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必見!激アツ怪異譚!「芸州武太夫物語絵巻」【ネタバレ配慮】

2023/9/1

柳川藩主立花家に伝来した「芸州武太夫物語絵巻」は、全3巻の長さを合わせると、およそ34.5メートルにおよびます。

「芸州武太夫物語絵巻」 江戸時代後期 立花家史料館所蔵

江戸時代に備後国三次(今の広島県三次市)に住んでいた稲生武太夫 イノウ ブダユウ(1734-1803) が、まだ平太郎という幼名を名乗っていた寛延2年(1749)7月に体験した、怪異現象が描かれた絵巻です。



こどもも大人も楽しめる展示のため、立花家に伝来した諸々の美術工芸品を物色していたところ、館長から「オバケの絵巻があるよ」と推薦されました。

描かれているのは、こんなオバケ。


え、超ワクワクするんですけど……


え、予想外の衝撃のラストを迎えるんですけど……



この面白さと驚きを、こどもたちにも体験してもらうには、どうすればよいでしょうか?


この絵巻は実録レポです。
旧暦の7月1日から1カ月、全30日間のできごとが描かれているからこそ、ラストの衝撃が際立つのですが、長い文章になると最後まで読んでもらえない可能性があります。

ちょっと、冒頭をみてみましょう。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵)の冒頭

「 彼の武太夫、化物に逢し起りは、十二三歳の頃よりして、勇気なる余りにや…… 」………………。



小学1年生を想定して、伝わりやすい表現に言いかえてみます。
主人公の名前は、「武太夫」より幼名の「平太郎」が良さそうです。

勇気なる余りにや、勇気いっぱい、勇気凜々……勇気りんりん
そうだ!
アンパンマンの絵本をイメージしつつ、絵巻の文章から逸脱しないよう苦心しながら翻案しました。


翻案したテキストを映像化したものが、こちらになります。

『へっちゃらへいたろう(稲生物怪録)』
You Tube「立花家史料館公式チャンネル」で全巻公開中

*英語の字幕も用意しています

絵巻は、畳に座った膝の前に置き、両手で開いて鑑賞します。
肩幅ほどの一場面を読み、読み終わったら巻き込んで、また肩幅ほどを開いて次の場面を読む、の繰り返しで読みすすめる、ひとりじめ形式の娯楽です。

立花家のお殿さまやお姫さまが、私的な空間でひそやかに楽しんでいた絵巻を、全世界に公開して、皆さまと一緒に楽しめる時代になりました。

時代をこえて伝えられた衝撃のラストを、ぜひネタバレ前にご堪能ください。





ここからはネタバレを含みます。





魔王・山本五郎左衛門が負けを認めた、平太郎の勇気。
オバケを倒すのではなく、怪異に惑わされない強さが評価される点が、とても興味深いです。

衝撃のラストで明らかになった、勇気ある16歳と根競べして100人に勝つと「魔王のなかの魔王」(原文では「魔王の頭」)になれるという奇妙なシステムや、86人目という絶妙な数字など、この物語は、民間伝承の怪異説話とは異なる風情があり、そこに時代を超えて通じる面白さを感じます。


平太郎がどんな怪異にも動じない様子は、物語の重要なポイントです。
小学1年生にもしっかり伝わる表現を模索しました。

平気、平気の平左、平気の平太郎……へっちゃら平太郎
響きもよく、強そうです。
もちろん、脳内BGMは「CHA-LA HEAD-CHA-LA」(アニメ「ドラゴンボールZ」主題歌)。
おかげでリズミカルな文章に仕上げられました。




しかし、いったい何故、広島在住の平太郎(16歳)の体験談が、福岡の柳川藩主立花家に伝来した絵巻に描かれているのでしょうか?



実は、「芸州武太夫物語」には、原典があります。



平太郎の体験談はいつしか評判となり、平太郎本人が書き留めたり、知人が平太郎から聞き書きしたりと、後年には文書に起こされたようです。
そして、求めに応じて、次々と写本がつくられていきました。

その過程で、絵本や絵巻にも仕立てられ、 怪異の内容や出現順に差異がある異類本も派生していき、さまざまな題名で流布したとみられています。

江戸時代の国学者・平田篤胤(1776-1843)は、平太郎の体験談に強い関心をもち、門人らと諸本の校合整理をすすめ、集成本をまとめさせました。

ちなみに平田篤胤は、国学者として大成する一方、霊界研究にも勤しみ、天狗の仙境で暮らしたという寅吉を取材した『仙境異聞』や、前世の記憶をもつ勝五郎を取材した『勝五郎再生記聞』を著しています。



近代になっても、平太郎の体験談は、いろいろな文芸作品、ときには講談のモチーフとなり、 忘れ去られることなく、多くの人々に愛好され続けました。



今年は平太郎の没後から220年、平太郎の体験談は ≪稲生物怪録≫ と総称され、超長寿人気コンテンツとしてマルチメディア展開がなされる一方、 ≪稲生物怪録≫ を対象とした多角的な研究も深められています。


そして2019年4月には、≪稲生物怪録≫ の聖地である広島県三次市に、湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)が開館しました。

湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)HP
博物館について > 《稲生物怪録》- 三次の妖怪物語 – より




当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」も、多種多様な≪稲生物怪録≫ のなかの一例です。



ほかの≪稲生物怪録≫ と比べて論じてみたいところですが、登場人物の名前表記に注目するだけでも数系統があり、とても複雑です。



例えば、上記映像の音声では、魔王・山本五郎左衛門の名前を「ヤマモト」と読んでいます。


実は、ほかの≪稲生物怪録≫では、「サンモト」とルビが書かれている例が多く、山本を「サンモト」と読むと魔王っぽさが強まる気がするので、わたしとしては「サンモト」と読んでほしかった……
ですが、当館の絵巻にはルビがないので、ほかの≪稲生物怪録≫ を知らない読み手ならそのまま「ヤマモト」と読む方が一般的です。


逆に、ライバルの真野悪五郎(原文では「真の」)には、わざわざ「まこと」とルビが振られ、原文のままだと「マコトノ」になりますが、 ほかの≪稲生物怪録≫ にならって「シンノ」と読んでいます。



さらに、主人公の名前も、原文は「武太夫」としか書かれていません。
ほかの≪稲生物怪録≫ に例があるので、「武太夫」に慣れ親しんでいたはずの立花家のお殿さまやお姫さまはには遠慮せず、幼名の「平太郎」をひっぱってきました。


※下の画像のピンク傍線箇所を参照。
オレンジ傍線箇所には「魔王」「魔王の頭」と実際に書かれているのでご確認ください。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵) の該当部分



まだまだ注目すべきポイントはあるのですが、諸本を比較検証して≪稲生物怪録≫ の成立を探るような研究は然るべき方々におまかせして、当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」を、絵巻という作品として見てみます。


この絵巻の第一印象は、大名家伝来品にしては質素だな、内容も期待できそうにないな、でした。


もともと、本紙に別紙1枚を裏打ちしただけのラフな表装ではありますが、繰り返し読まれたことを想像させるほど傷み、収納箱も失われてしまっています。
しかし、開いてみると、すっきりとした丁寧な文字に、上品な色彩で巧みに描かれた狩野派系の絵が添えられた、大名家にふさわしい上作で驚きました。


こちらで1巻目の前半を公開しています





ほかの≪稲生物怪録≫とくらべると、怪異現象だけを記述する系統になり、シンプルで分かりやすい文章で語られています。



しかし残念ながら、文字も絵も、作者名は記されていません。

巻末は、「武太夫が直接話したことを詳しく書きました」とあっさり終わり、立花家が絵巻を入手した経路も分かりません。



いまのところ、平太郎が仕えた広島藩主浅野家と婚姻を結んだ際に入手した可能性、もしくは、柳川藩士・西原晁樹が平田篤胤門下であったので、その縁で立花家に納められた可能性を考えていますが、どちらも裏付けはありません。




同じく浅野家と婚姻関係がある尾張徳川家にも、江戸時代に描かれた筆者不明の「武太夫物語絵巻」3巻(徳川美術館所蔵)が伝来しているようですが、文章に差違がみられます。

徳川美術館HP
企画展「怪々奇々―鬼・妖怪・化け物…―」(2020.7.18~2020.9.13開催) より



現時点の2例だけでは、検証も不十分です。
「うちにも≪稲生物怪録≫ の絵巻あるよ」という大名家関係者の方、いらっしゃいましたら是非ご教示ください。




難しいことはさておき、 柳川藩主立花家伝来の「芸州武太夫物語絵巻」に描かれたオバケたちは、どれもとてもカワイイ。
これだけは自信をもって断言できます 。




立花家史料館の総力をあげて作成した特製おばけカード。
自慢の逸品なので、ぜひとも見ていただきたい!



平太郎のHは、ヒーローのH。



参考文献
杉本好伸 編『稲生物怪録絵巻集成』2004.7.1 国書刊行会 、『改訂版 妖怪いま蘇る-《稲生物怪録》の研究-』20133.3.29 三次市教育委員会、杉本好伸 「 《稲生物怪録》資料紹介 徳川美術館所蔵『武太夫物語絵巻』について」(広島近世文学研究会編集『鯉城往来 17号 』2014.12.30 広島大学文学部)

*** ココまで知ればサラに面白い ***
学芸員として人前で作品解説をする際、ココまで知ればサラに面白くなるけれどと思いながらも、時間等の都合でフカボリせずに終わらせることは少なくありません。そんな、なかなかお伝えする機会のないココサラ話をお届けします。

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大河ドラマ「立花宗茂」でぜひ見たい!家臣との絆のエピソード

2023/6/2

なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、小野家で伝えられてきたのでしょうか?




以前ご紹介した我らの大先輩、渡辺村男さんは、このように書いています。

※あとで解説しますので、読み飛ばしてかまいません。
 臨場感あふれる描写を、わたしだけが楽しむのは勿体ないので長めに引用しました。




小野成幸 小伝 

(中略)碧蹄館の役先鋒隊長の一人たり。午前の戦争中勇猛を振ひ敵を斬る事多し。時に 成幸 両袖あれば敵を斬るに邪魔となるを以て、之を切り捨てゝ奮戦せり。

宗茂 休息中 成幸 を招き 其奮闘抜群を賞す。且つ曰 鎧の袖なきは甚だ見苦しき也。故に軽き袖を与るを以て之を著けよ。又敵将の持ちたる団扇を与へて曰、之を以て部下を指揮せよと。成幸感泣して曰 之を以て功を建て其恩に報せんと。

正午の激戦 成幸 金甲の先鋒隊を率ゐ敵の本陣に突貫す。時に宗茂の隊は常に中堅を砕き直進し、其左右と後方とは浮田[引用註:宇喜多]小早川等の軍に委ね咸な殊死驀進す。其状恰も疾風の秋葉を払ふが如し。狼狽せる敵中一将あり、成幸 馬を躍らして之に薄る、遂に重囲に陥り戦死す。

其後 其子孫 唐団扇を以て家紋となし、又宗茂より賜ひし鎧の両袖は今尚之を保存すと云。(後略)

※表記は原文のままですが、漢字の旧字体だけは新字体に変換しています
渡辺村男 『碧蹄館大戦記 』大正11年(1922)民友社  246・247頁(下記の書誌163コマ目)

渡辺村男 著『碧蹄館大戦記』,渡辺村男,大正11.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕


小野成幸は、文禄元年(1592)に宗茂とともに朝鮮に渡った、2千5百の立花軍の一員でした。
翌2年(1593)1月、朝鮮漢城〔現在の韓国ソウル〕北方の碧蹄館における明軍との激戦の中で、成幸は動きの邪魔となった両袖を切り捨てます。

袖とは、両肩につける、鎧の一部品です。
甲冑の袖は、古くは矢を防ぐ盾となるように大型でしたが、火縄銃が主戦力となる16世紀末頃からは、動きやすさが重視されたのか、次第に小型化していきます。成幸も袖は無用だと思ったのかもしれません。

しかし、袖のない成幸を見た宗茂は、見苦しいからと、自分の鎧の軽い袖を与えて、着けさせます。

当時の鎧は、基本的に頭、胴、腕、股、臑を守る部品のデザインをそろえ、一式として着用するものでした。他は自分の鎧のまま、宗茂の袖をつけた成幸は、ちぐはぐに見えたはずです。

それでも、成幸にとって、 主君の袖は大きな誉れでありました。それに報いんと先鋒隊を率いて奮戦し、残念ながら戦死を遂げます。


この話の袖こそが、小野家に伝来した 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵) ではないかと考えられるのです。



なんとドラマティック!!
とても宗茂らしいエピソードだと、わたしは勝手に思っています。

忠義な家臣との絆を感じます。
そして、平和な儀礼の場ではない、厳しい戦いの合間に、袖を邪魔だと言う家臣に、見た目が悪いという理由で袖を与える、宗茂の空気の読めない大らかさがステキです。

刀や鑓ではなく、身に着ける防具をやりとりするなんて……
NHK大河ドラマ「立花宗茂」が実現したら、絶対にこのシーンは見たい!






主君の宗茂から拝領した袖に、 さらに主筋の大友家の家紋「杏葉紋」の金具が付いていたとしたら、成幸や小野家にとって、非常に大きな誉れであったと想像されます。だからこそ、本人の死後に異国の地から持ち帰られ、大切に伝えられてきたのでしょう。

「金白檀塗色々威壺袖」と「杏葉紋」については
この動画を150秒ご覧ください



実際、ともに小野家に伝来した具足の他の部分柳川古文書館所蔵)と、袖とを見比べても、全くスタイルが異なるため、袖だけを宗茂から拝領した話にも頷けます。さらに、唐団扇紋のついた指物も、具足と同じ櫃に納められて伝来しているのです。



袖のやりとりは本当にあったんだ! 村男さんは嘘つきじゃなかった!

わたしたちは、その場で見ていたかのように描写しながらも、引用元を明かさない村男さんの話を、話半分か四分の一に聞いていたので、2016年秋の”袖の再発見” は、とても嬉しい驚きでした。

喜びのあまり、おむかいの黒田屋菓子舗さんで、特注の袖ケーキまで作ってもらっちゃいました。

※とても素晴らしく、美味しかったケーキなので再掲しました。


村男さんが調査した100年前は、今では失われてしまった史料も残存していたのでしょうか?
小野家伝来の袖の存在も、宗茂と成幸のやりとりも、当時の柳川ではよく知られていたのかもしれません。

しかしながら、近代から現代にいたる間に、袖の話はいつしか忘れ去られてしまっていたのです。


実は、この袖のやりとりは、江戸時代の武具類の台帳に記録されていました。
逆に言えば、村男さんの著作以外では、武具類の台帳でしか確認できません。

現在確認できる、最も古い記録はこちらです。
武具類の台帳なので、前後のやりとり等は省略され、いたってシンプルです。

一、 御鎧  壱領
立斎様朝鮮御陣中御召 負箱ニ〆外箱入 
右者文禄年中於朝鮮御陣中 御袖小野喜八郎江被為拝領候 其後同御陣中ニ而御袖小田部新助進上仕 唯今之御袖ニ御座候

「御道具改御帳」(柳河藩政史料1011-2)  安永7年(1778) 柳川古文書館所蔵

朝鮮御陣中において、御袖を小野喜八郎へ拝領せられる。其の後、同御陣中にて、御袖を小田部新助が進上つかまつる。 唯今の御袖がそれである 。



ドラマティックさは全くなく、袖のやりとりが追加されました。



贈る方を白、贈られる方を黒にして図解すると、こうです。

小野成幸 ●←拝領―○ 立花宗茂 ■←進上―□ 小田部統房


小野喜八郎は小野成幸〔小野和泉守鎮幸の従兄弟〕のこと、小田部新助は小田部統房〔立花宗茂の姉妹の夫〕だと考えられます。
どちらも天正10年(1582)頃には戸次道雪の近臣として名前が確認でき、宗茂とともに朝鮮に渡っています。

■もっと知りたい方のために■
・小野成幸
白石直樹「新市史抄片150 宗茂の養子入りと戸次家家臣」(柳川市HP「広報やながわ」2017.12.1号)※リンクが繋がらない場合はタイトルで検索してください。
・小田部統房
堀本一繁「No.336 戦国時代の博多展8-安楽平城をめぐる攻防」(福岡市博物館HP > アーカイブズ > 企画展示
「小田部新介小伝(中略)碧蹄館役常に宗茂の左右に侍り作戦計画に参加せり(後略)」( 渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社)

●の袖は小野家に伝来した「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)。
となると、■の袖は立花家に伝来しているはずです。



伝来していました。
2010年の調査で、小田部家の家紋がつく大袖が、立花家に伝来してきたことが再発見されました。小野家の袖が再発見される6年前です。

黒漆塗本小札藍韋威大袖 立花家史料館所蔵


大名道具をあつかう史料館の学芸員にとって一番の醍醐味は、伝来してきたモノ史料と文字史料の相乗効果により、新たな知見が得られることです。

この袖のやりとりは、その最たる例だといえます。

小野家拝領の袖、小田部家進上の袖、わずかな文字史料をあわせると、村男さんのドラマティックさを超える、史実のファンタスティックさが見えてきます。
だからこそ、わたしはこのエピソードを映像化してほしいと願うのです。


それでは、皆さまの疑問にお答えします。
ドラマティックさを超えるファンタスティックさって、どういうこと?




※次回こそなるべく早くアップしますので、お待ちください。

参考文献
渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社、柳川市史編集委員会 編『柳河藩立花家分限帳(柳川歴史資料集成 第3集)』1998.3.20 柳川市

◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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意外なところで再発見!立花宗茂の金色の鎧

2023/5/14

NHK大河ドラマ「どうする家康」にて、とても象徴的にあつかわれ、番組のアイコンともなっている金色の鎧、徳川家康所用「金陀美(金溜塗)具足」(静岡・久能山東照宮所蔵)【重要文化財】 。ドラマのなかでは、家康が今川義元から贈られていました。

え、この話の流れ、立花宗茂で見たことある!!

実は宗茂にも、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう”というエピソードがあります。しかし、残念ながら、宗茂の金色の鎧は現存していません。
そもそも、宗茂の金色の鎧を着ていたことは、最近まで研究者にも知られていませんでした。


現存する立花宗茂の甲冑は2領「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。どちらも立花家史料館が所蔵しています。

ダークブラウンをベースにビビットな赤を差し色とし、それぞれの佩楯を金と銀にするという、派手さに走らないシックな装いです。
わたしは宗茂を、カラフルな色や金ピカさとは無縁のオシャレ上級者だと思っていました。



これらの甲冑について詳しく解説すると長くなりすぎるので、ご興味のある方は、このオンラインツアーにご参加いただけますと嬉しいです。

オンラインツアー「立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ~すべて魅せます!表も裏も細部まで~」(2023.6.2開催)では、「鉄皺革包月輪文最上胴具足」の内側や細部を植野館長が直接カメラで撮影しながら解説。付録ブックレット(B6版フルカラー 24頁)も大充実。他の武将の当世具足を鑑賞するときにも必携の書となるはずです。

◆販売中◆  解説本『立花宗茂の甲冑大解剖』(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足 ) 330円/解説本『立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ(鉄皺革包月輪文最上胴具足) 500円 (どちらも税込・送料別)  展示室では鑑賞しずらい裏面や細部の拡大写真とともに詳細な解説を掲載。 B6判 全16ページ オールカラー  ※まとめての購入は送料がオトクです





ところが、7年ほど前に、柳川藩士小野家の御子孫宅にて、大切に伝えられてきた 「金白檀塗色々威壺袖」柳川古文書館所蔵)が再発見され、この認識がくつがえされます。

*リンク先のGoogleアートアンドカルチャーでは、この袖の金具の魚子地がわかるほど、画像を拡大できますので、ぜひご覧ください *

金白檀塗の7枚の横長板を、上から紫、紅、白、紫、紅、白と色を変えた毛引威でつなぎ、壺のような曲線で肩にフィットする形にした壺袖。 “金白檀塗”とは、金箔を貼った上に透明な漆をかぶせる技法です。ちなみに、金溜塗は、金泥を塗った上に透明な漆をかぶせるので、同じ金色でも発色が違います。
注目ポイントは、杏葉紋のついた金具です。



この袖が宗茂のものと比定できる要因の1つが、杏葉紋です。

大友氏が寄進したと伝わる「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮所蔵)【重要文化財】 や「大友の鎧(色々威腹巻)」(長崎・松浦史料博物館所蔵)など、宗茂の主筋であった大友氏ゆかりの甲冑との関連を感じさせます。

すべては、この動画を150秒見るだけで分かります

ご覧いただけましたでしょうか?



つまり、宗茂の金の鎧は、主の大友義統(1558‐1605)から下賜された可能性が高いのです。
まさに、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう” です。



まことに残念ですが、小野家伝来の袖以外のパーツは失われているので、宗茂の金の鎧の全体像は、想像するしかありません。

しかし、当時の鎧は、基本的に各部品のデザインをそろえていたため、同じ杏葉紋をつけた「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮蔵) を参考に、小野家伝来の袖のスタイルを他の部品にも反映させた、「金白檀塗色々威具足」復元イメージ図を、”立花宗茂生誕450年記念特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』“のために作成しました。

作画をお願いした大久保ヤマトさんが、いかにも宗茂が着ていそうな金の鎧のイメージ像を、考証に忠実に、とても緻密に描いてくださってます。

「金白檀塗色々威具足」復元イメージ  
大久保ヤマト氏作画


わぁ、格好いい!

白檀塗によるキラびやかな金色とカラフルな威糸は、現存する宗茂の甲冑の配色とは対照的で、これまで誰も想像しなかった宗茂の若武者姿になりました。


白檀塗の明るく透明感のあるゴールドに、毛引威の威糸が前面に出ていて、華やかで上品です。さすが、オシャレ上級者!

威糸の紫、紅、白の3色の組合せもステキ。ケーキにしても、すごく映えます。





先日、浜松まつりでパレードする、金の鎧を着た松潤殿をTVで拝見しました。
とてもとてもウラヤマシイ……

立花宗茂と誾千代がNHK大河ドラマになった暁には、出演者の方々に、ぜひ柳川で水上パレードしてほしいと心から願っております。
そのときは、当館所蔵のオシャレ甲冑も捨てがたいですが、やはり光り輝く金の鎧の方が映えるかなという思いのまま、ここまで書きあげてきました。






それでは、皆さまの疑問にお答えします。
なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、家臣の小野家に伝来したのでしょうか?






*立花家史料館は、大久保ヤマトさんに、本当にさまざまなイラストを描いていただいてます。それぞれのイラストの詳しいお話を、是非こちらでご覧ください *

参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、「しずおか文化財ナビ 金溜塗具足」(静岡県HP)久能山東照宮(静岡県)柳川古文書館(福岡県)柞原八幡宮(大分県) 松浦史料博物館(長崎県)

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インタビューはじめました

2022/2/25

 

今年の1月から、YouTube立花家史料館公式チャンネルで新しい企画を始めました。

 

立花家史料館インタビューシリーズ

 

立花家に関わる様々な人たちへ、当館の館長がインタビューを行うシリーズ企画です。

このシリーズは3つのパートにわかれています。

■柳川藩主立花家 18代目の人々

 

 

 

 

 

立花家の18代目にあたる人々に、これまでの生い立ちや思い出、立花家のこれからについて思うことなどを聞く

 

■柳川藩主立花家のスペシャリストたち

 

 

 

 

 

立花家の資料に関わってきた研究者、職人に、これまでの仕事についてや、立花家の歴史資料の特徴などを聞く

 

■柳川藩主立花家をいろどる人々

仕事関係の人や近隣の人などといった、立花家とあらゆる形で関わりのあった人々、その当時の立花家の様子や出来事などを聞く

 

ただいまのところ
「柳川藩主立花家 18代目の人々」第1回 立花千月香さん(柳川藩主立花邸 御花 代表)と
「柳川藩主立花家のスペシャリストたち」第1回 江島香さん(柳川古文書館 館長)の
2回を公開しました。

 

インタビュー企画は、月に1回程度、生配信でみなさまにお届けします。
アーカイブか、もしくは多少編集したものを必ず公開しますので
生配信を見られない方もどうぞご安心を。

 

必要な機材類は文化庁の補助金で揃え、史料館スタッフのみで配信しています。

 

 

 

 

 

年が明けるまでは機材を触ったこともなかったまったくの素人が、なんとかかんとか配信してますので、つたない点も多々ありますが、しばらくは温かい目で見守ってください。
数を重ねていけば、少しは上達していくと思われます。

 

 

 

 

 

 

インタビュー企画の目的は、立花家について多くのみなさまに知っていただくということももちろんありますが、さらに別のねらいもあります。
それは、現在の立花家をとりまく状況、立花家の人々や研究者の思いなどを映像記録として残しておくことです。

文字や写真で知っている人物が、実際に動いてしゃべる映像からは
より多くの情報を得たり、その人を身近に感じたりすることができます。

伝わってきた歴史資料を未来へ伝えていくことと同じように
「いま」を未来へ残すことも、私たちの大切な仕事のひとつなのです。

 

今後なるべく多くの人々にお話しを聞けるように、現在いろいろ調整中ですので、どうぞおたのしみに。

ひとまず次回は3月の終わり頃に配信予定です。
初の出張生配信に、いまからどきどきです。

 

 

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立花家史料館はしばらくお休みです

2020/4/5

前回のブログでは「車でのおでかけは立花家史料館へ」などと言っておりましたが
それからほんの数日で状況がまったく変わってしまいました。

福岡での感染者が急増したこともあり
立花家史料館は4月6日(月)から19日(日)まで
臨時休館することが決まりました。
※追記 臨時休館は5月6日まで延長いたします。
今後も延長の可能性がありますので、おしらせの最新情報をご確認くださいますようお願いいたします。
※5月1日追記 臨時休館は5月31日まで延長いたします。

 

 

 

 

 

 

開館の時期につきましては状況を鑑みて判断しますので、いまのところ未定です。
決まりましたら公式サイトtwitterでおしらせします。

 

休館に伴い、4月10日から始まる予定だった
特集展示「立花家の宝刀と柳川藩ゆかりの刀工」は開始日を延期します。
開始日はいまのところ未定ですが
これまた決まりましたら、公式サイトtwitterでおしらせします。

しばらくお待ちください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏に予定していた、こども企画展「あつまる!アニマル!たまに…オバケ?」は開催を中止し
特集展示「立花家の宝刀と柳川藩ゆかりの刀工」の最終日を9月14日とします。

今年はお休み

 

 

 

 

 

 

 

 

 
もうひとつ大切なおしらせです。
公益財団法人立花財団は4月13日~19日の期間、休業します。
※4月7日追記 休業開始期間を前倒しし、4月8日~19日に変更となりました。
※さらに追記 休業期間は5月6日まで延長しております。

今後も延長の可能性がありますので、おしらせの最新情報をご確認くださいますようお願いいたします。
※5月1日追記 休業期間は5月31日まで延長になりました。
の期間は、電話やメール、郵便等の対応はできません。
休業期間につきましても、さらに延長する可能性があります。

 

では情報を整理します。

  • 立花家史料館の臨時休館
    → 4月6日(月)~5月31日(日) ※延長の可能性あり
  • 公益財団法人立花財団の休業
    → 4月8日(月)~5月31日(日) ※延長の可能性あり
  • 特集展示「立花家の宝刀と柳川藩ゆかりの刀工」
    → 開始日未定~9月14日(月)
  • こども企画展「あつまる!アニマル!たまに…オバケ?」
    → 開催中止

 

最後に、家での時間を充実させるプランのご提案です。

YouTube立花家史料館公式チャンネルを見る

チャンネル登録者数のアップにご協力いただけたら幸いです。
おすすめベスト3はこちら

誾千代ってどんな人?

 

へっちゃらへいたろうシリーズ(全3巻)

 

柳川みのり幼稚園劇 立花宗茂―天に向かって、恥じぬ生き方こそ「立花」

 

Google Arts & Culture で遊ぶ

当館のコレクションを高解像度で見たり
オンライン展示で「名勝立花氏庭園の歴史」や「伯爵令嬢立花文子」の物語を知ったり
いろいろな楽しみ方があります。
さらに世界中の美術館・博物館へweb上で旅することもできます。

 

「立花宗茂と誾千代」が大河ドラマになったら…を妄想する

配役やストーリー展開、ロケ地や撮影セットなどを妄想してみましょう。
予算や年齢、史実等で縛りをかけて現実的に妄想するもよし
すべてを解き放ったあなただけのドリームプランを妄想するもよし。
妄想は自由です。しかも楽しい。

 

それでは、またお会いできるときがきたら
こちらから呼びかけますので
それまでお互い元気にお家で過ごしましょう。

 

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伯爵の方の立花家

2019/2/9

去年9月に始まった、朝ドラ「まんぷく」で
安藤サクラさん演じる主人公の名前は立花福子。
この朝ドラ効果により、どうやら現在のところ一番勢いのある立花家は
萬平さんと福ちゃんの立花家のようです。

そこで今回は、他にこんな立花家もありますよというアピールとして
江戸時代には柳川藩主であった、伯爵の方の立花家を紹介してまいります。

 

伯爵の方の立花家で最初に伯爵になったのはこの人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立花寛治(たちばな ともはる)、立花家14代当主です。

農業で地元や国に貢献するという志を持ち
私財で柳川に農事試験場を開きました。

農事試験場で栽培されたブドウ

 

 

 

 

 

 

 

 

農事試験場では種苗交換会や農産物品評会を行い
農事の発展につとめました。

柿の出荷準備

 

 

 

 

 

 

 

 

東京にある屋敷を、上京した学生のための寄宿舎にしたりと
教育・育英事業の分野に力を入れたりもしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悪いものは体に入れない主義で
お酒や煙草は口にしなかったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、伯爵の方の立花家は犬が好きなので
この後の写真にも頻繁に犬が登場します。

 

寛治の次の伯爵はこの人

 

 

 

 

 

 

 

立ち姿が渋い、立花鑑徳(たちばな あきのり)
立花家15代当主です。

 

伯爵の方の立花家は、ラーメンではなく蜜柑を作っていました。

 

 

 

 

 

 

 

鑑徳が開墾した広大な蜜柑園「橘香園(きっこうえん)」では
あの千疋屋でも取り扱われるような優良な蜜柑を育てていました。
橘香園は、現在も立花家の手によって運営されています。

橘香園開墾の様子

 

 

 

 

 

 

 

鑑徳の妻、艶子は田安徳川家の出身。

田安徳川家家族写真 後列右端が艶子

 

 

 

 

 

 

 

 

艶子の父は田安徳川家9代当主、徳川達孝。
徳川宗家16代、徳川家達の実弟にあたります。

 

鑑徳と艶子の娘、文子は明治43年に生まれました。
萬平さんのモデルとなった安藤百福さんが生まれたのと同じ年です。

右が文子 左は寛治の妻・鍈子、手前はスーちゃん(犬)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伯爵の方の立花家の一人娘はスポーツが得意。

 

 

 

 

 

 

 

家に作ってもらったテニスコートで練習に励み
昭和8年には全日本女子テニス選手権大会のダブルスで優勝しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな文子の元に、婿としてやってきたのが島村和雄。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元帥 島村速雄の次男です。

島村家家族写真 左端が和雄

 

 

 

 

 

 

 

和雄も文子と同じくスポーツが得意で
スキーは共通の趣味でした。

後列右端が和雄、その隣が文子

 

 

 

 

 

 

 

朝ドラの福ちゃんたちも克子姉ちゃんの香田家や真一さんと行き来がありますが
伯爵の方の立花家にも、親戚が遊びに来ます。

 

 

 

 

 

 

 

このときに来たのは、和雄の弟妹たちと文子の従姉妹。
みんなで海水浴や釣りを楽しむ様子を写したフィルムが残っています。

 

伯爵の方の立花家は塩は作りませんが、潮干狩りは好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有明海の干潟で潮干狩りを楽しみます。
伯爵夫人も着物の裾をからげ、足袋着用で張り切って貝を探します。

右が伯爵夫人・艶子

 

 

 

 

 

 

 

和雄と文子に長男が生まれたのが昭和12年のこと。

初節句

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご先祖の戦国武将・立花宗茂の宗と、鑑徳の鑑をとって
宗鑑と名付けられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

華族制度の廃止により
伯爵の方の立花家が、元伯爵の方の立花家になったのは
宗鑑が小学生の頃のことでした。

 

そして戦後の立花家は、既成概念をぶち壊す発想で困難を乗り越え
今の立花家へと続いていくのですが
それはまたの機会にでも。

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