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意外なところで再発見!立花宗茂の金色の鎧

2023/5/14

NHK大河ドラマ「どうする家康」にて、とても象徴的にあつかわれ、番組のアイコンともなっている金色の鎧、徳川家康所用「金陀美(金溜塗)具足」(静岡・久能山東照宮所蔵)【重要文化財】 。ドラマのなかでは、家康が今川義元から贈られていました。

え、この話の流れ、立花宗茂で見たことある!!

実は宗茂にも、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう”というエピソードがあります。しかし、残念ながら、宗茂の金色の鎧は現存していません。
そもそも、宗茂の金色の鎧を着ていたことは、最近まで研究者にも知られていませんでした。


現存する立花宗茂の甲冑は2領「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。どちらも立花家史料館が所蔵しています。

ダークブラウンをベースにビビットな赤を差し色とし、それぞれの佩楯を金と銀にするという、派手さに走らないシックな装いです。
わたしは宗茂を、カラフルな色や金ピカさとは無縁のオシャレ上級者だと思っていました。



これらの甲冑について詳しく解説すると長くなりすぎるので、ご興味のある方は、このオンラインツアーにご参加いただけますと嬉しいです。

オンラインツアー「立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ~すべて魅せます!表も裏も細部まで~」(2023.6.2開催)では、「鉄皺革包月輪文最上胴具足」の内側や細部を植野館長が直接カメラで撮影しながら解説。付録ブックレット(B6版フルカラー 24頁)も大充実。他の武将の当世具足を鑑賞するときにも必携の書となるはずです。

◆販売中◆  解説本『立花宗茂の甲冑大解剖』(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足 ) 330円/解説本『立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ(鉄皺革包月輪文最上胴具足) 500円 (どちらも税込・送料別)  展示室では鑑賞しずらい裏面や細部の拡大写真とともに詳細な解説を掲載。 B6判 全16ページ オールカラー  ※まとめての購入は送料がオトクです





ところが、7年ほど前に、柳川藩士小野家の御子孫宅にて、大切に伝えられてきた 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)が再発見され、この認識がくつがえされます。

*リンク先のGoogleアートアンドカルチャーでは、この袖の金具の魚子地がわかるほど、画像を拡大できますので、ぜひご覧ください *

金白檀塗の7枚の横長板を、上から紫、紅、白、紫、紅、白と色を変えた毛引威でつなぎ、壺のような曲線で肩にフィットする形にした壺袖。 “金白檀塗”とは、金箔を貼った上に透明な漆をかぶせる技法です。ちなみに、金溜塗は、金泥を塗った上に透明な漆をかぶせるので、同じ金色でも発色が違います。
注目ポイントは、杏葉紋のついた金具です。



この袖が宗茂のものと比定できる要因の1つが、杏葉紋です。

大友氏が寄進したと伝わる「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮所蔵)【重要文化財】 や「大友の鎧(色々威腹巻)」(長崎・松浦史料博物館所蔵)など、宗茂の主筋であった大友氏ゆかりの甲冑との関連を感じさせます。

すべては、この動画を150秒見るだけで分かります

ご覧いただけましたでしょうか?



つまり、宗茂の金の鎧は、主の大友義統(1558‐1605)から下賜された可能性が高いのです。
まさに、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう” です。



まことに残念ですが、小野家伝来の袖以外のパーツは失われているので、宗茂の金の鎧の全体像は、想像するしかありません。

しかし、当時の鎧は、基本的に各部品のデザインをそろえていたため、同じ杏葉紋をつけた「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮蔵) を参考に、小野家伝来の袖のスタイルを他の部品にも反映させた、「金白檀塗色々威具足」復元イメージ図を、”立花宗茂生誕450年記念特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』“のために作成しました。

作画をお願いした大久保ヤマトさんが、いかにも宗茂が着ていそうな金の鎧のイメージ像を、考証に忠実に、とても緻密に描いてくださってます。

「金白檀塗色々威具足」復元イメージ  
大久保ヤマト氏作画


わぁ、格好いい!

白檀塗によるキラびやかな金色とカラフルな威糸は、現存する宗茂の甲冑の配色とは対照的で、これまで誰も想像しなかった宗茂の若武者姿になりました。


白檀塗の明るく透明感のあるゴールドに、毛引威の威糸が前面に出ていて、華やかで上品です。さすが、オシャレ上級者!

威糸の紫、紅、白の3色の組合せもステキ。ケーキにしても、すごく映えます。





先日、浜松まつりでパレードする、金の鎧を着た松潤殿をTVで拝見しました。
とてもとてもウラヤマシイ……

立花宗茂と誾千代がNHK大河ドラマになった暁には、出演者の方々に、ぜひ柳川で水上パレードしてほしいと心から願っております。
そのときは、当館所蔵のオシャレ甲冑も捨てがたいですが、やはり光り輝く金の鎧の方が映えるかなという思いのまま、ここまで書きあげてきました。






それでは、皆さまの疑問にお答えします。
なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、家臣の小野家に伝来したのでしょうか?






*立花家史料館は、大久保ヤマトさんに、本当にさまざまなイラストを描いていただいてます。それぞれのイラストの詳しいお話を、是非こちらでご覧ください *

参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、「しずおか文化財ナビ 金溜塗具足」(静岡県HP)久能山東照宮(静岡県)柳川古文書館(福岡県)柞原八幡宮(大分県) 松浦史料博物館(長崎県)

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。




最近は床の間のない住宅が主流になりつつあります。
床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も多くはありません。
床の間になじみのない方に、テキストだけで説明するのは難しすぎるのだけれど、どうしよう……


そんなときは新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。
立花伯爵邸内のGoogle撮影に立ち会ったのに、すっかり忘れていました。
画像の拡大も、360°回転も可能です。


さっそく、立花伯爵邸「大広間」東床を、のぞいてみましょう!

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にうってつけのメディアです。
東床と西床とが並べられ、間違い探しも楽しめます。




立花伯爵邸「御居間」棟にも「床の間」があるので、この機会に並べてみましょう!

現在「御居間」は柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用され、通常の有料見学範囲には含まれておりませんのでご注意ください



最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

左上に見える欄間の意匠は「帆の丸祇園守紋」。立花家の家紋「祇園守紋」のバリエーションの1つです。

*薄字の解説はご自由に読み飛ばしてください*

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。



ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。



隣は寛治の書斎であった「鈴の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

右をのぞくと見える欄間の意匠は「崩し祇園守り紋」。これも立花家の家紋のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。




「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。
伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左上に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



寛治の三番目の妻・鍈子(明治31年結婚)の居間が「花の間」です。
伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左をのぞくと見える欄間の意匠は梅、やわらかく洒落た雰囲気になっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



なんということでしょう!
各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。

さらに、視点を変えられて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

「御居間」の「床の間」を並べると、当主をトップとするヒエラルキーが見えてきます。
柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅だからこそでしょうか?

よそのおうちの「床の間」がとても気になる……
それに、数多くの作例を見るほど、「床の間」を “見る目” も養われていくはずです。


今回は、明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準作とし、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、《オンラインツアー「床の間」拝見》にGO!!



まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビューもオススメです*

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。
さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。かわりに襖に趣向が凝らされ、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。



床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格が下げられています。
ちなみに、紙貼り付け壁ですが、「四分一」はつけられていません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱は鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。 伯爵家から傳右エ門 嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1.5間の畳床、床柱は赤松の面皮柱筍面付、床框は三色黒漆塗の面皮塗残し、丸竹の落掛け。床脇は欅玉杢の一枚地板に亀甲組の天井が見えます。





次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

全体に伝統的な和風意匠を用いた住宅建築……大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。

文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』) より引用

贅を尽くした旧毛利家本邸では、 誰もが豪華さに圧倒されるでしょう。
さらに、”11万石外様” “伯爵”というウチ (立花伯爵邸) を基準としながら見ると、”薩長土肥” “公爵” という風格がより明確に感じられるので、オススメです。

*事前に「立花伯爵邸」(立花家史料館)をご見学いただいておくと、「 旧毛利家本邸」(毛利博物館)を十二分に楽しめます。ぜひ先に「立花伯爵邸」へどうぞ。
見る順が逆だと、ウチがしょぼく見えてしまうかもしれませんが、ウチには”西洋館”があるので大丈夫です *



わたしのイチオシの「旧毛利家本邸」の「本館客室(一階大広間)」をのぞきましたが、絶妙な画角での撮影で「床の間」を拝見することができませんでした。 惜しい!
とてもゴージャスなので、ぜひとも現地でご覧ください。





最後は、洋館と和館を併設した住宅というつながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名です。

今回は「大広間(和館)」をのぞいてみます。
床柱は正角、おそらく杉の四方柾でしょうか。この部屋の格の高さがわかります。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。
*勉強不足のため、この「床の間」の形式は、今後の課題です。畳床の畳を特注せず、縦に畳を使っている点が、とても合理的に思えます*




このオンラインツアー、とても楽しいです。
結論は、「みんなちがって、みんないい」



参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸HP(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、『飯塚市指定有形文化財 旧伊藤伝右衛門邸修復工事報告書』2007.3.31 飯塚市、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花家家紋マグネットでとめてみよう

2019/5/30

立花家史料館では現在

立花家史料館友の会・公益財団法人立花財団賛助会 会員特典イベント
「旧柳川藩主・立花家のお盆」を特別体験

の参加申込みを受け付けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年7月13日から15日まで行う立花家のプライベートなお盆行事を
特別に体験しようという企画です。

 

立花家ではお盆に、先祖の霊に加えて
柳川藩戦没者(桃山時代~戊辰戦争の頃まで)の霊もお迎えして供養します。
黄檗宗ならでは、筑後地方ならでは、そして立花家ならではの行事が続く3日間。
そのうちの最終日をみなさんに体験していただきます。

立花家、さらには菩提寺である福厳寺さんのご協力を得て実現した、希有な機会です。
次に開催できるとしても、だいぶ先のこととなりますので
興味のある方は、ぜひ今年ご参加ください。

 

ちなみに数年前のお盆の様子はこちらのブログでご覧ください。

2011年 立花家のお盆(お迎え編)
2011年 立花家のお盆(お送り編)
2015年 立花家のお盆2015

 

さて、今回のイベントでは参加特典をいくつかご用意いたしました。

そのうちのひとつが特製「立花家家紋マグネット」です。

立花家で使われてきた祇園守紋にはいくつかパターンがあります。
それらに宗茂が使っていた杏葉紋を加えた全6種を
カラフルで楽しいマグネットにしてみました。

立花家の家紋たちが、みなさまの生活を華やかに彩ってくれることでしょう。

 

 

 

 

 

 

祇園守紋のパターンについては、7月24日の立花家史料館文化講座
当館館長が詳しくお話しします。
こちらもどうぞお楽しみに。

 

マグネットの大きさはタテ48mm×ヨコ50mm。
実は他の特典と組み合わせて使うことを想定して作ったマグネットですが
せっかくなので、いろんなものをとめてみましょう。

A4サイズの「立花家史料館展示スケジュール」をとめると、こうなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして目につく場所に貼っておけば
いま立花家史料館では何の展示をしているかが
いつでもすぐにわかります。

 

立花宗茂好きな方は
宗茂の絵を描いて、杏葉紋マグネットでペタンととめましょう。

正しい組み合わせ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗茂と高橋紹運の親子が好きな方へのおすすめ使い方はこちら。

胸熱な組み合わせ(とめられたものが)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

刀剣ポストカードも
こうしておけばいつでも眺めることができます。

雷切丸ポストカード(100円)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この場合、貼る用と保管用に2枚買っておくことをおすすめします。

 

いつでも近くに立花家を感じられる特製「立花家家紋マグネット」が手に入るのは
立花家のお盆を特別体験」のときだけです。
お申し込み受付は、6月30日まで。
まだ会員でない方は、同時入会も受け付けています。

 

なお、こちらの家紋マグネットは
印刷から裁断、包装まですべてスタッフが手作業しています。
丁寧な作業を心がけていますが
もしかしたら、あれ?というところもあるかもしれません。
その場合は、手作りのあたたかみだと思って
やさしい気持ちでお使いいただければ幸いです。

 

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今日は何の日

2014/10/1

本日10月1日は、コーヒーの日。

では立花家史料館所蔵品の中から、コーヒーにまつわるこちらをご覧いただきましょう。

 

染付藤文コーヒーカップ・ソーサー

染付藤文コーヒーカップ・ソーサー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このコーヒーカップとソーサーは、西洋館竣工の明治43年にあわせて注文された
染付藤文ディナーセットの中のひとつ。香蘭社製です。

写真ではわかりにくいですが、縁文様の藤の花が一ヶ所だけ崩れていると見せかけて
実は祗園守紋を巧みに組み合わせています。おしゃれです。

秋のテーマ展「お茶をたしなみ お香をたのしむ」(開催中~12月21日)では
一連のディナーセットの中からティーカップを展示していますので
藤と家紋のおしゃれな組み合わせを、ぜひ間近でお楽しみください。

 

 

ちなみに明日は豆腐の日だそうです。

立花家のレシピより

立花家のレシピより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おいしそう。

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三池の御前山二山競演に圧倒される

2011/7/25

7月24日に三池において御前山二山競演(三池の大蛇山)がありました。

大牟田市には柳川藩と三池藩の藩境が通っており
大字三池(本町)は柳川藩領、大字新町は三池藩領でした。
本町の山車は、その昔柳川藩主から贈られたと伝えられるものだと聞き
「それは見にいかねば!」と、馳せ参じた次第です。

20110725_01

山を待つ若人たち。地域に根付いた祭りなんだと感じます。
背中の祇園守りについつい親近感。

20110725_02

もうもうと煙を吐きながら、本町の大蛇山がやってきました。
こちらは雄だそうです。

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続いて向かい側からやってきたのは新町の大蛇山。
こちらは雌です。
こうして、雄大蛇と雌大蛇の年に一度の逢瀬が始まります。

さてさて、柳川藩主から贈られた山車とはどんなものでしょう?

20110725_03

おお!祇園守発見!これは3〜5代藩主の祇園守っぽいかな。
では新町の山車はいかに?

20110725_05

こちらには三池藩の祇園守と杏葉がありました。
渋さの中に歴史を感じます。

20110725_06

翻って本町の山車を後ろから見るの図。
色とりどりで美しい装飾です。
ん?上と下で祇園守の種類が違うぞ?
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、
真ん中の結び目があるかとか全体的なかたちとかの違いです。

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そんな疑問はさておき、山車の中をのぞいてみると
大蛇の腹らしきものが見えました。

そうこうしているうちに祭りの進行し
本町・新町それぞれのこどもたちによる祇園楽の演奏の後
花火の競演が始まります。

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わっしょい部長のホラ貝の音と共に花火がぱちぱち、煙がもうもう。
あたりは真っ白になりました。

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そして、お待ちかねの「かませ」です。
無病息災を祈って、小さな子供達が大蛇の口の中にあーんとされます。
最近の子供は小さな頃から大蛇山を見慣れているので、意外と泣かないそうです。

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そして祭りも終盤、雄大蛇と雌大蛇が尻尾を打ち合います。
「ほらほら交尾だよ」と保存会のおじさんがにやにやしながら教えてくださいました。
はい、知ってます。
二本の尻尾の下に見えるのは、これまでに誕生したお子様大蛇の内の一匹です。
さきほどの花火の間は走り回っていました。

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尻尾の打ち合いが終わると、新町の大蛇は一気に方向転換をします。

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そして、雌大蛇はまた煙を吐きながら新町に帰っていきました。
こうして一年に一度の逢瀬は幕を閉じましたとさ。
雄大蛇(右)が心なしか寂しそう。

二山競演の間、事故の無いようにと、常に山車の上で見守る男衆がいました。

20110725_10

みなさんに守られて、三池の大蛇山祭りはこれからも続いていきます。
貴重なものを間近で見せていただきました。
三池のみなさん、大牟田青年会議所のみなさん、ありがとうございました。

ところで、柳川藩から贈られた山車については
記録が残っていないため詳細がわかりません。
何かご存じの方いらっしゃいませんか。

☆おまけ☆
あちらとこちらの大蛇にかまれる専務

20110725_11

20110725_15

大蛇山は見慣れていませんが、泣きませんでした。

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特別展のみどころ―宗茂の家紋―

2010/11/2

宗茂の軍扇にあらわされた杏葉紋

宗茂の軍扇にあらわされた杏葉紋

立花家の御定紋といえば「祇園守紋(ぎおんまもりもん)」ですが、初代藩主立花宗茂が使用していた家紋は何かご存知でしょうか?
答えは「杏葉紋(ぎょうようもん)」です。
この杏葉紋は豊後大友家の家紋であり、立花家は名門大友家より杏葉紋の家紋を使用することが許された「同紋衆」でした。
宗茂も元は大友家に仕える武将であり、秀吉によって柳川に領地を与えられ大友家から独立した後も、この杏葉紋を家紋として使い続けていました。
その後、立花家は祇園守紋を家紋として用いるようになりますが、杏葉紋を使わなくなったわけではなく、時に両者を併用することもありました。

立花家に代々伝来する軍旗(複製?)にあらわされた杏葉紋

立花家に代々伝来する軍旗(複製?)にあらわされた杏葉紋

同じ杏葉紋といっても宗茂以前に立花家で用いられていたと思われる杏葉紋と、宗茂の所用品にあらわされた杏葉紋、そして2代藩主忠茂以降に用いられた杏葉紋では、かたちが違うようです。
今回の特別展では、たくさんの武具や調度を展示する予定ですが、その中には様々な家紋のかたちを見ることができます。
その家紋のかたちをよく見ていくと、道具の所用者や時代により、少しずつ違いがあることが分かります。
本当に微妙な違いのものもありますので、よく見比べないと分かりませんが、そのかたちの変化が一体何を物語っているのか、興味はつきません。
ちなみに、右上の写真が宗茂の使用した杏葉紋、右下がおそらく宗茂以前に用いられていたと思われる杏葉紋です。
こうして並べてみると、違いが一目瞭然です。
皆さまも特別展にお越しになった際は、是非家紋のかたちに注目してみてください。何か新たな発見があるかもしれません。

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