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〇〇藤四郎じゃない【国宝】短刀 銘吉光(立花家史料館蔵)

2024/2/13

当館が所蔵する「短刀 銘吉光」は、国宝に指定されています。




吉光は、鎌倉時代中期に京都粟田口(現在の京都市東山区)で作刀していた刀鍛冶の名前です。江戸時代には正宗、郷義弘とあわせて「天下三作」と評価され、短刀の名手として知られています。


この吉光が作刀した刀のうち、現在(2024年2月)国宝に指定されているのは、 短刀3口と剣1口。当館所蔵の短刀をのぞいて、みな “あだ名” をもっています。

「厚藤四郎」に「後藤藤四郎」に「白山吉光」……いいなぁ……



ちなみに、「厚藤四郎」(東京国立博物館蔵)と「後藤藤四郎」(徳川美術館蔵)の “あだ名” は、徳川幕府8代将軍・吉宗の命で編纂された『享保名物帳』により定着した名物としての号です。
また、「剣 銘吉光」(白山比咩神社蔵)は、江戸時代の記録にて「白山吉光」と称されていることが確認できます。




立花家伝来の「短刀 銘吉光」 にも、 “あだ名” があったらいいのになぁ……

うちのコも、 現存する吉光作の短刀のなかでも傑作と評価され、国宝に指定された名刀なのに……
制作当初の姿のまま伝世してきた、ピチピチのカワイコちゃんなのに……

と、ずっと残念に思ってきました。

いっそ「立花藤四郎」(仮)とか “あだ名”をつけちゃおうかしら?と、浅はかにも考えたこともあります。



しかし今回、 オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史」解説ブックレットで「短刀 銘吉光」について執筆するにあたり、改めて史料を見直しているうちに、目が覚めました。
立花家が所持しているから “あだ名” を「立花藤四郎」(仮)にしちゃえという考えは、全くの心得違いだったのです。



「短刀 銘吉光」について、立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、次のように記されています。

(前略)同九年[註:天正九年(1581)]辛巳 宗麟之命ニ因テ立花親善之嗣ト為リ立花ヲ以テ氏ト為三器之譲ヲ受ク。所謂三器ハ其一ハ軍旗。頼朝公自ラ八幡大菩薩ノ五字ヲ於軍旗ニ書テ之ヲ大友能直ニ賜フ。其二ハ軍扇。建武四年正月十日大友貞載結城親光ヲ楊梅東洞院ニ斬ル。首ヲ軍扇ニ載将軍尊氏之覧ニ具フ。之ヲ血付ノ扇ト謂フ。其三ハ短刀。貞載親光ヲ斬ル之功ニ因テ尊氏粟田口吉光短刀ヲ貞載ニ賜フ。(後略)

簡単に解説すると、

初代柳川藩主・立花宗茂の先代となる戸次道雪が、大友宗麟からの主命により、立花氏の名跡とともに「粟田口吉光短刀」をふくむ「三器」を譲り受けた

と記されています。



当時、前期立花氏7代・鑑載が大友家に謀反して撃退され、立花氏は断絶していました。なお、この翌年の天正10年(1582)11月18日に立花城にて「御旗御名字」の御祝がなされ、この時をもって宗茂が名字を戸次から立花に改めたと考えられます。 

つまり、「軍旗」「軍扇」「粟田口短刀吉光」の「三器」を所持するが故に、「立花」を名乗ることが許されているのです。

この「三器」を理解していただくには、 前期立花家のこと、戸次道雪を初代とする近世大名立花家のこと、立花家のルーツであり主家でもある大友家のことを説明しなければなりません。
話は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の時代にまでさかのぼり、途中で室町幕府初代将軍・足利尊氏もからんでくるので、とても複雑になってきます。



そこで朗報です!!

2月17日(土)に開催されるオンラインツアーでは、この複雑極まりない説明のすべてが、わかりやすく丁寧にひもとかれます。

当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に関心がある方にも、是非聞いていただきたいところです。

締切は明日2月15日(木)、定員になる前に!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。



当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないのは、立花家から外に出なかったので、 “あだ名” が付けられる機会がなかったということの証です。

わたしは今、「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないことを誇りに思っています。



オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆-九州の名門が紡ぐ戦国史
(2024.2.17開催)立花家のルーツであり主家である大友家との歴史を紐解くべく、大分と柳川の2地点を結んだ特別配信にて、実物の文書をひらいて解説します。 ◆解説ブックレット(A5版フルカラー 40頁)付


◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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「立花道雪」の名前で出ています

2024/2/10

立花家史料館では、近世大名・立花家に伝来した美術工芸品を展示しています。

では、近世大名家・立花家とは?

この説明が、ものすごく複雑です。

まず、「近世大名・立花家の初代は、戸次道雪 ベッキドウセツ です」と説明をはじめるのですが、その時点で「立花家の初代なのに、戸次?」となります。
とくに、ゲーム等で「立花道雪」の名前をすでにご存知の場合、「戸次道雪」の名前に困惑されることがよくあります。

戸次道雪[1513~1585]

戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。
子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪 ドウセツです。
豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。

道雪が雷を切ったとされる刀が「雷切丸」の名で立花家史料館に伝来しています。



わたしたち学芸員も、この説明に時間をとられて、なかなか立花宗茂や誾千代の話にまでたどりつけないことを、大変もどかしく思っていました。

そこで朗報です!!

どうしても話が複雑になる立花家初代のことや、「立花道雪」の名前で知られている「戸次道雪」のことを、立花家のルーツである大友家にからめて丁寧に解説するオンラインツアーが開催されます。

オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆-九州の名門が紡ぐ戦国史
(2024.2.17開催)立花家のルーツであり主家である大友家との歴史を紐解くべく、大分と柳川の2地点を結んだ特別配信にて、実物の文書をひらいて解説します。 ◆解説ブックレット(A5版フルカラー 40頁)付

解説ブックレットのチラ見せ



当館館長のツイートのとおり、理解すると、この複雑さがクセになります。

空前絶後の機会ですので、ご興味をもたれた方は是非!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。



◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
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柳川藩主立花家に伝来した刀「雷切丸」

2024/1/30

脇指 無銘「雷切丸」は、その名のとおり戸次道雪が雷を切った刀として、柳川藩主立花家に伝来しました。

脇指 無銘 雷切丸 鎌倉時代~室町時代 刃長58.5㎝ 立花家史料館所蔵



まずは、戸次道雪[1513~1585] ってどんな人?

戸次 ベッキ 道雪ドウセツ は、戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。
子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪です。
豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。

江戸時代を通じて柳川藩11万石を治めた近世大名立花家の初代として数えられています。




「雷切丸」の由来について、立花家に残る文書のなかで、現時点で確認できる最古の記録は、明和4年(1767)10月にまとめられた「御腰物由来覚」です。

この「御腰物由来覚」は、立花家で代々大切に受け継がれてきた刀の由来を、今までのような口伝えでなく、きちんとした記録として残そうと、担当係(御腰物方)で相談し、寛永年間(1624~44)から当時までの所蔵刀剣について吟味の上、作成されました。

この 「御腰物由来覚」の 翻刻 が、『柳川の美術Ⅱ』に掲載されているので、「雷切丸」の項を全文引用してみます。

※柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』(柳川市 2007.3.22発行、2020.3.31第二刷)409頁掲載の翻刻を引用。ただし読みやすいように、異体字、合字、変体仮名を通用の文字に改めています。

『柳川の美術Ⅱ』はこちらでご購入いただけます



一 雷切丸 無銘 壱尺六寸七分半 御脇差

右は道雪様御差也、雷切と申訳は、鑑連公未豊後国南郡藤北之御館に被成御坐候節、炎天之比 大木之下に御涼所御しつらい、此所へ或時 被遊御昼寝候節 雷落けり、御枕元へ御立て被置候千鳥とゆふ御太刀を被遊御祓合セ、雷を御切被成、早速御涼所を御立退被成候、夫より以来御足御痛被成、御出陣にも御乗輿ニて被遊御出候、然とも御勇力御勝レ被成たるゆへ、常躰之者之達者より御丈夫ニ被成御坐候、且又比御太刀最初は千鳥と御附被成候得ども、雷御斬被成候以後其印御太刀有之故、夫より此御太刀雷切と御改名被成候、

この刀は道雪様の所用刀である。雷切という名の由来は次のとおり。
鑑連公がまだ豊後国藤北館(現在の豊後大野市)にいたとき、炎天のころ大木の下に涼所を設けていた。

あるとき、そこで昼寝をしていたら、突然の落雷。枕元の刀を抜いて雷を切り、すばやく涼所から立ち退いた。

それ以来、足が痛み、出陣に輿を使用するほどであったが、勇力に勝れていたので、並の武者よりも活躍した。最初「千鳥」と付けられていた太刀は、雷を斬った印があるため、「雷切」と改名された。


ここまでが、道雪が雷を切った場面です。
このくだりは、「御腰物由来覚」から100年程さかのぼった、寛永12年(1635)の自序がある『大友興廃記』にも描かれています。

戸次鑑連いまた南郡藤北に居住のとき、炎天のころ、大木の下にすゝみ所をこしらへ、ひるねして有りし、おりから雷鳴落、まくらもとにたてをきたる千鳥といふ太刀を抜あわせ、雷をきりてすゝみ所をとひさりぬ、それより以来足かたハにして、出陣も輿ならてハ不叶されとも、勇力のすくれたるに依て、常の者達者成にハまされり、扨千鳥と云太刀雷にあたりたるしるしあり、それより此太刀を雷斬と号せられたり(『大友興廃記』巻六「鑑連雷を斬事』 )

大友氏の興亡を大友義鎮、義統の2代を中心に描いた軍記『大友興廃記』の作者は、豊後国佐伯の領主に仕えた杉谷宗重とみられています。昭和初期にはじめて活字化されるまでは、写本で存在が知られていました。

「御腰物由来覚」と共通する表現が多いので関連がありそうですが、現時点では何とも言えません。ただ、江戸時代初期には、道雪が雷を切った刀のことは、知る人ぞ知る話であったようです。



「御腰物由来覚」の「雷切丸」の項 はまだ続きます。

好雪様御代大膳様へ被進之候、然処 大膳様御逝去被成候節、御道具皆御払に相成よし、此□此御太刀も御払相成可申之処、矢嶋石見殿御聞付被成、此太刀者払抔へ差出候物ニて無之、大切之御重宝ニて有之候間、御取被成候由、夫より矢島采女家ニ持伝居申候処、 鑑通公御代宝暦九年卯之 御発駕前、矢嶋周防進上之、但白鞘ニて差上ル、三原之由承伝之処、同年六月御拭之節、本阿弥熊次郎へ見セ申候処、相州物之由申候、宝暦十辰十二月右雷切差上候為代リ大和守安定御小サ刀被下之、但白鞘、
 雷御切被成候年号不相知、追て吟味之上書載之事

その後この刀は、初代藩主・宗茂から2代藩主・忠茂へと渡り、さらに忠茂から息子の大膳(茂辰、吉弘氏を名乗るが20代で早世)へと渡る。

大膳の没後、この刀も遺品分与の対象となっていたが、弟の矢嶋石見(行和/立花茂堅)が聞いて、この刀は分与するものでなく「大切の御重宝」であるとして、矢嶋家にて伝えることにした。

7代藩主・ 鑑通の代になり、宝暦9年(1759) に江戸へ出立する前、矢嶋周防がこの刀を白鞘におさめて鑑通へと進上した。それまで三原の刀だといわれていたが、同年6月に刀剣鑑定を家業とする本阿弥家の一門の熊次郎が、相模国(現在の神奈川県)の刀工の作と判断した。

宝暦10年(1760)12月に、この雷切の代替として、白鞘におさめた大和守安定の小サ刀(脇指)が矢嶋家へと下賜された。

雷を切った年号は現時点ではわからないので、あとで調べて書くことにする。


結局、追記はなく、雷を切った年号は不明なまま「雷切丸」の項は終わります。

しかし、時代は下がりますが、天保年間(1830~44)頃に立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、戸次道雪の重要な経歴が書き上げられているなかに、

天文十六年丁未六月五日 雷斬ル 時年三十五歳

と記されています。
西暦に換算すると1547年6月22日……この年月日の根拠は全くわかりませんが、雷を切ったことが特筆すべき業績とされているのが、非常に興味深いです。



実は、道雪の40代以前の経歴はあまり分かっていません。
道雪は天文19年(1550)に戸次家の家督を甥の鎮連に譲りますが、この頃から政治・軍事的な活動が本格化していきます。一人娘の誾千代が生まれたのは、永禄12年(1569)56歳の時です。
現時点では、道雪の足が不自由であったかどうかも、一次資料では確認できていないのです。


また、「雷切丸」の刀身が短くされ、太刀から脇差となった経緯もよく分かっていません。本阿弥家により「相州物」と鑑定されていますが、大磨上無銘となる現状の刀身からは、相州伝と確定するのは困難です。



ただ確実なのは、道雪が雷を切った刀として「雷切丸」が立花家の血筋に伝えられて来たこと、当館で雷切丸を展示できるのは矢嶋家のオカゲだということです。

そして今、「雷切丸」は私たちも驚くほどの知名度を誇り、多くの方々に愛されています。

矢嶋さん、本当にありがとう。



「雷切丸」や「短刀 銘吉光」【国宝】、「大友家文書」【重要文化財】や「立花家文書」【重要文化財】のことを解説するオンラインツアーを開催します。
道雪のことをもっと詳しく知りたい方にも、おススメです。

オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆-九州の名門が紡ぐ戦国史
(2024.2.17開催)立花家のルーツであり主家である大友家との歴史を紐解くべく、大分と柳川の2地点を結んだ特別配信にて、実物の文書をひらいて解説します。 ◆解説ブックレット(A5版フルカラー 40頁)付

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大河ドラマ「立花宗茂」でぜひ見たい!家臣との絆のエピソード

2023/6/2

なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、小野家で伝えられてきたのでしょうか?




以前ご紹介した我らの大先輩、渡辺村男さんは、このように書いています。

※あとで解説しますので、読み飛ばしてかまいません。
 臨場感あふれる描写を、わたしだけが楽しむのは勿体ないので長めに引用しました。




小野成幸 小伝 

(中略)碧蹄館の役先鋒隊長の一人たり。午前の戦争中勇猛を振ひ敵を斬る事多し。時に 成幸 両袖あれば敵を斬るに邪魔となるを以て、之を切り捨てゝ奮戦せり。

宗茂 休息中 成幸 を招き 其奮闘抜群を賞す。且つ曰 鎧の袖なきは甚だ見苦しき也。故に軽き袖を与るを以て之を著けよ。又敵将の持ちたる団扇を与へて曰、之を以て部下を指揮せよと。成幸感泣して曰 之を以て功を建て其恩に報せんと。

正午の激戦 成幸 金甲の先鋒隊を率ゐ敵の本陣に突貫す。時に宗茂の隊は常に中堅を砕き直進し、其左右と後方とは浮田[引用註:宇喜多]小早川等の軍に委ね咸な殊死驀進す。其状恰も疾風の秋葉を払ふが如し。狼狽せる敵中一将あり、成幸 馬を躍らして之に薄る、遂に重囲に陥り戦死す。

其後 其子孫 唐団扇を以て家紋となし、又宗茂より賜ひし鎧の両袖は今尚之を保存すと云。(後略)

※表記は原文のままですが、漢字の旧字体だけは新字体に変換しています
渡辺村男 『碧蹄館大戦記 』大正11年(1922)民友社  246・247頁(下記の書誌163コマ目)

渡辺村男 著『碧蹄館大戦記』,渡辺村男,大正11.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕


小野成幸は、文禄元年(1592)に宗茂とともに朝鮮に渡った、2千5百の立花軍の一員でした。
翌2年(1593)1月、朝鮮漢城〔現在の韓国ソウル〕北方の碧蹄館における明軍との激戦の中で、成幸は動きの邪魔となった両袖を切り捨てます。

袖とは、両肩につける、鎧の一部品です。
甲冑の袖は、古くは矢を防ぐ盾となるように大型でしたが、火縄銃が主戦力となる16世紀末頃からは、動きやすさが重視されたのか、次第に小型化していきます。成幸も袖は無用だと思ったのかもしれません。

しかし、袖のない成幸を見た宗茂は、見苦しいからと、自分の鎧の軽い袖を与えて、着けさせます。

当時の鎧は、基本的に頭、胴、腕、股、臑を守る部品のデザインをそろえ、一式として着用するものでした。他は自分の鎧のまま、宗茂の袖をつけた成幸は、ちぐはぐに見えたはずです。

それでも、成幸にとって、 主君の袖は大きな誉れでありました。それに報いんと先鋒隊を率いて奮戦し、残念ながら戦死を遂げます。


この話の袖こそが、小野家に伝来した 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵) ではないかと考えられるのです。



なんとドラマティック!!
とても宗茂らしいエピソードだと、わたしは勝手に思っています。

忠義な家臣との絆を感じます。
そして、平和な儀礼の場ではない、厳しい戦いの合間に、袖を邪魔だと言う家臣に、見た目が悪いという理由で袖を与える、宗茂の空気の読めない大らかさがステキです。

刀や鑓ではなく、身に着ける防具をやりとりするなんて……
NHK大河ドラマ「立花宗茂」が実現したら、絶対にこのシーンは見たい!






主君の宗茂から拝領した袖に、 さらに主筋の大友家の家紋「杏葉紋」の金具が付いていたとしたら、成幸や小野家にとって、非常に大きな誉れであったと想像されます。だからこそ、本人の死後に異国の地から持ち帰られ、大切に伝えられてきたのでしょう。

「金白檀塗色々威壺袖」と「杏葉紋」については
この動画を150秒ご覧ください



実際、ともに小野家に伝来した具足の他の部分柳川古文書館所蔵)と、袖とを見比べても、全くスタイルが異なるため、袖だけを宗茂から拝領した話にも頷けます。さらに、唐団扇紋のついた指物も、具足と同じ櫃に納められて伝来しているのです。



袖のやりとりは本当にあったんだ! 村男さんは嘘つきじゃなかった!

わたしたちは、その場で見ていたかのように描写しながらも、引用元を明かさない村男さんの話を、話半分か四分の一に聞いていたので、2016年秋の”袖の再発見” は、とても嬉しい驚きでした。

喜びのあまり、おむかいの黒田屋菓子舗さんで、特注の袖ケーキまで作ってもらっちゃいました。

※とても素晴らしく、美味しかったケーキなので再掲しました。


村男さんが調査した100年前は、今では失われてしまった史料も残存していたのでしょうか?
小野家伝来の袖の存在も、宗茂と成幸のやりとりも、当時の柳川ではよく知られていたのかもしれません。

しかしながら、近代から現代にいたる間に、袖の話はいつしか忘れ去られてしまっていたのです。


実は、この袖のやりとりは、江戸時代の武具類の台帳に記録されていました。
逆に言えば、村男さんの著作以外では、武具類の台帳でしか確認できません。

現在確認できる、最も古い記録はこちらです。
武具類の台帳なので、前後のやりとり等は省略され、いたってシンプルです。

一、 御鎧  壱領
立斎様朝鮮御陣中御召 負箱ニ〆外箱入 
右者文禄年中於朝鮮御陣中 御袖小野喜八郎江被為拝領候 其後同御陣中ニ而御袖小田部新助進上仕 唯今之御袖ニ御座候

「御道具改御帳」(柳河藩政史料1011-2)  安永7年(1778) 柳川古文書館所蔵

朝鮮御陣中において、御袖を小野喜八郎へ拝領せられる。其の後、同御陣中にて、御袖を小田部新助が進上つかまつる。 唯今の御袖がそれである 。



ドラマティックさは全くなく、袖のやりとりが追加されました。



贈る方を白、贈られる方を黒にして図解すると、こうです。

小野成幸 ●←拝領―○ 立花宗茂 ■←進上―□ 小田部統房


小野喜八郎は小野成幸〔小野和泉守鎮幸の従兄弟〕のこと、小田部新助は小田部統房〔立花宗茂の姉妹の夫〕だと考えられます。
どちらも天正10年(1582)頃には戸次道雪の近臣として名前が確認でき、宗茂とともに朝鮮に渡っています。

■もっと知りたい方のために■
・小野成幸
白石直樹「新市史抄片150 宗茂の養子入りと戸次家家臣」(柳川市HP「広報やながわ」2017.12.1号)※リンクが繋がらない場合はタイトルで検索してください。
・小田部統房
堀本一繁「No.336 戦国時代の博多展8-安楽平城をめぐる攻防」(福岡市博物館HP > アーカイブズ > 企画展示
「小田部新介小伝(中略)碧蹄館役常に宗茂の左右に侍り作戦計画に参加せり(後略)」( 渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社)

●の袖は小野家に伝来した「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)。
となると、■の袖は立花家に伝来しているはずです。



伝来していました。
2010年の調査で、小田部家の家紋がつく大袖が、立花家に伝来してきたことが再発見されました。小野家の袖が再発見される6年前です。

黒漆塗本小札藍韋威大袖 立花家史料館所蔵


大名道具をあつかう史料館の学芸員にとって一番の醍醐味は、伝来してきたモノ史料と文字史料の相乗効果により、新たな知見が得られることです。

この袖のやりとりは、その最たる例だといえます。

小野家拝領の袖、小田部家進上の袖、わずかな文字史料をあわせると、村男さんのドラマティックさを超える、史実のファンタスティックさが見えてきます。
だからこそ、わたしはこのエピソードを映像化してほしいと願うのです。


それでは、皆さまの疑問にお答えします。
ドラマティックさを超えるファンタスティックさって、どういうこと?




※次回こそなるべく早くアップしますので、お待ちください。

参考文献
渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社、柳川市史編集委員会 編『柳河藩立花家分限帳(柳川歴史資料集成 第3集)』1998.3.20 柳川市

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意外なところで再発見!立花宗茂の金色の鎧

2023/5/14

NHK大河ドラマ「どうする家康」にて、とても象徴的にあつかわれ、番組のアイコンともなっている金色の鎧、徳川家康所用「金陀美(金溜塗)具足」(静岡・久能山東照宮所蔵)【重要文化財】 。ドラマのなかでは、家康が今川義元から贈られていました。

え、この話の流れ、立花宗茂で見たことある!!

実は宗茂にも、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう”というエピソードがあります。しかし、残念ながら、宗茂の金色の鎧は現存していません。
そもそも、宗茂の金色の鎧を着ていたことは、最近まで研究者にも知られていませんでした。


現存する立花宗茂の甲冑は2領「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。どちらも立花家史料館が所蔵しています。

ダークブラウンをベースにビビットな赤を差し色とし、それぞれの佩楯を金と銀にするという、派手さに走らないシックな装いです。
わたしは宗茂を、カラフルな色や金ピカさとは無縁のオシャレ上級者だと思っていました。



これらの甲冑について詳しく解説すると長くなりすぎるので、ご興味のある方は、このオンラインツアーにご参加いただけますと嬉しいです。

オンラインツアー「立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ~すべて魅せます!表も裏も細部まで~」(2023.6.2開催)では、「鉄皺革包月輪文最上胴具足」の内側や細部を植野館長が直接カメラで撮影しながら解説。付録ブックレット(B6版フルカラー 24頁)も大充実。他の武将の当世具足を鑑賞するときにも必携の書となるはずです。

◆販売中◆  解説本『立花宗茂の甲冑大解剖』(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足 ) 330円/解説本『立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ(鉄皺革包月輪文最上胴具足) 500円 (どちらも税込・送料別)  展示室では鑑賞しずらい裏面や細部の拡大写真とともに詳細な解説を掲載。 B6判 全16ページ オールカラー  ※まとめての購入は送料がオトクです





ところが、7年ほど前に、柳川藩士小野家の御子孫宅にて、大切に伝えられてきた 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)が再発見され、この認識がくつがえされます。

*リンク先のGoogleアートアンドカルチャーでは、この袖の金具の魚子地がわかるほど、画像を拡大できますので、ぜひご覧ください *

金白檀塗の7枚の横長板を、上から紫、紅、白、紫、紅、白と色を変えた毛引威でつなぎ、壺のような曲線で肩にフィットする形にした壺袖。 “金白檀塗”とは、金箔を貼った上に透明な漆をかぶせる技法です。ちなみに、金溜塗は、金泥を塗った上に透明な漆をかぶせるので、同じ金色でも発色が違います。
注目ポイントは、杏葉紋のついた金具です。



この袖が宗茂のものと比定できる要因の1つが、杏葉紋です。

大友氏が寄進したと伝わる「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮所蔵)【重要文化財】 や「大友の鎧(色々威腹巻)」(長崎・松浦史料博物館所蔵)など、宗茂の主筋であった大友氏ゆかりの甲冑との関連を感じさせます。

すべては、この動画を150秒見るだけで分かります

ご覧いただけましたでしょうか?



つまり、宗茂の金の鎧は、主の大友義統(1558‐1605)から下賜された可能性が高いのです。
まさに、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう” です。



まことに残念ですが、小野家伝来の袖以外のパーツは失われているので、宗茂の金の鎧の全体像は、想像するしかありません。

しかし、当時の鎧は、基本的に各部品のデザインをそろえていたため、同じ杏葉紋をつけた「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮蔵) を参考に、小野家伝来の袖のスタイルを他の部品にも反映させた、「金白檀塗色々威具足」復元イメージ図を、”立花宗茂生誕450年記念特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』“のために作成しました。

作画をお願いした大久保ヤマトさんが、いかにも宗茂が着ていそうな金の鎧のイメージ像を、考証に忠実に、とても緻密に描いてくださってます。

「金白檀塗色々威具足」復元イメージ  
大久保ヤマト氏作画


わぁ、格好いい!

白檀塗によるキラびやかな金色とカラフルな威糸は、現存する宗茂の甲冑の配色とは対照的で、これまで誰も想像しなかった宗茂の若武者姿になりました。


白檀塗の明るく透明感のあるゴールドに、毛引威の威糸が前面に出ていて、華やかで上品です。さすが、オシャレ上級者!

威糸の紫、紅、白の3色の組合せもステキ。ケーキにしても、すごく映えます。





先日、浜松まつりでパレードする、金の鎧を着た松潤殿をTVで拝見しました。
とてもとてもウラヤマシイ……

立花宗茂と誾千代がNHK大河ドラマになった暁には、出演者の方々に、ぜひ柳川で水上パレードしてほしいと心から願っております。
そのときは、当館所蔵のオシャレ甲冑も捨てがたいですが、やはり光り輝く金の鎧の方が映えるかなという思いのまま、ここまで書きあげてきました。






それでは、皆さまの疑問にお答えします。
なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、家臣の小野家に伝来したのでしょうか?






*立花家史料館は、大久保ヤマトさんに、本当にさまざまなイラストを描いていただいてます。それぞれのイラストの詳しいお話を、是非こちらでご覧ください *

参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、「しずおか文化財ナビ 金溜塗具足」(静岡県HP)久能山東照宮(静岡県)柳川古文書館(福岡県)柞原八幡宮(大分県) 松浦史料博物館(長崎県)

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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6代藩主 立花貞則、豊前大里浜で暴死す

2023/5/3

前回は、6代藩主貞則の生涯を、丁寧に江戸時代の史料をひもときながら見てきました。前回で完結する話を今回までひっぱったのには理由があります。




前回で紹介した江戸時代の史料と、現代の柳川市史編さん事業の刊行物。
その間に挟まれた近代の史料に、ある懸念があるのです。

7代 貞則公〔引用者註:貞則は6代柳川藩主かつ立花家7代当主]

(中略)

延享3年 〔1746〕 6月20日江戸を発し、入部の途に就く

7月17日豊前大里浜に於いて暴死す。

同21日遺骸生存の如くして柳城に入る。同27日喪を発す。8月5日福厳寺に葬る。享年21。法号等覚院殿廊融性営大居士と云ふ 。

公 子なし。弟を以て嗣とす。

渡辺村男 『旧柳川藩志』上巻 60頁(下記の書誌 53コマ目)

渡辺村男 著 ほか『旧柳川藩志』上巻,福岡県柳川・山門・三池教育会,1957.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります*



この『旧柳川藩志』を著したのは、立花家伝来の史料を調査研究の対象とする、我らの大先輩、渡辺村男です。

柳川市史の編纂事業が開始する80年前、大正3年(1914)に、立花家が主体となり、藩史編纂の事業がはじめられました。その編纂に携わった中学伝習館教諭の岡茂政や、岡とともに明治44年(1911)に柳川史談会を創立した渡辺村男は、どちらも長年の調査の集大成をまとめた、柳川の歴史についての大著を残しています。この二人の著作は、柳川市史の刊行がはじまるまで、柳川の歴史を知るための必携の書であり、他に代わる書籍はありませんでした。

岡茂政 著 ほか『柳川史話』,青潮社,1984.9.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕



わたしも、当館展示室の年表パネルを作成するために、当時未刊の『柳川の歴史』シリーズを切望しながら、ほかに頼るあてもないので、渡辺村男『旧柳川藩志』岡茂政『柳川史話』 を熟読したものです。



今なら、絶対に柳川市史の刊行物を頼ります。だって、読みやすいし、わかりやすいし、何より信頼がおけます。




村男さんも岡さんも、尊敬できる大先輩ですが、戦前と現在とでは情報量に圧倒的な差があり、今の基準でみると、二人の史料の精査は全く足りていません。当時の印刷技術の事情もあるでしょうが、年号のズレや漢字の誤記も少なくないので、その都度、江戸時代の史料とのつき合わせが必要となります。それでも、活字は流し読みができるので、崩し字解読が苦手な身には助かりました。



あらためて引用部分にもどります。
注目すべきは「豊前大里浜に於いて暴死す」。


え!

おだやかでない響きですが、どういうこと?
江戸時代の系譜や、その他の文書類を確認しても、よくわかりません。


安心してください。辞書にちゃんと記されていました。

【暴死】  ぼう‐し
にわかに死ぬこと。急に死ぬこと。頓死。

広辞苑・大辞泉・ 日本国語大辞典 の記述を集約  


な~んだ、あっさり解決です。

貞則の「急死」を村男さんが劇的にあらわしただけでした。当時の貞則の近臣たちの気持ちを慮ると、「暴死」という表現がマッチしているように感じます。


結局のところ、前回で周知の事案「死体の偽装」と「公文書偽造」、これ以外のことはどこにも書かれていません。懸念もなにもなかったのです。

ちなみに、貞則の事案の約90年後には、より大きな事案「藩主すり替え」があるのですが、それはまた別のおはなし。






実はいま、「立花貞則 大里」とWeb検索すると、貞則が暴漢におそわれて亡くなった風に説くサイトが上位にあがってきます。遺憾ながら、数も多いです。

※検索結果をご覧になるだけで、各サイトを訪れるのはご遠慮いただけますと嬉しいです。



前回と今回とで皆さまと共に見てきたように、これはまったくの空言です。
ただ、「暴死」にひっかかった身として、状況証拠から推測できる気がします。

長年、柳川の歴史を記述する図書や雑誌には、だいたい渡辺村男の著作が引用されてきました。「立花貞則が豊前大里浜で暴死」は、そのまま孫引き、ひ孫引きされていきます。その間に、どこかのだれかに魔が差したのでしょうか?

先のブログ「殿さんが騙された?大広間の瓦の疑惑」の事例と同じく、ここでも誰かが、貞則の死の隠蔽の理由を、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、幻想を作ってしまったのでしょう。
そして、”暴” “死” “浜”の組合せが、センセーショナルなイメージを掻き立てるような、しないような。





インターネットに漂う仇花、その発生の経緯は大変興味深いのですが、誰にとっても迷惑でしかありません。存在しないものを無いという証明は難しく、流れてくる全てを摘み取るのはとても面倒……

願わくば、世の人々が「立花貞則」をWeb検索したときに、このブログのタイトルが上位あがってきますように。



参考文献
渡辺村男著 柳川山門三池教育会編 『旧柳川藩志』1957 福岡県柳川・山門・三池教育会 、柳川市史編集委員会 編 『新柳川名勝図絵 』2002.9.30 柳川市( 「渡辺村男と柳河史談会」123-126頁、「対山館文庫」138・9頁、「立花家の歴史編さん」143・4頁)

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6代藩主 立花貞則、生者のまねして柳川城に入る

2023/5/3

立花家史料館の学芸員として思うところがありましたので、あらためて柳川藩6代藩主・立花貞則の生涯を、皆さまと共に史料でたどってみます。



まずは、江戸幕府が編纂して文化9年(1812)にまとめた、大名旗本諸家の家譜集成 『寛政重修諸家譜』 から。柳川藩主立花家の項目は、8代鑑寿(~1820)の長女誕生までが記されています。



貞則 〔引用者註:父は柳川藩5代藩主 貞俶〕

虎吉 虎之進 丹後守 伯耆守 飛騨守 従五位下 従四位下

母は上〔柴田氏〕 におなじ。嫡母のやしなひとなる。

享保十年〔1725〕柳河に生る。

元文四年〔1739〕八月十五日 はじめて有徳院(吉宗)に拝謁す。時に十五歳 五年〔1740〕十二月二十一日 従五位下丹後守に叙任し、寛保二年〔1742〕六月五日 伯耆守にあらため、延享元年〔1744〕七月十三日 遺領を継、十九日 飛騨守にあらたむ。二年〔1745〕閏十二月十六日 従四位下に叙す。

三年〔1746〕四月十八日 はじめて城地にゆくのいとまをたまふ。七月二十七日 柳川にをいて卒す。年二十二。 廓融性瑩等覚院と号す。彼地の福厳寺に葬る。

『寛政重修諸家譜』 第1輯 巻百十二 立花 686頁(下記の書誌 354コマ目)

『寛政重脩諸家譜』第1輯,榮進舍出版部,1917.
国立国会図書館デジタルコレクション〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります*



貞則さんの20年ほどの経歴の、オフィシャルな記録です。
今回の注目ポイントを太字にしています。



オフィシャルがあればプライベートな記録もあります。

立花家に伝来したいくつかの系譜から、立花家の祖となる大友能直から11代藩主鑑備までを書きあげた系譜「御内實御系譜下調」の、貞則の項をみてみます。この系譜は天保年間(1830~44)以降の記述がないので、その頃に成立したのでしょうか。

貞則 

享保十二年〔1727〕丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家〔柳川〕 ニ生ル 

(中略)*貞則の項の全文は本ブログ末に記載*

同年〔1746〕六月二十日 東都〔江戸〕ヲ発シテ封〔柳川〕ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜 ニ卒ス 行年二十一歳

嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月二十一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城 〔柳川城〕 ニ入ル 同二十三日 急ニ四箇所藤左衛門〔通久〕ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎ム 同二十六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香〔7代藩主 鑑通〕ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 二十七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日

同月二十九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名 等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク

「御内實御系譜下調」 当館蔵 柳川古文書館寄託  ※ここでは廿を二十と変換



あれれ~おかしいぞ~

そうです、1727→25と、オフィシャルな記録の生年が、2年早くなっています。

実は、武家当主の年齢詐称の事例は少なくありません。
江戸時代、大名や旗本の死は、お家の安泰を左右する大問題でした。トップが次代へ相続できなければ、家臣たちは職を失います。

幕府に届け出た実子や養子がないまま当主が亡くなると、家は断絶という武家相続の法がありました。1651年には、死の寸前(末期)でも、存命中に養子を願い出ればよしとする「急養子」(末期養子)が認められますが、当主が17歳以上50歳未満に限るという条件が付けられます。

当主が17歳になるまで、常にお家存続の危機にさらされ続けますが、回避するには年齢を詐称するしかないのです。貞則も4歳の時の届出で、2年多めに盛られました。


1744年に6代柳川藩主となった貞則は、年中行事ごとに江戸城へ登城する公務をこなしていましたが、1746年に藩主として初めて国元の柳川へ入るため(「初入部」)旅路につきます。

再び、オフィシャルな記録とプライベートな記録を見くらべてみましょう。



あれれ~おかしいぞ~

そうです、貞則が亡くなった場所と日にちが違います。
プライベートな記録の、詳細で複雑な描写を追ってみます。


6月20日 江戸を出発 発病 →だんだん病状が悪化
7月17日 豊前国大里の浜〔現在の福岡県北九州市門司区〕 にて亡くなる→養子がいないので隠蔽

7月21日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル
つまり、貞則の遺体を生きているように見せて柳川城に到着しました。

7月26日 弟・鑑通を養子とする届出をもった使者が柳川出発
7月27日 この日に貞則が亡くなったとして、死を公表



貞則の急死による無嗣断絶から逃れるために、死を隠蔽し、「遺骸を生者として入城」 させ、亡くなった日を10日遅らせて公表したのです。

後世からみると、「早めに養子の届出をしてれば」とか、「ここまでして10日だけ?もっと余裕もったら?」とか、言いたいところですが、結果として、無事に弟の鑑通への相続が認められ、柳川藩主立花家は存続できました。



貞則の例は、船上での死なので煽情的な経緯となりましたが、「末期養子」の都合上、届出は当主の存命中に限られるため、当主の死の隠蔽は珍しくはなかったようです。無嗣断絶の混乱を避けたいと、幕府も黙認していたように見受けられます。
したがって、立花家に限らず、どこの家でも、建前をオフィシャルに記録し、実情はプライベートな記録として手元に残していたのでしょう。



オフィシャルな記録に簡単にアクセスできても、プライベートな記録が秘されているなら、“歴史の真実”は隠蔽されつづけるのではないか?と思われた方、



安心してください。柳川古文書館があります。




柳川藩主立花家から立花家史料館へと伝来した、重要文化財「大友家文書」「立花家文書」をふくむ3万点以上もの貴重な古文書・古記録類は、柳川古文書館に寄託され、その管理のもとで調査研究が進められています。

そして今、この全史料をネット上で公開する計画が進行中!
近い将来、よりスムーズに柳川藩主立花家のプライベートな記録へアクセスできるようになります。

しかし、ネット上の公開を待たずとも、すでに刊行された書籍があります。

わたしの専門は美術工芸品なので、文字史料の扱いは得意ではありません。
今回は本題のため自力で苦心していますが、柳川市の市史編さん事業で刊行された書籍には、貞則のことも、もっと詳しく、わかりやすく書かれています。

系譜1点をそのまま紹介するのが精一杯のわたしとは違い、柳川古文書館の学芸員さんをはじめ、文字史料の専門家たちは、考えうるかぎり史料を集め、その真偽を丁寧に検討した上で、調査・研究を進められています。 市史編さんの刊行物 では、その成果が平易な文章で解説されているのです。





とくに、柳川藩主立花家に関連する刊行物は、ここからもご購入いただけます。




貞則のことは、「貞則の急逝」(柳川の歴史5『柳河藩の政治と社会』143-145頁)、「貞則と鑑通」(柳川市史別編『図説立花家記』72・73頁)を中心に読むだけで、長年の緻密な調査・研究の集大成をお手軽に享受できます。ブログ執筆中に抱いた私の疑問の回答も、すでに書いてありました。さすがエキスパート!



そして、ここまでが前段階……やっと本題にたどりつきました。

それでは次回、「6代藩主・立花貞則、豊前大里浜で暴死す」!!
長くなってますが、どうかお付き合いください。





「御内實御系譜下調」の貞則の項の全文はこちら。ご興味のある方はどうぞ。

※ 下記史料の内容に関しては誤りのないよう心がけましたが、入力に際して適切にWeb上で再現できない、あるいは原文の表記と異なる場合がありますのでご留意ください。
※割註〈 〉、引用者註[ ]

貞則
従四位下  丹後守 伯耆守 飛騨守 幼名 虎吉 虎之進
 母ハ立花弾正源貞晟ノ女。〈名於千〉
 実母ハ諒體院。〈柴田氏 名ハ於由井〉
享保十二年丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家ニ生ル 六月十六日 山王社ニ詣テ直チニ内城ノ二ノ丸ノ館ニ入ル
同十九年甲寅三月廿六日 立テ嫡子ト為ル〈九歳〉
同二十年乙卯正月元旦 広間ニ於テ諸士之礼ヲ受ク
元文三年戌午五月十七日 花畠之亭ニ移ル
同四年巳未三月三日 世子ト称ス 同月五日 柳河ヲ発シ四月四日 東都ニ至ル 吉弘五左衛門統倪傅ト為ル
同年八月十五日 始テ吉宗公ニ拝謁ス〈太刀馬代金縮緬ヲ献ス〉
殿中ニ於テ座席未ダ定ラナク時ニ朝老松平左近将監〔乗邑〕告テ曰 立花者世々良家也大廊下杉戸ノ内ニ座スベシト也〈時ニ年十三〉
同年九月九日 節句始テ登営ス
同年十一月十五日 始テ月次ノ御礼トシテ登営ス
同年十二月 朔日疱瘡ス
同五年庚申嘉定玄猪共ニ営ニ登ル
同年十二月廿一日 従四位下ニ叙シ丹後守ト改ム 同廿八日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金ヲ献ス〉
寛保元年辛酉六月廿六日 額ヲ隅シ袂ヲ短ス
同二年壬戌二月廿二日 加冠ス〈年十六〉
延享元年甲子五月廿五日 貞俶卒 同七月十三日 朝命ヲ受テ立ツ〈朝老 松平左近将監〔乗邑〕 邸ニ召シテ台命ヲ伝フ〉
是日飛騨守ト改ム〈時ニ年十八〉 同日廿八日 家督之御礼ト為シテ登営ス 〈太刀馬代金三枚綿三十把之献ス 蓋シ諸家家督之御礼ニ黄金三十枚綿三百把ヲ献ス 特例也頃者命ヲ下シテ之ヲ減ス以テ十分一ト為ス〉 是日国老二人御目見〈矢島采女 小野織部 各ゝ馬代銀一枚ヲ献ス〉 貞俶之遺物ヲ献セズ〈是ヨリ先命ヲ下シテ諸家遺什ヲ献ル者ヲ禁ゼラル故也〉
同二年乙丑閏十二月十六日 従四位下ニ叙ス〈年二十〉
同三年丙寅正月七日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金之献ス〉 同月十二日 問注所三右衛門康端ヲ京都ニ使シテ口宣及ヒ位記ヲ拝受ス

同年六月廿日 東都ヲ発シテ封ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜ニ卒ス 行年二十一歳 嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月廿一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル 同廿三日 急ニ四箇所藤左衛門ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎シム 同廿六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 廿七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日也
同月廿九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ于朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク

「御内實御系譜下調」 (柳立85) 当館蔵 柳川古文書館寄託  

参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、 大森映子「大名相続における年齢制限をめぐって」(『湘南国際女子短期大学紀要』8号 2001.2月 湘南国際女子短期大学、柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市、白石直樹『柳川の歴史5 柳河藩の政治と社会』2021.3.31 柳川市

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