると、

初代柳川藩主・立花宗茂の先代となる戸次道雪が、大友宗麟からの主命により、立花氏の名跡とともに「粟田口吉光短刀」をふくむ「三器」を譲り受けた

と記されています。



当時、前期立花氏7代・鑑載が大友家に謀反して撃退され、立花氏は断絶していました。なお、この翌年の天正10年(1582)11月18日に立花城にて「御旗御名字」の御祝がなされ、この時をもって宗茂が名字を戸次から立花に改めたと考えられます。 

つまり、「軍旗」「軍扇」「粟田口短刀吉光」の「三器」を所持するが故に、「立花」を名乗ることが許されているのです。

この「三器」を理解していただくには、 前期立花家のこと、戸次道雪を初代とする近世大名立花家のこと、立花家のルーツであり主家でもある大友家のことを説明しなければなりません。
話は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の時代にまでさかのぼり、途中で室町幕府初代将軍・足利尊氏もからんでくるので、とても複雑になってきます。



そこで朗報です!!

2月17日(土)に開催されるオンラインツアーでは、この複雑極まりない説明のすべてが、わかりやすく丁寧にひもとかれます。【終了しました】

当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に関心がある方にも、是非聞いていただきたいところです。

締切は明日2月15日(木)、定員になる前に!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。






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当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないのは、立花家から外に出なかったので、 “あだ名” が付けられる機会がなかったということの証です。

わたしは今、「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないことを誇りに思っています。


◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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「立花道雪」の名前で出ています

2024/2/10

立花家史料館では、近世大名・立花家に伝来した美術工芸品を展示しています。

では、近世大名家・立花家とは?

この説明が、ものすごく複雑です。

まず、「近世大名・立花家の初代は、戸次道雪 ベッキドウセツ です」と説明をはじめるのですが、その時点で「立花家の初代なのに、戸次?」となります。
とくに、ゲーム等で「立花道雪」の名前をすでにご存知の場合、「戸次道雪」の名前に困惑されることがよくあります。

戸次道雪[1513~1585]

戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。
子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪 ドウセツです。
豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。

道雪が雷を切ったとされる刀が「雷切丸」の名で立花家史料館に伝来しています。



わたしたち学芸員も、この説明に時間をとられて、なかなか立花宗茂や誾千代の話にまでたどりつけないことを、大変もどかしく思っていました。

そこで朗報です!!

どうしても話が複雑になる立花家初代のことや、「立花道雪」の名前で知られている「戸次道雪」のことを、立花家のルーツである大友家にからめて丁寧に解説するオンラインツアーが開催されます。【終了しました】

解説ブックレットのチラ見せ





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当館館長のツイートのとおり、理解すると、この複雑さがクセになります。

空前絶後の機会ですので、ご興味をもたれた方は是非!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。

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柳川藩主立花家に伝来した刀「雷切丸」

2024/1/30

脇指 無銘「雷切丸」は、その名のとおり戸次道雪が雷を切った刀として、柳川藩主立花家に伝来しました。

脇指 無銘 雷切丸 鎌倉時代~室町時代 刃長58.5㎝ 立花家史料館所蔵



まずは、戸次道雪[1513~1585] ってどんな人?

戸次 ベッキ 道雪ドウセツ は、戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。
子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪です。
豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。

江戸時代を通じて柳川藩11万石を治めた近世大名立花家の初代として数えられています。




「雷切丸」の由来について、立花家に残る文書のなかで、現時点で確認できる最古の記録は、明和4年(1767)10月にまとめられた「御腰物由来覚」です。

この「御腰物由来覚」は、立花家で代々大切に受け継がれてきた刀の由来を、今までのような口伝えでなく、きちんとした記録として残そうと、担当係(御腰物方)で相談し、寛永年間(1624~44)から当時までの所蔵刀剣について吟味の上、作成されました。

この 「御腰物由来覚」の 翻刻 が、『柳川の美術Ⅱ』に掲載されているので、「雷切丸」の項を全文引用してみます。

※柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』(柳川市 2007.3.22発行、2020.3.31第二刷)409頁掲載の翻刻を引用。ただし読みやすいように、異体字、合字、変体仮名を通用の文字に改めています。

一 雷切丸 無銘 壱尺六寸七分半 御脇差

右は道雪様御差也、雷切と申訳は、鑑連公未豊後国南郡藤北之御館に被成御坐候節、炎天之比 大木之下に御涼所御しつらい、此所へ或時 被遊御昼寝候節 雷落けり、御枕元へ御立て被置候千鳥とゆふ御太刀を被遊御祓合セ、雷を御切被成、早速御涼所を御立退被成候、夫より以来御足御痛被成、御出陣にも御乗輿ニて被遊御出候、然とも御勇力御勝レ被成たるゆへ、常躰之者之達者より御丈夫ニ被成御坐候、且又比御太刀最初は千鳥と御附被成候得ども、雷御斬被成候以後其印御太刀有之故、夫より此御太刀雷切と御改名被成候、

この刀は道雪様の所用刀である。雷切という名の由来は次のとおり。
鑑連公がまだ豊後国藤北館(現在の豊後大野市)にいたとき、炎天のころ大木の下に涼所を設けていた。

あるとき、そこで昼寝をしていたら、突然の落雷。枕元の刀を抜いて雷を切り、すばやく涼所から立ち退いた。

それ以来、足が痛み、出陣に輿を使用するほどであったが、勇力に勝れていたので、並の武者よりも活躍した。最初「千鳥」と付けられていた太刀は、雷を斬った印があるため、「雷切」と改名された。

ここまでが、道雪が雷を切った場面です。

このくだりは、「御腰物由来覚」から100年程さかのぼった、寛永12年(1635)の自序がある『大友興廃記』にも描かれています。

戸次鑑連いまた南郡藤北に居住のとき、炎天のころ、大木の下にすゝみ所をこしらへ、ひるねして有りし、おりから雷鳴落、まくらもとにたてをきたる千鳥といふ太刀を抜あわせ、雷をきりてすゝみ所をとひさりぬ、それより以来足かたハにして、出陣も輿ならてハ不叶されとも、勇力のすくれたるに依て、常の者達者成にハまされり、扨千鳥と云太刀雷にあたりたるしるしあり、それより此太刀を雷斬と号せられたり
『大友興廃記』巻六「鑑連雷を斬事』

大友氏の興亡を大友義鎮、義統の2代を中心に描いた軍記『大友興廃記』の作者は、豊後国佐伯の領主に仕えた杉谷宗重とみられています。昭和初期にはじめて活字化されるまでは、写本で存在が知られていました。

「御腰物由来覚」と共通する表現が多いので関連がありそうですが、現時点では何とも言えません。ただ、江戸時代初期には、道雪が雷を切った刀のことは、知る人ぞ知る話であったようです。



「御腰物由来覚」の「雷切丸」の項 はまだ続きます。

好雪様御代大膳様へ被進之候、然処 大膳様御逝去被成候節、御道具皆御払に相成よし、此□此御太刀も御払相成可申之処、矢嶋石見殿御聞付被成、此太刀者払抔へ差出候物ニて無之、大切之御重宝ニて有之候間、御取被成候由、夫より矢島采女家ニ持伝居申候処、 鑑通公御代宝暦九年卯之 御発駕前、矢嶋周防進上之、但白鞘ニて差上ル、三原之由承伝之処、同年六月御拭之節、本阿弥熊次郎へ見セ申候処、相州物之由申候、宝暦十辰十二月右雷切差上候為代リ大和守安定御小サ刀被下之、但白鞘、
 雷御切被成候年号不相知、追て吟味之上書載之事

その後この刀は、初代藩主・宗茂から2代藩主・忠茂へと渡り、さらに忠茂から息子の大膳(茂辰、吉弘氏を名乗るが20代で早世)へと渡る。

大膳の没後、この刀も遺品分与の対象となっていたが、弟の矢嶋石見(行和/立花茂堅)が聞いて、この刀は分与するものでなく「大切の御重宝」であるとして、矢嶋家にて伝えることにした。

7代藩主・ 鑑通の代になり、宝暦9年(1759) に江戸へ出立する前、矢嶋周防がこの刀を白鞘におさめて鑑通へと進上した。それまで三原の刀だといわれていたが、同年6月に刀剣鑑定を家業とする本阿弥家の一門の熊次郎が、相模国(現在の神奈川県)の刀工の作と判断した。

宝暦10年(1760)12月に、この雷切の代替として、白鞘におさめた大和守安定の小サ刀(脇指)が矢嶋家へと下賜された。

雷を切った年号は現時点ではわからないので、あとで調べて書くことにする。


結局、追記はなく、雷を切った年号は不明なまま「雷切丸」の項は終わります。

しかし、時代は下がりますが、天保年間(1830~44)頃に立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、戸次道雪の重要な経歴が書き上げられているなかに、

天文十六年丁未六月五日 雷斬ル 時年三十五歳

と記されています。
西暦に換算すると1547年6月22日……この年月日の根拠は全くわかりませんが、雷を切ったことが特筆すべき業績とされているのが、非常に興味深いです。



実は、道雪の40代以前の経歴はあまり分かっていません。
道雪は天文19年(1550)に戸次家の家督を甥の鎮連に譲りますが、この頃から政治・軍事的な活動が本格化していきます。一人娘の誾千代が生まれたのは、永禄12年(1569)56歳の時です。
現時点では、道雪の足が不自由であったかどうかも、一次資料では確認できていないのです。


また、「雷切丸」の刀身が短くされ、太刀から脇差となった経緯もよく分かっていません。本阿弥家により「相州物」と鑑定されていますが、大磨上無銘となる現状の刀身からは、相州伝と確定するのは困難です。



ただ確実なのは、道雪が雷を切った刀として「雷切丸」が立花家の血筋に伝えられて来たこと、当館で雷切丸を展示できるのは矢嶋家のオカゲだということです。

そして今、「雷切丸」は私たちも驚くほどの知名度を誇り、多くの方々に愛されています。

矢嶋さん、本当にありがとう。



「雷切丸」や「短刀 銘吉光」【国宝】、「大友家文書」【重要文化財】や「立花家文書」【重要文化財】のことを解説するオンラインツアーを開催します。
道雪のことをもっと詳しく知りたい方にも、おススメです。【終了しました】






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◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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