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Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》

2023/10/17

ただいま、 オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催) の解説冊子を鋭意作成中です。


立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求しています。

しかし、報告書の作成は平成19年(2007)。新知見も出てきています。


とくに、立花伯爵邸「西洋館」を設計した西原吉治郎については、調査研究が蓄積され、その姿がより明確に見えてきました。


詳細な経歴は下記の文献におまかせして、建築家・西原吉治郎(1868~1935)の経歴をものすごく簡単に3行にすると、

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した

となります。

吉治郎は明治初年生まれ。およそ30歳、40歳、50歳で職場を変えながらも、工手学校在学時からずっと現場でキャリアを積み、建築家として働き続けました。
わたしは勝手に、勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿を想像しています。


優れた先行研究をもとに、現存する吉治郎作品をインターネットにて捜索していたら、興味深い事実をいろいろと見つけてしまいました。


そこで急遽、建築家・西原吉次郎の足跡をたどるGoogleマップツアーを開催!
オンラインツアーのプレ企画として、 お楽しみください。


吉治郎の在籍時に福岡県営繕が手がけた建築活動は、病院や県立学校、郡役所など様々でした。

なかでも、明治33年(1890)9月に「設計及工事監督」を嘱託され、翌年に竣工した「日本赤十字社福岡支部本館」は、吉治郎が最初に設計した本格的洋館であり、のちに設計する「立花伯爵邸西洋館」と共通する点も多かったようです。

*共通点の詳細は、河上信行・松岡高弘「福岡県技手西原吉治郎と雇亀田丈平」(『日本建築学会研究報告』49号 2010.3 日本建築学会九州支部) を参照

残念ながら建物は昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で焼失してしまいました。



ところが、その正門の門柱は焼失を免れ、病院とともに場所を移して再建された日本赤十字社福岡支部の門として、今もきちんと保存されているのです。

日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱 【福岡市登録有形文化財】
高さ3.59m 上部の笠石は別造り 石材は徳山産花崗岩



そして、本来は左右2本ずつ計4本だった門の外側の2本は、久留米赤十字会館ににて門柱としての役を担っています。



これらの門柱と、立花伯爵邸の正門とを見くらべると、

同じバイブスを感じます。

門扉など鉄を素材とした部分は戦時中の物資供出で失われ、戦後に再現されました



立花伯爵家のアルバムを探すと、明治43年(1910)の竣工よりも前、建築工事中の正門の写真も見つかりました。【上段左写真の赤枠内】

まさに、西洋館が”映える”ようにデザインされた門柱ではないでしょうか。



建物の設計者が必ずしも門までデザインするわけではなく、誰の作だと判断する術もないのですが、立花伯爵邸の正門については、当時の寸法図が残されています。

正面門柱の正面図 原寸1/5スケール

ここまで精密に描かれた図面をみると、吉治郎自身がデザインした可能性は十分にあります。

となると、共通する雰囲気をもつ日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱にも、吉治郎の意向が反映されていると考えたいところです。



作例は多いほど楽しいので、吉治郎さんの足跡をさらに辿ってみます。



吉治郎の在籍中に福岡県営繕が手がけた建築には、県立中学校も含まれます。
現時点で吉治郎がどの学校を担当したのかは不明ですが、柳川の伝習館、久留米の明善、福岡の修猷館、京都の豊津、北九州の東筑……
そういえば、我が母校はどうだったっけ?

木造校舎ではありませんでしたが、古めかしい正門があったような気がします。

明治31年(1898)開校の福岡県東筑尋常中学校は、翌年「福岡県東筑中学校」と改称、明治35年(1902)に現在地の新校舎に移転しました。
今の県立東筑高等学校の正門は、新校舎移転時からのものだと推測されます。

「日本赤十字社福岡支部本館」や「立花伯爵邸西洋館」の門柱と、共通する雰囲気があるような……

いずれ確かめに行かねばなりません。



さらに愛知県へと足をのばします。

西原吉治郎は、愛知県では営繕のトップにつき、多種多様な公共施設の設計・工事監督を担当しました。

例えば、吉治郎が新築移転の任にあたった、大正3年(1914)完成の「愛知病院・医学専門学校」の正門がこちら。2基が同じ道路沿いに立っています。

旧愛知県立愛知病院正門及び外塀 【国登録有形文化財】

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀 【国登録有形文化財



ここまで見てきた門柱たちのバイブス、かなり似てなくない?



しかし、趣がちがうデザインの門柱も残されています。

明治村第八高等学校正門【国登録有形文化財】 
昭和45年(1970)愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町より移築

吉治郎を中心とした愛知県営繕が設計を担当し、明治42年(1909)に建てられた第八高等学校の正門が、今は博物館明治村の正門として残されています。

赤煉瓦と白御影石を積んだデザインは、この頃に流行していた「辰野式」を彷彿させます。「辰野式」とは、日本近代建築の父とも称される建築家・辰野金吾が好んで用いた様式のこと。
吉治郎さんの意向ではなく、第八高等学校の設計の基本方針を示したとされる初代校長や文部省営繕課の意向が影響した結果ではなかろうかと、わたしは邪推しています。ただし、根拠はありません。



今回は結局、門だけしか見てきませんでした。
(それでもわたしはものすごく楽しかったです)
もっと西原吉治郎について知りたくなった方は、是非オンラインツアーへ!

オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長がじっくりと解説しながら、ちゃんとご案内いたします。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



建築家・西原吉治郎についての先行研究





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、福岡市文化財HP平成25年度の福岡市指定文化財・登録文化財について」、 文化遺産オンライン(文化庁)、福岡県立東筑高等学校同窓会東筑會HP「母校沿革」文化財ナビ愛知HP(愛知県)、博物館明治村HP

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花伯爵邸には無いモノを紹介します

2023/3/5

前回よそのお宅をのぞいていると、立花伯爵邸には無いモノが、とても気になりました。




目の前の作品を解説するとき、無いモノは説明しづらいので、在るモノだけを紹介せざるをえません。
しかし、無いモノにも、無いことの理由があり、”無い”という特徴になるのです。

そこで、前回Googleマップストリートビューで訪れた、「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」に在って、立花伯爵邸には無いモノを紹介します。



立花伯爵邸には、趣向を凝らした天井がありません(ただし、洋館はのぞく)。



重要文化財「旧伊藤家住宅」(福岡県飯塚市)はどうでしょう?

北棟「本座敷」廊下が、矢羽 ヤバネ 天井となっています。

柾目の板を斜めにして、V字を連続させたような文様に貼り、錯視効果を狙ったともいわれます。
畳を横使いに敷き詰め、広さが強調される畳廊下は約50mつづきますが、欄間で区切られた、本座敷と次之間の範囲外は、装飾性が低い棹縁 サオブチ 天井です。

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください



趣向を凝らした天井をもつ廊下は、重要文化財「旧岩崎家住宅」(東京都台東区)にもあります。

洋館と和館がつながる廊下が、船底 フナゾコ 天井です。横にわたされる梁は、岩崎家の家紋にちなんだ三菱紋形に削り出されているそうです。

並べてみると、どちらも廊下が長く見える効果を狙っているように感じます。
ちなみに、両者の廊下の幅はおおよそ同じです。



旧長州藩主の毛利家が大正5年(1916)に建設した重要文化財「旧毛利家本邸」山口県防府市)では、角材を格子に組んだ格 ゴウ 天井が、重厚さを醸しだしています。

格天井(小組格天井)は、この部屋「本館客室(一階大広間)」の格式の高さをあらわします。
向かって左奥、床の間がある部屋は、天井の中央部分を一段高くへこませた折上 オリアゲ 格天井にして、さらに高い格をあらわしています。*Googleマップストリートビューではのぞけませんので、ぜひ現地へ*



当主家族が食事をとる部屋「食事ノ間」の天井もスゴイ‼
内側は格天井で、一枠ごとに木目の方向を互い違いに配しています。
周囲を囲むのは一枚板なのでしょうか?



「旧毛利家本邸」では、このように、いたるところで豪奢な木材を堪能できます。
例えば、玄関から応接間にいたる廊下は、台湾産の巨大ケヤキの一枚板です。 加えて、部屋部屋を仕切る各板戸は屋久杉(神代杉)の一枚板。

一枚板とは、大きく育った一本の木から切り出された、継ぎも接ぎもない板のこと。とくに節がなく木目が美しいものは珍重されます。



立花伯爵邸には、このような一枚板はありません。



もちろん、立花伯爵邸「大広間」や「御居間」の柱や長押に使われているスギ材は、すべて均一な柾目で、とても上等です。他の部材も、伯爵邸の建築にあたって選び抜いた大量の高級木材を、大阪から運んできました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、屋根裏にいたるまで贅沢に木材を使っていると、どの大工さんも褒めてくださいました。

でも、立花伯爵邸には一枚板は無く、わかりやすいケヤキやヒノキも無いのです。



しかし、趣向を凝らした天井も一枚板も無いことが、立花伯爵邸の特徴-明るさと軽やかさと新しさ を、より際立せているとも言えます。


とくに、重厚でゴージャスな毛利公爵邸と、軽妙でスタイリッシュな立花伯爵邸と、それぞれの個性が対照的なのも、大変興味深いです。



今回は、重要文化財「旧伊藤家住宅」も、重要文「旧岩崎家住宅」も、重要文化財「旧毛利家本邸」も、立花伯爵邸と比較するために、ごく微細な部分しか取り上げておりません。

どれも見どころ盛りだくさんの素晴らしい建物ですので、Googleマップストリートビューでも楽しめますが、ぜひ実際に訪れて、床の間を見て、天井を見て、各部材をイチイチ見て、同行者や周りの人々から不審がられてください。



【2013.3.14追記】
浅学のため見逃していました。毛利博物館の柴原館長が、「旧毛利家本邸」の見どころを解説される、贅沢で素晴らしく、とても勉強になる動画です。レポーターの方がとても羨ましい…… 豪奢な木材も十分に堪能できます。

You Tube「防府市公式チャンネル」

『重要文化財 旧毛利家本邸(前編)』(ほうふほっとライン:2021年7月放送)

『重要文化財 旧毛利家本邸(後編)』(ほうふほっとライン:2021年8月放送)



参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸(福岡県飯塚市)、
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビュー (飯塚市提供)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」、毛利博物館(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会、YouTube「防府市公式チャンネル」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。




最近は床の間のない住宅が主流になりつつあります。
床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も多くはありません。
床の間になじみのない方に、テキストだけで説明するのは難しすぎるのだけれど、どうしよう……


そんなときは新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。
立花伯爵邸内のGoogle撮影に立ち会ったのに、すっかり忘れていました。
画像の拡大も、360°回転も可能です。


さっそく、立花伯爵邸「大広間」東床を、のぞいてみましょう!

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にうってつけのメディアです。
東床と西床とが並べられ、間違い探しも楽しめます。




立花伯爵邸「御居間」棟にも「床の間」があるので、この機会に並べてみましょう!

現在「御居間」は柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用され、通常の有料見学範囲には含まれておりませんのでご注意ください



最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

左上に見える欄間の意匠は「帆の丸祇園守紋」。立花家の家紋「祇園守紋」のバリエーションの1つです。

*薄字の解説はご自由に読み飛ばしてください*

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。



ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。



隣は寛治の書斎であった「鈴の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

右をのぞくと見える欄間の意匠は「崩し祇園守り紋」。これも立花家の家紋のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。




「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。
伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左上に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



寛治の三番目の妻・鍈子(明治31年結婚)の居間が「花の間」です。
伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左をのぞくと見える欄間の意匠は梅、やわらかく洒落た雰囲気になっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



なんということでしょう!
各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。

さらに、視点を変えられて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

「御居間」の「床の間」を並べると、当主をトップとするヒエラルキーが見えてきます。
柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅だからこそでしょうか?

よそのおうちの「床の間」がとても気になる……
それに、数多くの作例を見るほど、「床の間」を “見る目” も養われていくはずです。


今回は、明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準作とし、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、《オンラインツアー「床の間」拝見》にGO!!



まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビューもオススメです*

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。
さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。かわりに襖に趣向が凝らされ、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。



床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格が下げられています。
ちなみに、紙貼り付け壁ですが、「四分一」はつけられていません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱は鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。 伯爵家から傳右エ門 嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1.5間の畳床、床柱は赤松の面皮柱筍面付、床框は三色黒漆塗の面皮塗残し、丸竹の落掛け。床脇は欅玉杢の一枚地板に亀甲組の天井が見えます。





次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

全体に伝統的な和風意匠を用いた住宅建築……大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。

文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』) より引用

贅を尽くした旧毛利家本邸では、 誰もが豪華さに圧倒されるでしょう。
さらに、”11万石外様” “伯爵”というウチ (立花伯爵邸) を基準としながら見ると、”薩長土肥” “公爵” という風格がより明確に感じられるので、オススメです。

*事前に「立花伯爵邸」(立花家史料館)をご見学いただいておくと、「 旧毛利家本邸」(毛利博物館)を十二分に楽しめます。ぜひ先に「立花伯爵邸」へどうぞ。
見る順が逆だと、ウチがしょぼく見えてしまうかもしれませんが、ウチには”西洋館”があるので大丈夫です *



わたしのイチオシの「旧毛利家本邸」の「本館客室(一階大広間)」をのぞきましたが、絶妙な画角での撮影で「床の間」を拝見することができませんでした。 惜しい!
とてもゴージャスなので、ぜひとも現地でご覧ください。





最後は、洋館と和館を併設した住宅というつながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名です。

今回は「大広間(和館)」をのぞいてみます。
床柱は正角、おそらく杉の四方柾でしょうか。この部屋の格の高さがわかります。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。
*勉強不足のため、この「床の間」の形式は、今後の課題です。畳床の畳を特注せず、縦に畳を使っている点が、とても合理的に思えます*




このオンラインツアー、とても楽しいです。
結論は、「みんなちがって、みんないい」



参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸HP(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、『飯塚市指定有形文化財 旧伊藤伝右衛門邸修復工事報告書』2007.3.31 飯塚市、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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