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立花宗茂の兜は、太陽の下で見るに限る(個人の感想です)

2024/10/7

現存する立花宗茂の甲冑は2領「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。どちらも立花家史料館が所蔵しています。

立花宗茂の甲冑、とくに兜については、これまでいろいろと語ってきました。


おわかりいただけたでしょうか?

立花家史料館の学芸員であるわたしが、立花宗茂の兜をとても好きで、造形として非常に美しいと思っていることを。

現在の立物は20年程前の修理時に補修されたものです。

わたしは、この鳥毛後立(鳥の羽根で作られた飾り) のキラメキを見るたびに摩利支天を連想します。金をつかわず “輝く光” をあらわすのに、このニワトリの羽根はもってこいではないでしょうか。

そして、大輪貫脇立。

金属製だと誤解されがちですが、実は薄くて軽い木製です。黒漆が塗られ、鏡面のように仕上げられています。上部中央の蝶番で半分に畳んで収納されます。

当館の所蔵品台帳の基準となる近代の道具帳「立花家御器目録」に「月輪」と記されているため、立花家史料館では「月輪 ガチリン」と称しています。同じ道具帳には「鉄皺革包月輪文最上胴具足」の胴に朱色で描かれた輪貫も「月輪」と表記されるので、共通の意匠となるのでしょうか。

太陽の「日輪」ではないので、金を使わないのは理解できます。
でも、月の輝きをあらわすために、銀を用いても良かったのでは?黒漆だけだと地味じゃない?と思わなくもありません。



そんなとき、甲冑類の修復をお任せしている西岡甲房さんが制作する、「鉄皺革包月輪文最上胴具足」着装用レプリカができあがりました。

この2013年にレプリカ甲冑は大活躍で、様々な場面で着装されました。

実はこのあと、KBC「前川清の笑顔まんてん タビ好キ#51 福岡・柳川市 新たな門出を速攻スケッチ(2013.4.7放映)の撮影に訪れた前川清さんに、レプリカ甲冑を着せ付けています。



レプリカ甲冑の活躍を見ているうちに、わたし気付いちゃいました。

黒漆塗の「月輪脇立」は光を反射して、ものすごく輝くのです。
照明が調整された展示室でホンモノを見ている時には思いもしませんでした。
とくに太陽光のもと、角度によっては眩しいくらい輝くのです。
まさに「月」‼️

武将は展示室で兜をかぶったんじゃない!戦場でかぶっているんだ!

以来、戦国武将の甲冑を鑑賞する際には太陽の光を想定しています。
わたしにコペルニクス的転回をもたらした”太陽光を反射する「月輪脇立」”を、是非皆さまにも見てほしい……


しかし、レプリカであっても、立花宗茂の兜を太陽の下で見る機会は滅多にありません。

そこで朗報です!!

2024年10月と11月は、立花家史料館公式キャラクター「立花宗茂と誾千代姫」が屋外イベントに出演する機会が、例年よりも多くあります。
ただし、ホンモノに近づけるため鉄と漆で作られた兜はレプリカでも重いため、公式キャラクターが兜をかぶっている時間は短時間に限られます。

  • 10/14(月・祝) 柳川戦国パークin御賑会@福岡県柳川市
  • 10/19(土) 関ヶ原合戦祭り2024 @岐阜県関ケ原町
  • 11/9(土) 大野川合戦まつり@大分県大分市
  • 11/10(日) 臼杵市歴史資料館@ 大分県臼杵市

気になる方は必ずコチラでご確認ください。






当日の天候によっては、兜をかぶらない場合もありますし、兜をかぶってても、時間帯によっては太陽光を反射しません。
公式キャラクター「立花宗茂と誾千代姫」 のパフォーマンスを楽しみながら、ラッキーチャンスをお待ちいただけますと幸いです。



オススメしておきながら、あまりのハードルの高さに慄いています。
ふりかえると、わたしも10年間で数えるほどしか目撃できていませんでした。

*** ココまで知ればサラに面白い ***
学芸員として人前で作品解説をする際、ココまで知ればサラに面白くなるけれどと思いながらも、時間等の都合でフカボリせずに終わらせることは少なくありません。そんな、なかなかお伝えする機会のないココサラ話をお届けします。


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「骨喰藤四郎」の御礼状[大友家文書]を高精細画像で見る

2024/10/4

2024年9月30日に、所蔵者の立花家史料館と寄託先の柳川市(柳川古文書館)そして東京大学史料編纂所の三者で連携協定が結ばれ、大友家文書・旧柳川藩主立花家文書(立花家史料館所蔵分)の高精細デジタル画像がWEB公開されました。

実現に至るまでの経緯やWEB公開の意義などは、いずれくどくどと語るつもりです。


ともあれ、さっそく活用してみましょう!

わたしのイチオシ「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]。

天正13年(1585)9月27日に 豊臣秀吉が大友左兵衛督/義統に宛てた手紙です。
秀吉が「吉光骨啄刀(骨喰藤四郎)」を所望したところ、義統がすぐに進上したので、大変満足である
と述べられています。

包紙や裏面の画像もあって惑わされますが、本紙表は00000491です。



せっかくなので、先に本紙裏 00000490も見てみましょう!
「切封 キリフウ」の形と〆の墨跡がよくわかります。「切封」とは下図のとおり、手紙を奥から袖に向かって折りたたみ、切った端を帯にして結わえ、その上に封締を印す封式のこと。

東大史料編纂所 Hi-CAT Plusの高精細デジタル画像じゃなきゃ見逃しちゃうところです。


あらためて書状の文面 00000491 を見てみましょう!

本文一行目冒頭にたっぷりとした墨で書かれた「吉光骨啄刀」が目に入ってきますが、続く文章を読み進められそうにありません。

でも、安心してください!

さすが東京大学史料編纂所。
明治34年(1901)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集『大日本史料』のデータベースをWeb公開しているので、活字化された翻刻文をすぐに確認できます。

東京大学史料編纂所HP》→《データベース検索》→《大日本史料総合データベース》→東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第11編之20』1997 東京大学394-7頁

天正13年9月27日 大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、

頁をめくると、「骨喰藤四郎」についての参考文献も紹介してくれています。

『大友興廃記』(東京大学図書館所蔵)巻二十二「骨啄刀の事」

『大友興廃記』‼️

『大友興廃記』で語られる 「雷切丸」の話(巻六「鑑連雷を斬事」)はコチラ


『大友興廃記』によると、「骨喰藤四郎」は大友家重代の宝刀でしたが、九州に下向した足利尊氏に献上され、足利将軍家の「御物」となったようです。いつしか松永久秀の元に渡っていたところ、大友宗麟/義鎮(義統の父)が先祖の重宝だと望み、永禄8年(1565)229年ぶりに大友家に帰ってきたと語られていますが、真偽は定かではありません。

「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]こそが、年紀がはっきりした一次史料なのです。
少なくとも、天正13年(1585)に大友義統から豊臣秀吉に「骨喰藤四郎」が進上されたのは確かなことでしょう。



ちなみに、当館所蔵の【国宝】短刀 銘吉光は、建武3年(1336)に足利尊氏から拝領したと伝わるので、『大友興廃記』のとおりなら「骨喰藤四郎」とは入れ違いになったとみられます。

せわしなく天下人の元を移った「骨喰藤四郎」とは対照的に、立花家にて秘蔵され続けた【国宝】短刀 銘吉光についてはコチラ



「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]は、柳川古文書館の特別展『大友家文書の世界』(2017.10.11~12.6)で初めて展示されました。
わたしは【重要文化財】薙刀直シ刀 無銘伝粟田口吉光/名物骨喰藤四郎(豊国神社蔵) は何度も見に行っていたのに、当館が「骨喰藤四郎」の御礼状を所蔵しているとは思いもしませんでした……だって、近世大名立花家のことを調べるのに、よそのお宅の中世の文書である「大友家文書」を気にする必要がなかったから……



「大友家文書」は、豊臣秀吉により改易された大友家22代・義統が23代・義乗に譲ったあと、時期と理由はわかりませんが、 遅くとも延宝7年(1679)までには柳川藩主立花家の所有となっているようです。そのまま立花家に伝来し、そのうち290通が平成5年(1993)に国の重要文化財に指定されています。

大友家と立花家の関係が気になる方にオススメ
「雷切丸」「【国宝】短刀 銘吉光」の話もアリマス

◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー





大友家文書・旧柳川藩主立花家文書は当館の所蔵ではありますが、寄託先の柳川古文書館で長年にわたって整理・研究が進められ、丁寧に目録化されていたからこそ、今回の公開へとつながりました。東京大学史料編纂所の高精細なデジタルアーカイブズで簡単に検索できるので、当館学芸員が誰よりも喜んでいます。

優秀な研究者の方々の尽力により公開が実現したデジタルアーカイブズ「立花家史料館所蔵史料」を、お気軽にどんどん活用いただけましたら幸いです。


◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂①

2024/9/30

2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji


忠茂が亡くなったのは、延宝3年9月19日。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1675年 11月6日です。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



それでは、立花忠茂[1612~75]ってどんな人?

慶長17年(1612)7月7日 
立花宗茂の弟・直次の4男として誕生。即日、宗茂の養嗣子に。
元和8年(1622)12月27日 元服
寛永7年(1630)永井尚政の娘・玉樹院と祝言、同11年12月死別
寛永14年(1637)12月~翌2月末
島原の乱に参陣 ⇒註1

寛永16年(1639)4月3日
家督を相続、2代柳川藩主に。
正保元年(1644)伊達忠宗の娘・ 法雲院と祝言 ⇒註2
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、11月20日剃髪し「好雪」と号す。
延宝3年(1675)9月19日没 享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」



註1:忠茂が島原の乱に持参したと伝わる甲冑の話はコチラ

島原の乱は、忠茂が生涯で参陣した唯一の戦となりました。



註2:いろいろあった忠茂の結婚事情の話はコチラ



そして、忠茂と「雷切丸」の話。
実は忠茂は、義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまったのです。

とは言うものの、渡した相手は吉弘家を継ぐことになった息子の茂辰。
藩主になれない息子に、祖父・道雪ゆかりの「雷切丸」を譲った忠茂の心情は理解できます。
しかし茂辰は早世。遺品分与されそうになった「雷切丸」は、弟の茂堅が「大切の御重宝」として、自らが継いだ矢嶋家にて伝えることにしました。
そして宝暦9年(1759)、「雷切丸」は矢嶋家から7代藩主・ 鑑通へ進上され、再び柳川藩主立花家に戻ってきます。

「雷切丸」が離れていた期間は、およそ100年くらいでしょうか。
帰ってきた「雷切丸」の存在価値は、偉大なる祖父の愛刀として扱っていた忠茂の頃よりも、ずっとずっと増していました。
以来、「雷切丸」は立花家で大切に伝えられ、現在は立花家史料館が所蔵しています。



その「雷切丸」は今、雷を切った因縁の地「大分県」へ出張中。

2024年11月10日(日)から臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!~義を貫いた武将、戸次道雪・高橋紹運・立花宗茂~」展にて展示される予定です。(~12月22日)


臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!」
2024.9.29-12.22 チラシ


2代柳川藩主・忠茂のエピソードを紹介してきましたが、まだまったく語り尽くせていません。
次回こそが本題となりますので、乞うご期待!


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〚館長が語る6終〛再封後の宗茂と晩年の活躍

2024/9/1
立花宗茂[1567~1642]

元和6年(1620)、旧領柳川に復活を遂げた宗茂は、10万9千石余の領知を与えられました。










そのため、奥州南郷での家臣に加え、これまで肥後加藤家のもとにいた旧家臣達を呼び寄せたり新規の召し抱えを加えたりし、家格に相応しい体制を整えてゆきます。柳川藩の江戸屋敷の普請や、江戸城の城郭普請への動員、将軍の共をして上洛(京都に上ること)するなど、忙しく過ごすことになります。

また、徳川秀忠、家光の御成(将軍の外出)の供も多く、江戸を離れることがなかなか出来ない状況であったようです。

宗茂自身、家臣に宛てた手紙でも、帰国の御暇を許されないことは譜代並の処遇(それだけ、側近く必要とされている)だと自慢げに記しています。




新しい体制を整えてゆく多忙な日々の中、元和8年(1622)12月27日、実弟直次の四男として生まれ、 直後に宗茂の養子となっていた嫡嗣忠茂が将軍秀忠の御前で元服をします。



寛永6年(1629)、63歳となった宗茂は下屋敷へ転居をし、内々に隠居の準備と忠茂への権限移譲を進めてゆくのですが、将軍からは正式に隠居の許しを得ることはできず、これまで以上に二代将軍秀忠、そして三代将軍家光からも重用され、側近く仕えることになります。

この頃の様子を忠茂に宛てた書状に自ら次のように語っています。

「…つねづねかように其の日ほど出頭仕り候は、国の五ヶ国三ヶ国も取り候程の様子にて候つる、おかしく候、 …(中略)…猶以て毎日罷り出、隙無く草臥候事推量有るべく候」(特別な酒宴の席に臨席できたのは、国の五ヶ国三ヶ国も取ったような栄誉を感じています…なおも毎日将軍にお供し、休む暇もなく疲れていることはご推察ください)

忠茂に対し、どこか誇らしげな宗茂の様子に微笑ましささえ感じます。




寛永15年(1638)2月6日、宗茂は、前年より勃発した天草・島原の乱鎮圧に苦戦する幕府軍の原城総攻撃に参陣するため満を持して着陣。この時72歳でした。
往年の勇将の面目躍如だったのでしょう。「軍神再来」と囁かれたというエピソードが伝わっ ています。

この年10月20日、宗茂は正式に隠居を許され、「立斎 リッサイ 」と号します。



その翌年、年を重ねる宗茂の体調を気遣う家光から、風邪をひかぬよう、転ばぬようにと紅裏烏巾(黒頭巾)と紫竹の杖を賜りますが、これを名誉なこととその姿を肖像画にしたものが、宗茂の晩年の姿を伝える貴重な資料として伝わっています。

* 宗茂晩年の姿は、コチラで *
「琢玄宗璋賛 立花宗茂像」慶應義塾 センチュリー赤尾コレクション蔵
◎「立花宗茂肖像」 小野恭裕氏寄贈 柳川古文書館蔵
 ⇒白石直樹「寄贈された『立花宗茂肖像』と『小野鎮幸像』」 (広報やながわ2024年4月号 新市史抄片196 より)

※ちなみにコチラは、立花家に伝来して、当館が所蔵する宗茂の肖像画。

立花宗茂像 立花家史料館蔵




宗茂は多くの人々に惜しまれ、寛永19年(1642)11月25日夕方、江戸にて他界、享年76でした。

立花宗茂と誾千代の生涯について6回にわたりお話しましたが、大河招致活動を応援していただけるよう、今後も普及活動を続けてゆきたいと思います。



立花宗茂[1567~1642]ってどんな人?

立花家史料館 館長が語る”立花宗茂と誾千代” 
第1話 近世大名立花氏の誕生と戸次道雪
第2話 女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代
第3話 柳川城主となった立花宗茂
第4話 関ケ原合戦後の立花宗茂
第5話 立花宗茂、柳川藩主への復活
第6話 再封後の宗茂と晩年の活躍

文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/




「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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能へのラブは横綱級?最後の柳川藩主・鑑寛の趣味

2024/8/14

「写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式」から来た方は Skip


立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……




わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。



明治7年(1874)12月29日に17歳の息子に家督を譲った鑑寛は、同11年(1878)7月に東京を離れて帰郷します。5代藩主 貞俶が御花畠屋敷を造営して以来、柳川藩主のくつろぎの場所であった、現在の国指定名勝「立花氏庭園」の地に戻ってきたのです。

9月25日には、3月から普請が進められていた「御隠亭」に移りました。

茅葺の「御隠亭」の東には「能舞台」が、南には庭園「松濤園」がありました。鑑寛は、能舞台で能を演じたり、庭園に亭を設けて和歌を詠んだりと、49歳からの隠居生活を楽しんでいたようです。



ただし、彼の趣味にささげる情熱は、われらの想像を超えていきます。

柳川に戻った翌年の明治12年(1879)から亡くなる前年の41年(1908)までの29年間、鑑寛が謡、囃子、仕舞、能の演能にかなりの時間を割いていたことが、記録から読み取れます。
とくに明治18年~31年の期間は、さかんに能を主催していました。

演者は、息子や娘たちに、旧柳川藩士および立花伯爵家職員たち、そして旧柳川藩お抱えの能役者たち。もちろん、自らも演じました。



こちらは、相撲番付になぞらえたランキング「春秋御能相撲」 です。

明治17年~27年の10年間に御花畑(=御隠亭) 能舞台で上演した能番組をもとに、シテ(=主役の演者)の名前と『安宅』『海人』『當麻』『湯谷』『弦上』『小原御幸』などの演目を、順位付けしたものです。 演目の表記から、シテ方の流派は喜多流だとわかります。

ちなみに当時の相撲番付の最高位は、「横綱」ではなく「大関」でした。

能番付「春秋御能相撲」

東西の大関、関脇、小結というトップ3を独占する勢いなのが「大殿様」、すなわち鑑寛です。

ほかの名前はそれぞれ、鑑寛の三男・寛正と四男・寛篤、親族で鑑寛の養子となった十時、旧柳川藩士の野波八蔵 、宮川、問註所康光、立花伯爵家職員の与田庄三郎、佐伯 、岡田修理 、旧柳川藩お抱えの御役者であった喜多流シテ方・勝浦吉十郎と能役者・与田喜三太、名前しかわからない松尾球吉
あわせて12名です。

つまり、鑑寛と身近な同好者たち13名は、10年間でかわるがわるシテをつとめ、160曲を超える演目を御隠亭能舞台で上演しているのです。
彼らは、まったくのプライベートで、ご趣味でやってらっしゃいます……



能の上演のためには稽古しなければなりません。

例えば、明治19年(1886)4月7日の「御能」にむけて、1月20日 御謡合、2月8日 鳴物稽古、2月20日 御謡合、2月25日 鳴物稽古、3月1日 御謡合、3月5日 鳴物御稽古、3月14日 御謡合、3月20日 鳴物稽古、3月25日 鳴物稽古、4月1日 御能前御謡合、4月4日 御能大御習試と入念な稽古をかさねています。
そして本番当日は1日がかりで、7~8演目を上演するのです。


稽古して上演を繰り返すうちに早10年。
経緯は全くわかりませんが、 ” あの時の鑑寛様のステージが最高だったな?” “いや、あの演目も捨てがたい” という風な感じで、10年間の記憶を掘り起こしながらランキングを作成し、わざわざ印刷までしてしまいました。
印刷にかかる時間と労力と費用が、今よりもずっと大きかった時代にです。

しかし、彼らの能はここで終わりません。
この後も15年ちかくも続けられていきます。



現在のわたしたちには、鑑寛さんの能の巧拙を知る術はありません。
しかし、鑑寛さんの能への愛は、残された記録と能番付「春秋御能相撲」 から十二分に伝わってきて、その大きさに慄かされます。

鑑寛さんの趣味にかける勤勉さと、記録を残そうとする執念。
ここ、オンラインツアーでも出ます。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。

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写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式

2024/8/2

立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……【終了しました】



わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。

明治7年(1874)12月29日、鑑寛は当時17歳の息子に家督を譲ります。さらに明治11年(1878)には東京を離れ、柳川に戻ってきました。
現在の国指定名勝「立花氏庭園」内に建てた屋敷にて、和歌や能などの趣味に邁進していたようです。


亡くなったのは明治42年(1909)2月24日、享年80でした。

葬儀は3月3日、立花家の菩提寺である福厳寺(福岡県柳川市)で厳かにとりおこなわれました。
残っている記録をみると、式場用の椅子机を借り入れたり、大導師以下各参列寺院の席次や受付などの役割を決めたりと、大がかりだったことが分かります。


115年前に撮影された、最後の柳川藩主のお葬式。

まず気になるのは、仮設の屋根。
今でも野外の行事に欠かせない仮設テントが、当たり前ですが藁葺きです。
祭壇は本堂を背にする位置に、南側の天王殿に相対して設えられています。
何よりも、すべて屋外でおこなわれるようです。



鑑寛の長男・寛治とその妻・鍈子が、それぞれ焼香をすませました。

寛治さんは洋装の礼服を着ているように見えます。
鍈子さんは和装の喪服でしょうか?白い喪服‼

「同令夫人御焼香済御復席」 拡大 白い喪服姿の令夫人

中央に鎮座する屋根付の六角柱は、鑑寛さんの棺でしょうか?



12代藩主 鑑寛については、この葬儀以外の写真は確認されていません。
肖像画も伝来していないので、オンラインツアーでじっくりとご覧いただく「徳川将軍参内式列画巻」の中に描かれている姿が、おそらく唯一の鑑寛像です。

実は、この絵巻を開いて見たことがある人は、ほんの少数。

立花家史料館蔵「徳川将軍参内式列画巻」

わたしも未見ですので、ワクワクしながらオンラインツアーを待っています。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。


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小さく薄い三角形の金属片

2024/8/1

明治43年(1910)築の立花伯爵邸では、現在では失われつつあるものが、現役のまま建物を支えています。

その最小のものが、“小さく薄い三角形の金属片”ではないでしょうか。


わたしがはじめて庶務を担当したのは、平成25年から27年(2013~15)の夏季に集中施工した、立花伯爵邸「西洋館」のメンテナンス工事でした。外壁を塗り替え、すべての窓の点検・修理をおこないました。

当時のわたしは、慌ただしい作業現場をトンチンカンな質問で騒がせ、むやみやたらに撮影する、お邪魔虫でしたが、快く撮影を許してくださった職人さんたち深く感謝しています。



とくに「上げ下げ窓」の修理作業は、何もかもが珍しく驚くことばかり。

大興奮して一連の作業を動画撮影したものの、10年間もちぐされ続け、2024年1月にやっと披露できました。

平成25年-27年(2013-15)立花伯爵邸「西洋館」保存修理工事の話



つい先日、この投稿が、立花伯爵邸と同年代の建物の保存修理に携わる方のお役に立ったとご報告いただきました。

「~森林博物館改修~木製建具改修の挑戦」
⇒「~ 明治から時を超えて、青森のシンボルを未来へ ~
株式会社 成文組( 青森県青森市 )HP >現場レポートより

「いつかどこかの困っている誰かに届けェ~」と密かに願っていたので、とても嬉しかったです。


近代の建築については、国宝や重要文化財に指定されはじめたのが近年なので、文化財指定や修理の際に作成すべき報告書があまりありません。
明治から昭和初期に建てられた木造洋館に限ると、さらに数が少なくなります。木造洋館に見られる、寺社や和風住宅とは異なる工法については、参考事例が蓄積されていないのです。

おそらく20年ほど前までは、木造洋館の現場を経験した職人さんも健在だったのでしょう。しかし、新素材や新技術の登場により、古い工法は猛スピードで忘れられていきます。

あたかも、フィルムカメラのように……



例えば、わたしたちは「上げ下げ窓」のガラスの固定に苦労しました。

現在は弾性接着剤によるコーキング(シーリング)でガラスを固定するのが主流ですが、西洋館の「上げ下げ窓」ではパテが使われています。パテは隙間を埋めて気密性や水密性を保つだけで、ガラスを固定している訳ではありません。

立花伯爵邸には他にもガラス窓はありますが、木桟で固定されています。



とりあえず、ガラス脇に小釘を打ってみましたが、ガラスが薄いので、かなりの確率でヒビが入りました。

河上先生も寺社修理の経験豊富な大工さんたちも、戸惑っています。
どうしよう?

結論から言うと、窓枠からポロポロと落ちてくる”小さく薄い三角形の金属片”が重要でした。
ここだけの話ですが、当初は金属屑(ゴミ)と見なされていました。



次は困らないよう、取り付けている様子もバッチリ撮影しています。

“小さく薄い三角形の金属片”が見えますか?



立花伯爵邸西洋館メンテナンス工事は滞りなく終了しました。

“小さく薄い三角形の金属片”を忘れる時はありませんでしたが、ほとんどの報告書は建具類について詳述していないので、名前を探せないまま時は流れていきます。



そしてブログの投稿をはじめました。

ブログ形式を選んだのは、報告書等で端的にまとめられる前の、雑多な情報を伝えたかったから。

もちろん、我らが誇る2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』においても、工事をストップして関係者一同を集めて繰り返し最善策を議論しつくした時間については言及されていません。



10年の経過はわたしに、簡単動画加工アプリと『国立国会図書館デジタルコレクション』https://dl.ndl.go.jp/の全文検索をもたらしてくれました。
アプリのおかげで、暗い画像を明るくしたり、自分の奇声を削除したりと、むやみやたらに撮影した動画をお蔵入りさせずにすんでいます。



そして、ブログで取り上げるため、『国立国会図書館デジタルコレクション』で「上げ下げ窓」を全文検索すると、

斎藤兵次郎 著『和洋建具設計実例』,信友堂,明41.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/846407 (参照 2024-08-01)



えッ “三角”釘 !?

三角釘さんかくくぎ
鱗ウロコ釘、亜鉛トタン鋲、葉鋲ハビョー、等ノ別名アリ「はびょー」ヲ見ヨ。

葉鋲 はびょー
障子ニ硝子ヲ取付ケテ動カサラシムル為メぱて下ニ打ツ三角形ノ小キ薄キ金属板(英Spring-Glaziers’ point)「三角釘」トモ称ス。又普通亜鉛板ヲ用フル故ヘ「亜鉛鋲」トモイフ。米国ニテハぶりきヲ用フル故ヘTin point トモイフ。

中村達太郎 著『日本建築辞彙』丸善株式会社 明治39年発行

硝子職
パテは舶来品と和製品あり(後略)
ガラス板を附するに当り之を留むるに鱗釘を用ゆ鱗釘とはブリキ又は亜鉛引鉄板を小さく三角形に切りたるものにてガラス板一枚に付き凡そ四個乃至六個を要す

大泉龍之輔 編纂『建築工事設計便覧』建築書院 明治30年発行



“小さく薄い三角形の金属片”の名前は、「三角釘」 または「鱗釘」または 「亜鉛鋲」 または「葉鋲」といいます。



この名前を知るのに10年。


“小さく薄い三角形の金属片” との出会いから本投稿までの間に、ソチ・リオ・平昌・東京・北京・パリと6都市のオリンピックを見届けてしまいました。


2024.8.2リンク追記

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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〚館長が語る5〛立花宗茂、柳川藩主への復活

2024/8/1
立花宗茂[1567~1642]

宗茂は、関ケ原合戦で敗軍の将となり、慶長6年(1601)に浪人の身となりました。










5年の月日が流れ、慶長11年(1606)9月ようやく2代将軍秀忠に拝謁が叶いました。長年の浪牢生活を終え、奥州南郷(現在の福島県棚倉町付近)に1万石の領知を与えられ、大名という身分に復帰することができたのです※。

※ 徳川将軍の家臣のうち、知行高1万石以上からが「大 名」となり、1万石未満のものは「直参 ジキサン」と呼ばれます。


さらに慶長15年(1610)、宗茂は加増を受け、領地高は3万石となります。

2010年「宗茂」の名乗りから400年を記念して
御花史料館(現立花家史料館)で特別展を開催

実は、これまで煩雑さを避けるため、立花宗茂という名に統一して書き進めていますが、正式に「宗茂」と名乗るのは、この年からなのです。

旧家臣に送った加増を知らせる書状に「かたじけなき仕合せ、御推量あるべし」と書いているように、このめでたい加増を喜んだ宗茂は、この機に改名したことが想像されます。










「宗茂」の名乗りから400年記念特別展「立花宗茂」
[2010.11.13~2011.1.10] ポスター

これまで、波乱に満ちた人生の運気を切り開こうとするが如く、統虎 ムネトラ、宗虎 ムネトラ、正成 マサナリ、親成 チカナリ、政高 マサタカ、尚政 ナオマサ、俊正 トシマサ、と次々と名を変えてきましたが、「宗茂」となってからは生涯この名を使い続けます。


南郷に領知を得た後も、将軍の側近く仕えるため江戸を離れることがあまりなかった宗茂に代わって、家臣の由布 ユフ 惟次 コレツグ、斎藤統安 ムネヤス、十時 トトキ 惟昌 コレマサ、因幡宗糺 ソウキュウらが在地で支配に当たっていました。

この頃の宗茂は、秀忠の警護や江戸城の守衛としての役にあったようです。

慶長19年(1614)の大坂の陣では将軍の軍事的相談役を務めたと言われるように、武人として高い信頼を得ていたことが想像されます。


関ケ原合戦ののち、筑後国は田中吉政の領地となりましたが、2代忠政は跡継ぎがないまま没してしまったため田中家は改易されることになり、宗茂は欠国となった筑後の柳川へ再封の決定が下されることになったのです。

この再封がなぜ実現したのか、ひと言では説明できませんが、宗茂のそれまでの実直な生き方と彼を支えた人々との絆がこの奇跡の復活に導いてくれたものと思います。

慶長5年(1600)の柳川城開城からちょうど20年後、再び大名として 柳川城へ入城したのです。

柳川再封400年記念特別展「復活の大名 立花宗茂」
[2020 .12.4~2021.2.7] フライヤー



宗茂54歳の早春、激動の時代をくぐり抜け、静かに力強く柳川藩10万9千石の大名家当主として新しい時代が始まったと言えるでしょう。




これまでに開催された立花宗茂をメインテーマにすえた特別展は3回。
上記節目のほか、宗茂生誕450年を記念した「立花宗茂と柳川の武士たち」[ 2017.12.9~2018.2.4]が、柳川古文書館と立花家史料館とで共催されました。
このとき当館が作成したDVD版電子図録が、現在入手可能な唯一の展覧会図録となります。本図録では、両館の学芸員による詳しい解説とともに、宗茂と立花家家臣団の足跡をたどる文書資料と武具甲冑などの美術工芸品とを、デジタルならではの高精細画像で楽しめます。

特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』DVD電子図録を販売中






文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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〚館長が語る4〛関ケ原合戦後の立花宗茂

2024/7/1
立花宗茂[1567~1642]

無念の思いを抱えたまま柳川に戻ることになった宗茂ですが、九州上陸の前、同じく九州に向かう島津義弘と日向灘沖で遭遇します。









島津義弘[1535~1619]

島津義弘は関ケ原で敵中を突破して決死の帰国の途上にありました。










宗茂の実父、高橋紹運 ジョウウンは、かつて島津軍に討たれた過去がありますので、宗茂にとって仇とも言える武将ですが、宗茂は過去の遺恨にとらわれることなく、共に助け合うことを約束して帰国を果たしたと伝えられています。







柳川城は東軍についた諸侯に包囲され、鍋島直茂の軍と江上(現在の福岡県久留米市城島町付近)・八院(現在の福岡県三瀦郡大木町・大川市付近)で激しい戦いとなり、立花軍は多くの戦死者をだしました。

しかしながら、徳川家康からの「身上安堵の御朱印状」※1を携えた家臣・丹親次が帰還したことから和睦交渉が進みます。宗茂とは信頼関係のあった加藤清正からの開城要請を受けて柳川城を開城し、領地安堵への期待を残しつつ上洛をするのですが、結果的に改易※2され、筑後一国は、三河岡崎の領主であった田中吉政の治めるところとなったのです。

※1 宗茂が西軍に加わった罪を許すという内容であったと推測されています。
※2 大名としての身分と所領を没収され、浪人となること



加藤清正[1562~1611]

宗茂とその家臣たちは、肥後の加藤清正の客分として高瀬(現在の熊本県玉名市)に仮寓することになり、誾千代は、腹赤ハラカ(現在の熊本県玉名郡長洲町)の屋敷に移りました。









誾千代[1569~1602]

夫・宗茂の大名復帰を強く望んでいたであろう誾千代は、関ケ原合戦からわずか2年後の慶長7年(1602)、熱病のため腹赤の屋敷で死去します。法名は「光照院殿 コウショウインデン 泉誉良清セイヨリョウセイ 大禅定尼 ダイゼンジョウニ」享年35と伝えられます。







誾千代が亡くなった腹赤には墓石があり、その特徴的な形から「ぼたもちさん」と呼ばれています。

熊本県玉名郡長洲町にある誾千代の墓碑
「ぼたもちさん」【長洲町指定文化財】

長洲町の文化財に指定され、周辺の駐車場整備も進んでおりますので、柳川へお越しの折は、少し足を延ばしてお訪ねいただければと思います。


2011.10.19付ブログでは「ぼたもちさん」について 詳しく紹介しています


宗茂自身は少数の家臣とともに再び上洛、徳川家康の許しを待ち続ける苦渋の浪牢生活を送りますが、領国を失った宗茂の大名復帰への望みを託して付き従い続けた家臣達がいたのは驚くべきことです。

浪人中の宗茂は、慶長6年(1601)と翌7年には中江新八、吉田茂武(桃山時代から江戸時代初期にかけての武術家)から日置 ヘキ 流弓術について免許されていますので、厳しい時にあっても武士の本分として武術の鍛錬を怠らなかった姿勢がみえてきます。



そして、慶長11年(1606)、1万石ながら奥州南郷の地(現在の福島県棚倉町付近)の大名として返り咲きを果たすことになり、両度の大坂の陣に出陣します。

宗茂の運命はここから大きく動き出すのです。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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立花伯爵邸「大広間」の隠し機”能”

2024/6/20

これまで立花伯爵邸「大広間」の内緒話をちょこちょこと紹介してきましたが、まだ全てを語りきれていません。

① 知られざる四分一(2023/1/26)
② 銀に輝く壁紙にひそむ新旧の技術(2023/1/31)
③ 「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ(2023/2/6)
④ フレキシブルな「大広間」床の間【前半】(2023/2/13)
⑤ フレキシブルな「大広間」床の間【後半】(2023/2/22)
⑥ Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》(2023/3/2)
⑦ 殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑(2023/3/15)
⑧ 100年前の手仕事が、現代の機械には難しい……(2023/3/25)
⑨ かりそめの素敵な素屋根(2023/9/8)
⑩ 知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。(2023/9/14)


あの話もこの話もしなければと悩みながら「大広間」を覗くと、アレッ⁉️

2024年6月12日の立花伯爵邸「大広間」

……どうやら「大広間」の隠し機能✨️を明らかにする時が来たようです。




「大広間」がトランスフォームした理由は”能”。

残念ながら本年度の公演は終了しましたが、来年度の公演情報がいち早く届くメールマガジンの登録ができます。

また、2022年の能公演の様子が、「柳川藩主立花邸「御花」で能を楽しむ。【前編】【後編】」(ウェブマガジン『アナバナ』https://anaba-na.com/)で紹介されています。






建築当初の「大広間」平面図

明治41年(1908)4月30日に棟上された立花伯爵邸「大広間」は、南は「松濤園」に面しています。


東から18畳、18畳、12畳の部屋がならび、部屋の南北に一間幅の畳廊下がつきます。




そして、西側の2室「西ノ御間(三の間)」と「中ノ御間(二の間)」の畳をはずすと、敷舞台があらわれるのです。












座敷に仕組まれた能舞台が現存する例はほかに、明治37年(1905)築の炭鉱主・高取伊好(1850-1927)の邸宅 【国宝】「旧高取邸」(佐賀県唐津市)があります。ウチと同じく畳と敷居が可動式だそうですが、アチラは「鏡板の松」が襖に描かれた本格的な能舞台であり、時に畳が敷かれて広間として使われたと聞きます。

しかし、今でも実際に能を上演するために活用しているのは、ウチだけではないでしょうか。

もっぱら広間として使われている立花伯爵邸「大広間」ですが、畳と敷居は、必要に応じて人力で可動します。



残念ながら、伯爵時代の「大広間」敷舞台の使われ方は、現時点では確認できていません。演能時の古写真や記録が発見されたら、すぐにご報告します。


(株)御花による大規模な能の公演は、平成6年(1994)から平成19年(2007)にかけて、十数回開催されました。


ただし、御花史料館の開館を記念して開催された平成6年(1994)と平成9年(1997)、平成12年 (2000)、そして福岡県西方沖地震復興を記念した平成19年(2007)の際は、「大広間」敷舞台ではなく、「松濤園」の池上に仮設された贅沢な野外能舞台で演じられています。








余談はさておき、立花伯爵邸「大広間」敷舞台が能の公演で使われるなかで、「大広間の床下には甕が埋められている」と、まことしやかに語られてきました。

能舞台の床下に数個の大きな甕を据える例は、天正九年(1581)の銘がある現存最古の能舞台【国宝】「 本願寺北能舞台」(京都市西本願寺)をはじめ、江戸時代に設営された能舞台にしばしば見られます。拍子を踏む足音の響きを良くする効果があるといわれています。


「大広間」の床下にも大きな甕がある⁉️ 
しかし、「大広間」の床下は外からは覗けない構造です。

「大広間」修復工事(2016-17) にて、 やっと機会が到来しました。

ワクワクしながら覗きこんだのに、切石礎石しか見えません……

立花伯爵邸「大広間」床下

礎石の下はコンクリート? 明治時代にコンクリートの基礎?



「大広間」修復工事(2016-17)では 、構造補強のために「東ノ御間(一の間)」「西ノ御間(三の間)」の荒床板を解体しました。

基礎は確かにコンクリートでしたが、厚さ6cmと薄く無筋で、床下の湿気を防ぐ効果しかなさそうだと判断されました。

工事では構造補強のため、厚い鉄筋コンクリート基礎を可逆的に加えています。

床下の既存コンクリート土間60mm厚の下部に空隙があり、構造補強の基礎設置に必要な部分を撤去し、コンクリート土間100mm厚を新規に整備した。

河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3月 (株)御花 100頁より



でもでも、家屋としては”しょぼい無筋コンクリート基礎”であっても、能舞台としての音響効果は期待できるかも?



実は、江戸時代に設営された能舞台には、甕を埋めるのではなく、「彦根城表御殿能舞台」(滋賀県彦根市 彦根城博物館)のように、 漆喰を塗った大きな桝を床下に設置した例もあるのです。

彦根城博物館HP「3 江戸時代の能舞台
彦根城博物館の見どころ」(彦根城博物館HPhttps://hikone-castle-museum.jp)



もしかしたら、コンクリート基礎の目的が、湿気防止ではなく、音響効果であった可能性もあるかもしれません。(あくまで個人の勝手な期待です。)



「大広間」の音響効果のほどは、演者の方々にしか分かりません。
いつか、甕が埋められた舞台と「大広間」敷舞台との比較検証ができればいいなと、大きな期待を抱きながら願っています。



参考文献
『旧高取邸リーフレット』PDF(公益財団法人 唐津市文化事業団HP「旧高取邸」より)、「書院・能舞台」西本願寺HP)、磯野浩光「京都市内に現存する能舞台略考」PDF( 『京都府埋蔵文化財論集第6集』2010 京都府埋蔵文化財調査研究センター) 、山下充康「能舞台床下の甕」PDF(『騒音制御』14巻3号 1990.6 公益社団法人 日本騒音制御工学会)、「江戸時代の能舞台」(彦根城博物館HP)、「 表御殿の調査-彦根藩の表御殿を復元した彦根城博物館-」(彦根市HPより)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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