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総工費およそ40億円!?延床600坪余の豪邸ルームツアーをオススメする3つの理由

2023/11/26

現在、オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪」 (2023.11.28開催) の二次募集中【終了しました】です。本日23:59締切!

せっかくの機会に、できるだけ多くの方々にご参加いただきたいと心より願い、今回のオンラインツアーを徹底的にプロモーションします。



1つめの理由

今回のオンラインツアーは、いま流行りのルームツアーです。
しかも、総工費およそ40億円、延床600坪あまりの超豪邸のルームツアーなのです。

是非、下世話な好奇心でご参加ください。

総工費は当時の金額で20万円を超えていました。
当時の1円が現在の2万円くらいの重みがあったという説に基づいて計算すると、およそ40億円となります。
※参考サイト「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?」(金融・経済を楽しく学ぶサイトman@bow



2つめの理由

しかも、ただの豪邸ではありません。
ご案内するのは「立花伯爵邸」”伯爵邸”です。

明治2年(1869)から昭和22年(1947)に廃止されるまで78年間存続した華族制度。明治17年(1884)に華族令が制定され、公・侯・伯・子・男の五爵位により序列化されました。

「立花伯爵邸」は明治43年(1910)に、伯爵立花寛治の住居として建てられました。つまり、今はもう日本に存在しない、伯爵という地位に相応しい品格を備えた豪邸なのです。

そのシンボルともいえる「立花伯爵邸」の「西洋館」は、建築当初からの姿を変えずに残されています。

明治43年(1910)建築当初の「立花伯爵邸」 「正門」から見た「西洋館」

現在の姿を、是非オンラインツアーでご確認ください。



3つめの理由

さらに立花家は、江戸時代を通じて、柳川藩11万石の藩主であった大名家です。「立花伯爵邸」が建てられた場所は、江戸時代には殿さまのお屋敷「御花畠屋敷」がありました。近代に伯爵となった立花家が、藩主として治めていた領地「国元」に建てた、歴史の積み重ねのある豪邸なのです。

「立花伯爵邸」の「大広間」では、大名家の格式に圧倒されます。

現在の「立花伯爵邸」 「大広間」の背後に「西洋館」が見えます



ちなみに、近代に建てられた旧大名家の住居として6件が重要文化財に指定されていますが、明治・大正期に建てられたなかで、「立花伯爵邸」のように、和館と洋館を併置している邸宅が現存している例はありません。

  • 明治17年(1884)旧徳川家松戸戸定邸【千葉県松戸市】和館
  • 明治23年(1890)旧堀田家住宅【千葉県佐倉市】和館
  • 大正5年(1916)旧毛利家本邸【山口県防府市】和館
  • 大正6年(1917) 旧島津家本邸【東京都品川区】洋館
  • 大正11年(1922)萬翠荘(旧久松家別邸)【愛媛県松山市】洋館
  • 昭和4年(1929)旧前田家本邸【東京都目黒区】 洋・和館



伯爵家が名に恥じぬように費用を投じて建設した、
旧大名家の重厚さと、近代の華族の綺羅びやかさとを併せもつ、
延床600坪余の豪邸のルームツアー。

と聞くと、参加したくなって来ませんか?



これまで、実際に福岡県柳川市まで訪問してくださった方々も、安心してください。
通常は未公開のヒミツをお見せしますので、現地をご存知だからこそ、より楽しんでいただけます。



そして、こちらの解説冊子もお手元にお送りいたします。

立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求したつもりです。

A5判32頁と当初の想定よりボリュームは増えましたが、いま解説冊子を読み直していると、お伝えできていない点ばかりが浮かんできます。
取りこぼした話は、こちらのブログでちょこちょこと書いていきますが、まずはオンラインツアーにて、館長直々の案内の補足資料としてご活用ください。



「おはなのうむすび」・解説冊子の発送が、オンラインツアー開催日以降とはなりますが、ツアー参加の申し込みは、まだまだ受け付けていますので、是非!!
※アーカイブ配信もいたしますので、解説冊子は復習にご活用いただけますと幸いです。



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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西原吉治郎設計「西尾市岩瀬文庫書庫」

2023/10/19

まずは、前回の「Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》 」から、ご覧ください。





今回の捜索で出会えた、西原吉治郎の最大の足跡が「西尾市岩瀬文庫書庫」・「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」です。

ありがたいことに愛知県西尾市【公式】 が、吉治郎さんが設計した建物の解説動画を YouTube上で公開されているので、恩恵に預からせていただきます。




明治41年(1908)に、私立図書館「岩瀬文庫」を開設した豪商の岩崎彌助は、大正年間(1912‐26)に文庫の拡張を計画し、吉治郎が名古屋で開いていた西原建築工務店に依頼しました。

岩崎彌助については、この動画でわかりやすく解説されています。

西尾偉人図鑑
西尾市制70周年記念式典で放映された映像です。
※「岩崎彌助」の解説のはじまりを開始位置に設定



吉治郎が設計し、大正8年(1919)頃に完成した「西尾市岩瀬文庫書庫」は、レンガ造の地下1階地上3階建。小屋組はトラス構造です。

西尾市岩瀬文庫 旧書庫の案内
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫旧書庫の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



また、吉治郎は児童館も設計しました。
大正14年(1925)頃に完成した「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」は、小規模な木造の洋風建築 です。

⻄尾市岩瀬⽂庫 おもちゃ館(児童館)内の案内

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫おもちゃ館(児童館)の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



岩瀬文庫には他にも建物がありましたが、上記2棟のみが戦災や三河地震(1945)をくぐりぬけ、国の登録有形文化財となりました。

そして、令和4年(2022)3月に策定された保存活用計画にむけて、耐震補強工事等の調査が実施されていたようです。

* 詳細は、西尾市教育員会文化財課「西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB) 」2022.3



おかげで、普段見ることのできない内部構造の解説動画も公開されています。
建築家の専門家による丁寧な説明が、とても分かりやすく、楽しいです。



「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

現在調査中の西尾市岩瀬文庫旧書庫の内部構造についてお話を伺います。普段見ることのできない旧書庫の秘密が明らかに!




お分かりいただけましたでしょうか?

丸繁建築事務所の内田麻紀子氏が、「教科書どおり」と2回繰り返されました。

「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)

※30秒ほどの間で「教科書どおり」と2回繰り返していらっしゃいます



実は、修復工事で設計監理をつとめ、報告書を作成された河上先生が、立花伯爵邸を評するときに頻繁に使われた言葉も「教科書どおり」でした。



もういちど、 建築家・西原吉治郎(1868~1935)の簡単3行経歴を思い出してください。

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した



「教科書どおり」という言葉の背景に、吉治郎さんの経歴を重ねると、すんなりと納得できる気がします。勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿が浮かんできませんか。



「岩瀬文庫書庫・児童館」は、西原吉治郎が愛知県の職を辞した後に設計した建物です。
そして、吉治郎が福岡県時代に設計を引き受け、愛知県へ移動後は手紙などで工事を指示した「立花伯爵邸」も、吉治郎が個人的に請け負った仕事になります。

木造建築の公共施設は、利便性が優先されるため、時代に合わせて改築され、門も残さずに失われてしまう例がほとんどです。
いろいろな事情が重なった末に、福岡県と愛知県にそれぞれ残された西原吉治郎の建築が、立花伯爵と豪商・岩崎彌助という特徴的な個人を施主とするのは、とても興味深い巡り合わせではないでしょうか。



オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長が解説します。
福岡県に残る「教科書通り」の建築が気になる方は、 是非オンラインツアーへ!



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付

参考文献
YouTube「愛知県西尾市」【公式】文化遺産オンライン(文化庁)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館」文化財ナビ愛知) 西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 本文編 (PDF 4.0MB)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB)愛知県西尾市HP西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》

2023/10/17

ただいま、 オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催) の解説冊子を鋭意作成中です。


立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求しています。

しかし、報告書の作成は平成19年(2007)。新知見も出てきています。


とくに、立花伯爵邸「西洋館」を設計した西原吉治郎については、調査研究が蓄積され、その姿がより明確に見えてきました。


詳細な経歴は下記の文献におまかせして、建築家・西原吉治郎(1868~1935)の経歴をものすごく簡単に3行にすると、

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した

となります。

吉治郎は明治初年生まれ。およそ30歳、40歳、50歳で職場を変えながらも、工手学校在学時からずっと現場でキャリアを積み、建築家として働き続けました。
わたしは勝手に、勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿を想像しています。


優れた先行研究をもとに、現存する吉治郎作品をインターネットにて捜索していたら、興味深い事実をいろいろと見つけてしまいました。


そこで急遽、建築家・西原吉次郎の足跡をたどるGoogleマップツアーを開催!
オンラインツアーのプレ企画として、 お楽しみください。


吉治郎の在籍時に福岡県営繕が手がけた建築活動は、病院や県立学校、郡役所など様々でした。

なかでも、明治33年(1890)9月に「設計及工事監督」を嘱託され、翌年に竣工した「日本赤十字社福岡支部本館」は、吉治郎が最初に設計した本格的洋館であり、のちに設計する「立花伯爵邸西洋館」と共通する点も多かったようです。

*共通点の詳細は、河上信行・松岡高弘「福岡県技手西原吉治郎と雇亀田丈平」(『日本建築学会研究報告』49号 2010.3 日本建築学会九州支部) を参照

残念ながら建物は昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で焼失してしまいました。



ところが、その正門の門柱は焼失を免れ、病院とともに場所を移して再建された日本赤十字社福岡支部の門として、今もきちんと保存されているのです。

日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱 【福岡市登録有形文化財】
高さ3.59m 上部の笠石は別造り 石材は徳山産花崗岩



そして、本来は左右2本ずつ計4本だった門の外側の2本は、久留米赤十字会館ににて門柱としての役を担っています。



これらの門柱と、立花伯爵邸の正門とを見くらべると、

同じバイブスを感じます。

門扉など鉄を素材とした部分は戦時中の物資供出で失われ、戦後に再現されました



立花伯爵家のアルバムを探すと、明治43年(1910)の竣工よりも前、建築工事中の正門の写真も見つかりました。【上段左写真の赤枠内】

まさに、西洋館が”映える”ようにデザインされた門柱ではないでしょうか。



建物の設計者が必ずしも門までデザインするわけではなく、誰の作だと判断する術もないのですが、立花伯爵邸の正門については、当時の寸法図が残されています。

正面門柱の正面図 原寸1/5スケール

ここまで精密に描かれた図面をみると、吉治郎自身がデザインした可能性は十分にあります。

となると、共通する雰囲気をもつ日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱にも、吉治郎の意向が反映されていると考えたいところです。



作例は多いほど楽しいので、吉治郎さんの足跡をさらに辿ってみます。



吉治郎の在籍中に福岡県営繕が手がけた建築には、県立中学校も含まれます。
現時点で吉治郎がどの学校を担当したのかは不明ですが、柳川の伝習館、久留米の明善、福岡の修猷館、京都の豊津、北九州の東筑……
そういえば、我が母校はどうだったっけ?

木造校舎ではありませんでしたが、古めかしい正門があったような気がします。

明治31年(1898)開校の福岡県東筑尋常中学校は、翌年「福岡県東筑中学校」と改称、明治35年(1902)に現在地の新校舎に移転しました。
今の県立東筑高等学校の正門は、新校舎移転時からのものだと推測されます。

「日本赤十字社福岡支部本館」や「立花伯爵邸西洋館」の門柱と、共通する雰囲気があるような……

いずれ確かめに行かねばなりません。



さらに愛知県へと足をのばします。

西原吉治郎は、愛知県では営繕のトップにつき、多種多様な公共施設の設計・工事監督を担当しました。

例えば、吉治郎が新築移転の任にあたった、大正3年(1914)完成の「愛知病院・医学専門学校」の正門がこちら。2基が同じ道路沿いに立っています。

旧愛知県立愛知病院正門及び外塀 【国登録有形文化財】

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀 【国登録有形文化財



ここまで見てきた門柱たちのバイブス、かなり似てなくない?



しかし、趣がちがうデザインの門柱も残されています。

明治村第八高等学校正門【国登録有形文化財】 
昭和45年(1970)愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町より移築

吉治郎を中心とした愛知県営繕が設計を担当し、明治42年(1909)に建てられた第八高等学校の正門が、今は博物館明治村の正門として残されています。

赤煉瓦と白御影石を積んだデザインは、この頃に流行していた「辰野式」を彷彿させます。「辰野式」とは、日本近代建築の父とも称される建築家・辰野金吾が好んで用いた様式のこと。
吉治郎さんの意向ではなく、第八高等学校の設計の基本方針を示したとされる初代校長や文部省営繕課の意向が影響した結果ではなかろうかと、わたしは邪推しています。ただし、根拠はありません。



今回は結局、門だけしか見てきませんでした。
(それでもわたしはものすごく楽しかったです)
もっと西原吉治郎について知りたくなった方は、是非オンラインツアーへ!

オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長がじっくりと解説しながら、ちゃんとご案内いたします。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



建築家・西原吉治郎についての先行研究





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、福岡市文化財HP平成25年度の福岡市指定文化財・登録文化財について」、 文化遺産オンライン(文化庁)、福岡県立東筑高等学校同窓会東筑會HP「母校沿革」文化財ナビ愛知HP(愛知県)、博物館明治村HP

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花伯爵邸「家政局」七変化

2023/9/24

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。

まずは前回の、「大広間」修復工事のビフォーアフターをご確認ください。




そして、「家政局」のビフォーアフターは、こうなりました。

どうして…どうして…




安心してください。

取り戻したかった、100年前の「家政局」の姿は、こちらなのです。

おそらく昭和40年代(1965~75)の「家政局」



ただし、この写真は昭和40年代(1965~75)に撮影されたと推測されるもので、厳密には100年前の姿とは言えません。
実は、「家政局」の昔の写真は、あまり残されていないのです。



明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸は、西洋館・大広間・御居間・御子様御部屋・仏間・御宝蔵・女中部屋などの多くの棟が連なり、廊下で繋がれていました。

立花伯爵邸全域の航空写真 1930~1937年



「家政局」棟は、木造2階建。1階に家政局の事務所と職員の控室が、2階には会議室2部屋と客間1部屋が設けられていました。
もともと家政局とは、伯爵立花家の財産管理などを担う家政機関の名称です。
当時「御役所」と呼ばれていたオフィス棟を、今は「家政局」と呼んでいます。

現在、伯爵邸時代に撮影された「家政局」の外観写真は、撮影日が不明の、この2点しか確認できていません。伯爵立花家の家族が生活する場所ではなかったので、立花家のアルバムに写真が残されなかったのです。



立花家のアルバムに残る「家政局」っぽい室内写真は、今のところコレだけ。
上の2点の外観写真の、高欄の形などから推測しました。

伯爵邸時代の「家政局」?の室内写真
「家政局」は昭和62年(1987)頃にサッシ窓に替えられました。

かわいい。


ですが、伯爵邸時代の「家政局」については、また別のおはなしで。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付




時代はとんで昭和20年(1925)、第二次世界大戦の終結後。
戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なったため、立花家は収入源を確保しようと、 料亭・旅館業をはじめます。

昭和25年(1950)5月、立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

立花家が伯爵ではなくなると、家政機関は不要となり、「家政局」は役割を失います。

立花家17代目の想い出話では、16代当主・和雄は、空きスペースとなった「家政局」を赤の他人に気前よく貸し出し、そのあげく「家政局」でダンスホールが営業されていた時もあったようです。 *これもまた別のおはなしで。



現時点で最も古い、撮影日が確かな「家政局」の写真は、昭和45年(1970)10月30日、「焼肉とイタリアンスナック 御花 一番館」オープン時のものです。

当時「家政局」は60歳、外観を一変して再出発がはかられました。
墨漆喰の黒壁を、なまこ壁風白壁に変えたところに、当時の流行を感じます。
ただし、骨組は変えていません。



昭和39年(1964)の東京オリンピックと昭和45年(1970)の大阪万博を画期として全国的に整備された交通網が牽引し、マイカーの大衆化や高速道路網の発展が推し進めた観光ブームは、柳川にも波及しました。

はじめは伯爵時代の建物・食器・布団などを贅沢に流用して料亭旅館を営んでいた立花家も、昭和46年(1966)に株式会社 御花となり、観光ブームに乗り遅れないよう設備の充実をはかるようになります。
「家政局」の改装も、その一環でした。



「御花」を訪れる観光客はドンドン増え続け、昭和49年(1974)には10万人、昭和56年(1981)は20万人を突破します。



観光地として大賑わいをみせる「御花」では、ホテル棟やレストラン棟が新築され、代わりに「焼肉とイタリアンスナック御花 一番館」は閉店します。

今度は「御花」の来園受付兼土産物店となった「家政局」。
当時は団体旅行で来園した大勢の旅行客がひっきりなしに出入りして、芋の子を洗うような混雑も見られたようです。

残念ながら、当時の写真はありませんが、修復工事の直前の「家政局」のそこここにも、往時の名残が感じられます。



平成6年(1994)に、ショップ「お花小路」を併設した史料館棟が新築、受付の機能が他に移されたため、再びお役御免に。その後は、株式会社御花の事務所として使われるようになりました。

しかし、現代オフィスには必須の、電気設備も空調設備もネット回線も想定されていない旧「家政局」は使い勝手が悪く、すきま風に煩わされない現代建築への大改装を望む声が日に日に大きくなっていきます。


ちなみに、家政局の別の一区画では、すでに昭和26年(1651)頃から柳川藩主立花家に伝来した美術工芸品が展示されていました。

「立花家史料室」 1970年代の「御花のしおり」掲載写真

史料館棟の新築後は、民具を展示していた時期もあります。



ところが、にわかに「家政局」は見直されます。

福岡県西方沖地震(2005.3.20発生)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)を機にご縁ができた、建築の専門家の方々が、「家政局」の歴史的価値を一目で見抜いたのです。
立花家をはじめとする関係者一同は思いもよらず、大改装も考えていた時でした。

奇跡的に生き残り、築100年にならんとする「家政局」。

全国的にみても、旧大名家の家政機関であった建物は残されておらず、いつの間にか希少な一例となっていました。よそのお宅の「家政局」は、役割を失った際にダンスホールにはならず、すぐに更地にされたのでしょう。



そして平成23年(2011)年、もともと旧立花伯爵邸の敷地【下図青色範囲】は、昭和53年(1978)に「松濤園」の名で国の名勝に指定されていましたが、指定範囲が追加され【下図赤色範囲】、名称も「立花氏庭園」と改められました。

ついに「家政局」も、名勝の重要な構成要素として、文化財に!

たちまち、河上建築事務所の綿密な調査により、「家政局」棟の骨組の大部分が建築当初のまま維持されていることが確認され、改造前の姿に戻す「復原」兼、修復工事が計画されました。


また、工事準備にあたり、昭和末期から「家政局」内で営まれていた社員食堂をふくむ、すべての事務所機能がホテル棟へ移されました。



伯爵邸時代から現在まで、一貫して人が集う場所でありつづけた「大広間」と、それとはまさに対照的に、めまぐるしく役割を変えてきた「家政局」。
それぞれ異なる問題を抱えていましたが、様々なハードルを乗り越え、平成の大修復工事が実施されたのです。



100年前の姿を取り戻した「家政局」。
白い「西洋館」との組合せが映える、クラシカルな美しさをご覧ください。

「家政局」修復および外観復元後 2019年4月

「家政局」の過去を知っていると、実際の3倍ほどステキに見えてきませんか?

わたしは、ここに書ききれなかった伯爵時代からの七変化の詳細を知っているので、実際の7倍ほどステキに見えています。


「家政局」を7倍ステキに見たい方は、是非ともオンラインツアーへ。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。

2023/9/14

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」修復工事(2016-17) では、雨漏り被害が年々拡大していた屋根を全面的に改修して、約1万3千枚の瓦をすべて葺き替えました。

修復工事前 2014年7月

修復工事前の瓦の話はこちら。




現在、全国の瓦の多くは、限定された製産地でつくられた機械製品です。

しかし、昭和初期頃までは、各地の身近な土で焼かれた手づくりの瓦がつかわれていました。筑後地方でも、大正7年頃までの瓦生産は、手作業でした。
「大広間」の瓦は、刻印から、地元柳川でつくられたことがわかります。

修復前の旧瓦は、土の耐火度が低いために焼成が十分ではありませんでした。
そして、100年以上にわたり風雨にさらされ続けてきました。

修理の時点で、ほとんどの瓦は、 瓦に滲みた水分が凍結と融解を繰り返す「凍害」により、割れ・欠け等の破損がありました。


新しく葺く瓦は、日本三大瓦の産地といわれる愛知県三河地方の「三州瓦」をつかいます。

耐久性があり、かつ明治期の瓦となじむ色味に調整できる瓦を探しました。良質の粘土を高温で焼き締めた均質な瓦は、明治期の瓦よりもグンと長持ちするはずです。




はい!
では、これから、 約1万3千枚の瓦を葺き替えていきたいと思います!


まず「大広間」を素屋根で覆います。




2016年7月

それでは、瓦をはずしていきましょう。

2016年8月



これは……土、でしょうか?



まごうかたなく土ですね!



ご覧ください!
こんな大量の土が、「大広間」の屋根に隠されていました……



「大広間」は壁の少ない構造の上に、瓦や土を積んだ重く大きな屋根が架けられた「頭でっかち」だとは聞いていましたが、想像をはるかに超えていました。
これでは非常に重いはずです。

屋根全面に敷きつめた土(粘土に川砂や石灰を混ぜたもの)に、瓦をのせて安定させる工法を、「土葺き」といいます。 昭和20年代までは、この工法が主流でした。これだけの量の土なら、断熱効果も高そうです。
屋根の板の上に杉の皮などの下葺き材を敷き、その上に粘土をのせ、粘土の接着力で瓦を固定するそうですが、こんなに石がゴロゴロあって大丈夫だったのでしょうか。

現在は、葺き土を使用しない 「空葺き」工法が一般的です。


文化財の修復は、本物としての価値を損なわないため、現状維持を原則としますが、今回の修復工事では、「土葺き」を「空葺き」に替え、瓦も旧瓦よりも軽い「三州瓦」をつかいます。

屋根をできるかぎり軽量化して、耐震性を高めるためです。
「大広間」内に出入りする見学者の安全確保を、何よりも優先して決めました。





それでは、こちらのバキューム車で、土を取り除いていきましょう!









「大広間」屋根の土の除去作業
【注意:掃除機に似た音がします】

観光客に配慮して、砂埃が舞わないようバキュームで吸い込みました。土というより礫に近く、手作業で砕かないと吸い込めません。吸引力を高めると、野地板の上に敷かれている杉皮まで吸い込むので、加減が難しかったそうです。

想定以上の大量の土を、なんとかバキュームで吸いあげました。



無事、土もなくなりました!
これからは倍速でお見せしていきます !


細い木で押さえれられていた杉皮が撤去され、野地板 ノジイタ (屋根の下地板)があらわになりました。 さらに野地板もはずしていきます。



垂木 タルキ(棟から軒にかけた斜材)は、なるべく元の木材を残しながら、腐朽した部分を修理しました。



あわせて950枚ほどの野地板を新しく張った上に、「改質ゴムアスファルトルーフィング」(合成樹脂を混合したアスファルトを浸透させた防水紙)を敷いていきます。



ルーフィング(防水紙)の上に縦横に桟木 サンギを打ち付け、針金や釘で瓦を桟木に固定します。



最後にかわいくデコっていきましょう!

立花家の家紋「祇園守紋」があらわされた鬼瓦は、旧瓦と寸分たがわぬよう、焼成後の収縮率を計算した上で、手彫りでつくられました。




はい!完成です!!

2017年8月



ビフォーアフターは、こんな感じ。

なんということでしょう!
ただ瓦が新しくなっただけに見えます。


大量の土が失われ、屋根の重さが激減したことに、いったい誰が気づくでしょうか?(反語)


わたしと吉村さん(現場代理人)と河上先生(設計監理)と、バキューム作業に携わった少人数しか知りえない事実をわかちあった貴方に、ひとつお願いがあります。




立花伯爵邸「大広間」が超重い屋根に耐えてきた100年間を、どうか忘れないであげてください。   



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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かりそめの素敵な素屋根

2023/9/8

工事中の建物を風雨から守るために覆う仮屋根を、「素屋根」といいます。

文化財建築物の修復工事の現場では、各々の事情に合わせ「素屋根」が設営されますが、すべて工事後には解体され、その姿をとどめることはありません。


現在(2023年9月)、Googleマップ航空写真に見る「立花氏庭園」は、「大広間」修復工事中(2016-17) に撮影されていたようです。

国指定名勝の全貌が見えないのは残念ですが、今にいたるまで素屋根の姿が残されていて、わたしはとても嬉しいです。

工事終了後の全貌 は、Googleアースの航空写真で見られます。



現場代理人・吉村さんの頼れる背中

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」工事の現場代理人は、吉村さん。
センス・知恵・経験が豊富で、ものすごく頼りがいがありました。







「大広間」工事の素屋根には、吉村さんの英知がこめられています。



作業足場と素屋根の設営は、修復工事のはじめの一歩。
しかし、その前に大きなハードルがありました。


修復工事と観光の両立です。

民有の文化財である国指定名勝「立花氏庭園」の修復工事は、国・福岡県・柳川市からの補助をうけながら、所有者の株式会社 御花が主体となって実施します。

文化財保護のためには、「安かろう悪かろう」工事は許されません。
民間企業としては、文化財を活用して蓄えた資金を文化財の修復に費やすという運用をストップできないので、営業を続けていかねばなりません。


「大広間」はおよそ110歳、大規模な修復工事は今回が初めてです。

順次建てられた新築時とは異なり、北は「西洋館」、東は「御居間」、南は「松濤園」と密接しています。四方を文化財で囲まれた「大広間」まわりの狭さは、航空写真をみると一目瞭然でしょう。


修復工事中も平常とかわらず観光客を迎えるなか、文化財を傷つけずに工事作業をすすめるため、有識者による「名勝立花氏庭園整備委員会」でも議論が重ねられましたが、観光客の多少の不便は仕方ないという雰囲気でした。しかし、所有者の希望は、お客様ファーストです。


どうする吉村さん!

わたしは今も鮮やかに思い出せます。
工事の落札直後、吉村さんが「素屋根の改良案があるのですが」と言い出された瞬間を。



そして、「松濤園」展望デッキが組み込まれた「素屋根」が設営されたのです。

CNES/Airbus、Maxar Technologies、地図データ ©2023を加工

「工事後も展望デッキは残してほしい」と本末転倒な声があがるほど、大好評を博した展望デッキは、予定を超過して、素屋根を解体するギリギリまで活用され続けました。



素屋根足場に凝らされた吉村さんの工夫は、これだけではありません。


限られたスペースを効率的につかい、台風にも負けない強度となるよう、ブレース構造(筋交い)の枠組を多用したり、防炎シートをスムーズに張れるよう、屋根部分をフラットにしたりと、計算を重ねてています。
天井に半透明部分をスリット状に入れて、採光を確保。全体を覆うのは、内部に熱や湿気がこもらない通気性のシートです。


屋根材としては、トタン板(亜鉛鉄板)やタキロン(硬質塩化ビニール波板)などの候補もありましたが、手間・工期・費用・強度・勾配を総合的に判断して防炎シートに決めたと、吉村さんから聞きました。シートは継ぎ目ができないため、屋根の勾配を緩くできるそうです。


たとえば、福岡県西方沖地震(2005.3.20発生、柳川市は震度5弱)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)の「素屋根」と見比べると、屋根の形やつくり等の差違がわかります。

「御居間」は文化財建物に挟まれてないので、「大広間」まわりより余裕がありました。何より、松濤園のマツの木々との距離にもゆとりがあります。



「大広間」の工事では、どのように工夫してもマツが邪魔してきます。
しかし、素屋根足場の障害物となるマツも、国指定名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素です。文化財の一部として、保護しなければなりません。



マツには少し退いていただくことになりました。


しかし、これを理由に100年かけて育ってきたマツが衰弱したら、困ります。
前年に根回し(根の周囲を切って細根の発生を促す準備)をした上で、 2016年2月に仮移植しました。
「松濤園」には重機が入らないので、すべてが人力作業。とてつもない大仕事でした。

もちろん、工事終了後は、元の位置にきちんと戻っていただきます。

植木職人さんから「戻さなくても良いのでは?」と尋ねられました。
わたしも気持ちが傾きかけましたが、「名勝」とは「眺め」を文化財として指定されているので、指定時の「眺め」から変更することは許されません。
ふたたびの重労働の末、マツは工事前の位置に戻されました。




マツに退いてもらっても、作業スペースは確保できません。


解決策として、「大広間」と「西洋館」の間の中庭、ソテツの上空に作業用ステージを設けました。ここで素屋根のパーツも組み立てています。



しかし、ソテツも名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素
枯らさないため、 日照と雨水を確保できるよう配慮しました。



台風襲来!
嵐が来るぞ、”帆”をたため!!

「計算上どんな台風でも全く問題ありません」という吉村さんの言葉は非常に頼もしかったのですが、台風接近予報のたびに、”帆”をたたみ、ブルーシートで覆う手間はとても大変そうでした。




ふりかえってみると、現場代理人・吉村さんと、設計監理・河上先生と、素敵な「素屋根」とともにあった「大広間」修復工事の日々。



あの素晴らしい「素屋根」をもう一度……とは全く思いません。

2017年3月 
2016年4月発生の熊本地震による災害復旧工事も同時進行していました



かりそめがゆえの美しい想い出。


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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必見!激アツ怪異譚!「芸州武太夫物語絵巻」【ネタバレ配慮】

2023/9/1

柳川藩主立花家に伝来した「芸州武太夫物語絵巻」は、全3巻の長さを合わせると、およそ34.5メートルにおよびます。

「芸州武太夫物語絵巻」 江戸時代後期 立花家史料館所蔵

江戸時代に備後国三次(今の広島県三次市)に住んでいた稲生武太夫 イノウ ブダユウ(1734-1803) が、まだ平太郎という幼名を名乗っていた寛延2年(1749)7月に体験した、怪異現象が描かれた絵巻です。



こどもも大人も楽しめる展示のため、立花家に伝来した諸々の美術工芸品を物色していたところ、館長から「オバケの絵巻があるよ」と推薦されました。

描かれているのは、こんなオバケ。


え、超ワクワクするんですけど……


え、予想外の衝撃のラストを迎えるんですけど……



この面白さと驚きを、こどもたちにも体験してもらうには、どうすればよいでしょうか?


この絵巻は実録レポです。
旧暦の7月1日から1カ月、全30日間のできごとが描かれているからこそ、ラストの衝撃が際立つのですが、長い文章になると最後まで読んでもらえない可能性があります。

ちょっと、冒頭をみてみましょう。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵)の冒頭

「 彼の武太夫、化物に逢し起りは、十二三歳の頃よりして、勇気なる余りにや…… 」………………。



小学1年生を想定して、伝わりやすい表現に言いかえてみます。
主人公の名前は、「武太夫」より幼名の「平太郎」が良さそうです。

勇気なる余りにや、勇気いっぱい、勇気凜々……勇気りんりん
そうだ!
アンパンマンの絵本をイメージしつつ、絵巻の文章から逸脱しないよう苦心しながら翻案しました。


翻案したテキストを映像化したものが、こちらになります。

『へっちゃらへいたろう(稲生物怪録)』
You Tube「立花家史料館公式チャンネル」で全巻公開中

*英語の字幕も用意しています

絵巻は、畳に座った膝の前に置き、両手で開いて鑑賞します。
肩幅ほどの一場面を読み、読み終わったら巻き込んで、また肩幅ほどを開いて次の場面を読む、の繰り返しで読みすすめる、ひとりじめ形式の娯楽です。

立花家のお殿さまやお姫さまが、私的な空間でひそやかに楽しんでいた絵巻を、全世界に公開して、皆さまと一緒に楽しめる時代になりました。

時代をこえて伝えられた衝撃のラストを、ぜひネタバレ前にご堪能ください。





ここからはネタバレを含みます。





魔王・山本五郎左衛門が負けを認めた、平太郎の勇気。
オバケを倒すのではなく、怪異に惑わされない強さが評価される点が、とても興味深いです。

衝撃のラストで明らかになった、勇気ある16歳と根競べして100人に勝つと「魔王のなかの魔王」(原文では「魔王の頭」)になれるという奇妙なシステムや、86人目という絶妙な数字など、この物語は、民間伝承の怪異説話とは異なる風情があり、そこに時代を超えて通じる面白さを感じます。


平太郎がどんな怪異にも動じない様子は、物語の重要なポイントです。
小学1年生にもしっかり伝わる表現を模索しました。

平気、平気の平左、平気の平太郎……へっちゃら平太郎
響きもよく、強そうです。
もちろん、脳内BGMは「CHA-LA HEAD-CHA-LA」(アニメ「ドラゴンボールZ」主題歌)。
おかげでリズミカルな文章に仕上げられました。




しかし、いったい何故、広島在住の平太郎(16歳)の体験談が、福岡の柳川藩主立花家に伝来した絵巻に描かれているのでしょうか?



実は、「芸州武太夫物語」には、原典があります。



平太郎の体験談はいつしか評判となり、平太郎本人が書き留めたり、知人が平太郎から聞き書きしたりと、後年には文書に起こされたようです。
そして、求めに応じて、次々と写本がつくられていきました。

その過程で、絵本や絵巻にも仕立てられ、 怪異の内容や出現順に差異がある異類本も派生していき、さまざまな題名で流布したとみられています。

江戸時代の国学者・平田篤胤(1776-1843)は、平太郎の体験談に強い関心をもち、門人らと諸本の校合整理をすすめ、集成本をまとめさせました。

ちなみに平田篤胤は、国学者として大成する一方、霊界研究にも勤しみ、天狗の仙境で暮らしたという寅吉を取材した『仙境異聞』や、前世の記憶をもつ勝五郎を取材した『勝五郎再生記聞』を著しています。



近代になっても、平太郎の体験談は、いろいろな文芸作品、ときには講談のモチーフとなり、 忘れ去られることなく、多くの人々に愛好され続けました。



今年は平太郎の没後から220年、平太郎の体験談は ≪稲生物怪録≫ と総称され、超長寿人気コンテンツとしてマルチメディア展開がなされる一方、 ≪稲生物怪録≫ を対象とした多角的な研究も深められています。


そして2019年4月には、≪稲生物怪録≫ の聖地である広島県三次市に、湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)が開館しました。

湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)HP
博物館について > 《稲生物怪録》- 三次の妖怪物語 – より




当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」も、多種多様な≪稲生物怪録≫ のなかの一例です。



ほかの≪稲生物怪録≫ と比べて論じてみたいところですが、登場人物の名前表記に注目するだけでも数系統があり、とても複雑です。



例えば、上記映像の音声では、魔王・山本五郎左衛門の名前を「ヤマモト」と読んでいます。


実は、ほかの≪稲生物怪録≫では、「サンモト」とルビが書かれている例が多く、山本を「サンモト」と読むと魔王っぽさが強まる気がするので、わたしとしては「サンモト」と読んでほしかった……
ですが、当館の絵巻にはルビがないので、ほかの≪稲生物怪録≫ を知らない読み手ならそのまま「ヤマモト」と読む方が一般的です。


逆に、ライバルの真野悪五郎(原文では「真の」)には、わざわざ「まこと」とルビが振られ、原文のままだと「マコトノ」になりますが、 ほかの≪稲生物怪録≫ にならって「シンノ」と読んでいます。



さらに、主人公の名前も、原文は「武太夫」としか書かれていません。
ほかの≪稲生物怪録≫ に例があるので、「武太夫」に慣れ親しんでいたはずの立花家のお殿さまやお姫さまはには遠慮せず、幼名の「平太郎」をひっぱってきました。


※下の画像のピンク傍線箇所を参照。
オレンジ傍線箇所には「魔王」「魔王の頭」と実際に書かれているのでご確認ください。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵) の該当部分



まだまだ注目すべきポイントはあるのですが、諸本を比較検証して≪稲生物怪録≫ の成立を探るような研究は然るべき方々におまかせして、当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」を、絵巻という作品として見てみます。


この絵巻の第一印象は、大名家伝来品にしては質素だな、内容も期待できそうにないな、でした。


もともと、本紙に別紙1枚を裏打ちしただけのラフな表装ではありますが、繰り返し読まれたことを想像させるほど傷み、収納箱も失われてしまっています。
しかし、開いてみると、すっきりとした丁寧な文字に、上品な色彩で巧みに描かれた狩野派系の絵が添えられた、大名家にふさわしい上作で驚きました。


こちらで1巻目の前半を公開しています





ほかの≪稲生物怪録≫とくらべると、怪異現象だけを記述する系統になり、シンプルで分かりやすい文章で語られています。



しかし残念ながら、文字も絵も、作者名は記されていません。

巻末は、「武太夫が直接話したことを詳しく書きました」とあっさり終わり、立花家が絵巻を入手した経路も分かりません。



いまのところ、平太郎が仕えた広島藩主浅野家と婚姻を結んだ際に入手した可能性、もしくは、柳川藩士・西原晁樹が平田篤胤門下であったので、その縁で立花家に納められた可能性を考えていますが、どちらも裏付けはありません。




同じく浅野家と婚姻関係がある尾張徳川家にも、江戸時代に描かれた筆者不明の「武太夫物語絵巻」3巻(徳川美術館所蔵)が伝来しているようですが、文章に差違がみられます。

徳川美術館HP
企画展「怪々奇々―鬼・妖怪・化け物…―」(2020.7.18~2020.9.13開催) より



現時点の2例だけでは、検証も不十分です。
「うちにも≪稲生物怪録≫ の絵巻あるよ」という大名家関係者の方、いらっしゃいましたら是非ご教示ください。




難しいことはさておき、 柳川藩主立花家伝来の「芸州武太夫物語絵巻」に描かれたオバケたちは、どれもとてもカワイイ。
これだけは自信をもって断言できます 。




立花家史料館の総力をあげて作成した特製おばけカード。
自慢の逸品なので、ぜひとも見ていただきたい!



平太郎のHは、ヒーローのH。



参考文献
杉本好伸 編『稲生物怪録絵巻集成』2004.7.1 国書刊行会 、『改訂版 妖怪いま蘇る-《稲生物怪録》の研究-』20133.3.29 三次市教育委員会、杉本好伸 「 《稲生物怪録》資料紹介 徳川美術館所蔵『武太夫物語絵巻』について」(広島近世文学研究会編集『鯉城往来 17号 』2014.12.30 広島大学文学部)

*** ココまで知ればサラに面白い ***
学芸員として人前で作品解説をする際、ココまで知ればサラに面白くなるけれどと思いながらも、時間等の都合でフカボリせずに終わらせることは少なくありません。そんな、なかなかお伝えする機会のないココサラ話をお届けします。

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こちらの鎧をキレイに畳んでご覧にいれましょう!

2023/8/16

今月30日(2023.8.30)19時から、3回目となるオンラインツアー「立花家伝来変り兜と畳胴具足の秘密-変り兜の仕組みを知る・畳胴具足を畳んでみる-」を開催します。 【終了しました】


今回は盛りだくさんの二本立!
「変り兜」と「畳胴具足」について、植野館長が徹底的に解説します。


前回は「変り兜」の見どころを紹介しました。
よろしければオンラインツアーの予習としてご活用ください。





続いて、オンラインツアーでしか成し得ない「畳胴具足を畳んでみる」を、声を大にして宣伝します。



「畳胴具足」または「畳具足」は、その名のとおり、折り畳める甲冑です。



「畳具足」といえば、足軽などの下級武士クラスがつかう、簡素なつくりの例が多いのですが、大名クラスの「畳具足」も存在します。

今回のオンラインツアーで取り上げるのは、「鉄黒漆塗骨牌鉄繋畳具足」。
柳川藩2代藩主・立花忠茂が島原の乱に持参したと伝わります。

実戦期における大名クラスの「畳具足」と「鎧櫃」の組合せは、ほとんど現存していない作例です。

今回のオンラインツアー付録ブックレット(B6版フルカラー24頁)より


では、みなさま。
この畳具足をたたんで、右下の鎧櫃にキレイに収めてご覧にいれましょう!



……ものすごくワクワクしませんか?
実は、学芸員のわたしも、はじめて見ます。
小さな鎧櫃に収まりきらないのではないかと、少し不安です。

折り畳むことは、『文化財の保存』の立場では推奨されません。
したがって、今回のオンラインツアーが最初で最後となります。



兜を折り畳むと、こんな感じ。


今回のオンラインツアー付録ブックレット(B6版フルカラー24頁)より

オンラインツアーでは、植野館長が実際に、兜から順々に畳んでいきます。畳み方について、リアルタイムで質問できる機会は、このとき限りです。



今回を見逃すと、次の機会はありません。
これは宣伝の誇張表現ではなく、その通りですので、ぜひ今回のオンラインツアーをご覧になっていただきたいと願っております。【終了しました】





*** ココまで知ればサラに面白い ***
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2023.9.2改稿

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変り兜の実例は、現代人の想像より奇なり。

2023/8/13

今月30日(2023.8.30)19時から、3回目となるオンラインツアー「立花家伝来変り兜と畳胴具足の秘密-変り兜の仕組みを知る・畳胴具足を畳んでみる-」を開催します。 【終了しました】


今回は盛りだくさんの二本立!
「変り兜」と「畳胴具足」について、植野館長が徹底的に解説します。


オンラインツアーでとりあげる、立花家伝来の「変り兜」はこちらの4点。

どの兜も、ワクワクする造形です。



それぞれ形はちがいますが、土台の構造はだいたい共通しています。
「変り兜」を二次元で説明するのは難しいので、ぜひオンラインツアーにて、三次元の視点でご覧ください。

自由自在なカメラワークで「変り兜」を鑑賞できるのは、オンラインツアーならではの醍醐味です。

オンラインツアーでは、植野館長がリアルタイムで質問にお応えします。カメラの視点のリクエストも、時間が許す限り対応いたします。



実は、「変り兜」はとても難しい……

まず、定義が曖昧です。
そして、現存する作例の多くは、制作年代がわかりません。
今となっては、装飾や祭礼のために作られたものも入り混じっているので、実戦で活躍した「変り兜」の姿が隠されてしまっています。

つまり、研究の余地が大いに残されているのです。

そんな「変り兜」、オトナの自由研究にオススメです。
今回のオンラインツアーで「変り兜」の基礎を学べば、これからの人生をかけて楽しめる趣味が手に入ります。

わー、なんてお得! 今すぐ、申し込まなきゃ!【終了いたしました】





軽率にオススメした手前、「変り兜」の作例を、ちょっとだけご紹介します。
オンラインツアーの予習として、お楽しみください。




大名家伝来の「変り兜」の例として、土佐藩主山内家の伝来品は、数が多く、バリエーションも豊かです 。

高知県立高知歴史博物館のサイトの「あなたのかぶってみたい兜はどれ!?(変わり兜の解説)」で、とても楽しく、わかりやすく紹介されています。




また、福岡市博物館では、福岡藩主黒田家だけではなく、家臣の家に伝来した甲冑も定期的に展示されています。
図録に掲載されていない兜に出会えるチャンスなので、見逃せません。


例えば、「黒漆塗頭形熨斗前立兜」と「鉄錆地桃形鬼面前立兜」。


どちらも兜の鉢の形は変化させず、器物の形をした巨大な前立をつけています。
厳密には「変り兜」とは言えないかもしれませんが、十二分にインパクトがあります。


※画像がご覧になれない際はpic.twitter.com/2MT00JXfUr
「 黒漆塗頭形熨斗前立兜・紺糸威二枚胴具足・小具足付」(「黒田家の刀剣と甲冑展」
福岡市博物館 / Fukuoka City Museum X(旧Twitter)@fukuokaC_museum



「鉄錆地桃形鬼面前立兜・紺糸威胴丸具足」
おうちDE楽しめる3D福岡市博物館! (福岡市HP)より



底知れぬ「変り兜」の”沼” に、ようこそ。



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2023.9.2改稿

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大河ドラマ「立花宗茂」でぜひ見たい!家臣との絆のエピソード

2023/6/2

なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、小野家で伝えられてきたのでしょうか?




以前ご紹介した我らの大先輩、渡辺村男さんは、このように書いています。

※あとで解説しますので、読み飛ばしてかまいません。
 臨場感あふれる描写を、わたしだけが楽しむのは勿体ないので長めに引用しました。




小野成幸 小伝 

(中略)碧蹄館の役先鋒隊長の一人たり。午前の戦争中勇猛を振ひ敵を斬る事多し。時に 成幸 両袖あれば敵を斬るに邪魔となるを以て、之を切り捨てゝ奮戦せり。

宗茂 休息中 成幸 を招き 其奮闘抜群を賞す。且つ曰 鎧の袖なきは甚だ見苦しき也。故に軽き袖を与るを以て之を著けよ。又敵将の持ちたる団扇を与へて曰、之を以て部下を指揮せよと。成幸感泣して曰 之を以て功を建て其恩に報せんと。

正午の激戦 成幸 金甲の先鋒隊を率ゐ敵の本陣に突貫す。時に宗茂の隊は常に中堅を砕き直進し、其左右と後方とは浮田[引用註:宇喜多]小早川等の軍に委ね咸な殊死驀進す。其状恰も疾風の秋葉を払ふが如し。狼狽せる敵中一将あり、成幸 馬を躍らして之に薄る、遂に重囲に陥り戦死す。

其後 其子孫 唐団扇を以て家紋となし、又宗茂より賜ひし鎧の両袖は今尚之を保存すと云。(後略)

※表記は原文のままですが、漢字の旧字体だけは新字体に変換しています
渡辺村男 『碧蹄館大戦記 』大正11年(1922)民友社  246・247頁(下記の書誌163コマ目)

渡辺村男 著『碧蹄館大戦記』,渡辺村男,大正11.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕


小野成幸は、文禄元年(1592)に宗茂とともに朝鮮に渡った、2千5百の立花軍の一員でした。
翌2年(1593)1月、朝鮮漢城〔現在の韓国ソウル〕北方の碧蹄館における明軍との激戦の中で、成幸は動きの邪魔となった両袖を切り捨てます。

袖とは、両肩につける、鎧の一部品です。
甲冑の袖は、古くは矢を防ぐ盾となるように大型でしたが、火縄銃が主戦力となる16世紀末頃からは、動きやすさが重視されたのか、次第に小型化していきます。成幸も袖は無用だと思ったのかもしれません。

しかし、袖のない成幸を見た宗茂は、見苦しいからと、自分の鎧の軽い袖を与えて、着けさせます。

当時の鎧は、基本的に頭、胴、腕、股、臑を守る部品のデザインをそろえ、一式として着用するものでした。他は自分の鎧のまま、宗茂の袖をつけた成幸は、ちぐはぐに見えたはずです。

それでも、成幸にとって、 主君の袖は大きな誉れでありました。それに報いんと先鋒隊を率いて奮戦し、残念ながら戦死を遂げます。


この話の袖こそが、小野家に伝来した 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵) ではないかと考えられるのです。



なんとドラマティック!!
とても宗茂らしいエピソードだと、わたしは勝手に思っています。

忠義な家臣との絆を感じます。
そして、平和な儀礼の場ではない、厳しい戦いの合間に、袖を邪魔だと言う家臣に、見た目が悪いという理由で袖を与える、宗茂の空気の読めない大らかさがステキです。

刀や鑓ではなく、身に着ける防具をやりとりするなんて……
NHK大河ドラマ「立花宗茂」が実現したら、絶対にこのシーンは見たい!






主君の宗茂から拝領した袖に、 さらに主筋の大友家の家紋「杏葉紋」の金具が付いていたとしたら、成幸や小野家にとって、非常に大きな誉れであったと想像されます。だからこそ、本人の死後に異国の地から持ち帰られ、大切に伝えられてきたのでしょう。

「金白檀塗色々威壺袖」と「杏葉紋」については
この動画を150秒ご覧ください



実際、ともに小野家に伝来した具足の他の部分柳川古文書館所蔵)と、袖とを見比べても、全くスタイルが異なるため、袖だけを宗茂から拝領した話にも頷けます。さらに、唐団扇紋のついた指物も、具足と同じ櫃に納められて伝来しているのです。



袖のやりとりは本当にあったんだ! 村男さんは嘘つきじゃなかった!

わたしたちは、その場で見ていたかのように描写しながらも、引用元を明かさない村男さんの話を、話半分か四分の一に聞いていたので、2016年秋の”袖の再発見” は、とても嬉しい驚きでした。

喜びのあまり、おむかいの黒田屋菓子舗さんで、特注の袖ケーキまで作ってもらっちゃいました。

※とても素晴らしく、美味しかったケーキなので再掲しました。


村男さんが調査した100年前は、今では失われてしまった史料も残存していたのでしょうか?
小野家伝来の袖の存在も、宗茂と成幸のやりとりも、当時の柳川ではよく知られていたのかもしれません。

しかしながら、近代から現代にいたる間に、袖の話はいつしか忘れ去られてしまっていたのです。


実は、この袖のやりとりは、江戸時代の武具類の台帳に記録されていました。
逆に言えば、村男さんの著作以外では、武具類の台帳でしか確認できません。

現在確認できる、最も古い記録はこちらです。
武具類の台帳なので、前後のやりとり等は省略され、いたってシンプルです。

一、 御鎧  壱領
立斎様朝鮮御陣中御召 負箱ニ〆外箱入 
右者文禄年中於朝鮮御陣中 御袖小野喜八郎江被為拝領候 其後同御陣中ニ而御袖小田部新助進上仕 唯今之御袖ニ御座候

「御道具改御帳」(柳河藩政史料1011-2)  安永7年(1778) 柳川古文書館所蔵

朝鮮御陣中において、御袖を小野喜八郎へ拝領せられる。其の後、同御陣中にて、御袖を小田部新助が進上つかまつる。 唯今の御袖がそれである 。



ドラマティックさは全くなく、袖のやりとりが追加されました。



贈る方を白、贈られる方を黒にして図解すると、こうです。

小野成幸 ●←拝領―○ 立花宗茂 ■←進上―□ 小田部統房


小野喜八郎は小野成幸〔小野和泉守鎮幸の従兄弟〕のこと、小田部新助は小田部統房〔立花宗茂の姉妹の夫〕だと考えられます。
どちらも天正10年(1582)頃には戸次道雪の近臣として名前が確認でき、宗茂とともに朝鮮に渡っています。

■もっと知りたい方のために■
・小野成幸
白石直樹「新市史抄片150 宗茂の養子入りと戸次家家臣」(柳川市HP「広報やながわ」2017.12.1号)※リンクが繋がらない場合はタイトルで検索してください。
・小田部統房
堀本一繁「No.336 戦国時代の博多展8-安楽平城をめぐる攻防」(福岡市博物館HP > アーカイブズ > 企画展示
「小田部新介小伝(中略)碧蹄館役常に宗茂の左右に侍り作戦計画に参加せり(後略)」( 渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社)

●の袖は小野家に伝来した「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)。
となると、■の袖は立花家に伝来しているはずです。



伝来していました。
2010年の調査で、小田部家の家紋がつく大袖が、立花家に伝来してきたことが再発見されました。小野家の袖が再発見される6年前です。

黒漆塗本小札藍韋威大袖 立花家史料館所蔵


大名道具をあつかう史料館の学芸員にとって一番の醍醐味は、伝来してきたモノ史料と文字史料の相乗効果により、新たな知見が得られることです。

この袖のやりとりは、その最たる例だといえます。

小野家拝領の袖、小田部家進上の袖、わずかな文字史料をあわせると、村男さんのドラマティックさを超える、史実のファンタスティックさが見えてきます。
だからこそ、わたしはこのエピソードを映像化してほしいと願うのです。


それでは、皆さまの疑問にお答えします。
ドラマティックさを超えるファンタスティックさって、どういうこと?




※次回こそなるべく早くアップしますので、お待ちください。

参考文献
渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社、柳川市史編集委員会 編『柳河藩立花家分限帳(柳川歴史資料集成 第3集)』1998.3.20 柳川市

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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