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肖像画に描かれた初代柳川藩主・立花宗茂の“もみあげ”

2025/1/8

新商品「宗茂の顔デイリーバッグ」はじめました。






あらわされているのは、柳川藩初代藩主・立花宗茂の“顔”です。
立花家史料館が所蔵する肖像画をもとにデザインされました。

立花家史料館所蔵「立花宗茂肖像画」

肖像画が描かれたのは、宗茂の13回忌にあたる承応3年(1654)。
礼服である黒い束帯をまとう壮年の宗茂が描かれています。

印象的な長めの“もみあげ”は、実際の宗茂に似せたのでしょうか?

「立花宗茂」が全国的に有名になるとともに、この肖像画のメディア露出も年々増えつつあります。
しかし、実は近年までの約300年間、この当館所蔵の宗茂肖像画は誰にも知られていませんでした。



宗茂の13回忌から30余年が過ぎた、貞享5年(1688)。
宗茂の孫にあたる3代藩主・鑑虎は、新たに理想化された顔立ちの宗茂を描いた肖像画を作らせました。

このときの経緯については、20年前に立花家17代が語っていますので、是非ご一読ください。

立花家17代が語っているとおり、新しい肖像画は京都の大徳寺大慈院で大切に伝えられてきました。
廃棄予定だった元の肖像画は、ひっそりと柳川の立花家に伝来していたようですが、その存在は忘れ去られていました。


時はめぐり昭和62年(1987)、立花家の蔵(福岡県柳川市)で行われた本格的な学術調査で、元の肖像画は傷んだ状態で発見されます。
そして今から10年前、2015年「大関ヶ原展」での全国デビュー前に、補絹や剥落止めがほどこされ、大名の肖像画にふさわしい表具に改装されました。

10年前の修復の話

つまり、印象的な長めの“もみあげ”が描かれた当館所蔵の宗茂肖像画は、はからずも封印されてきたのです。



修復された当館所蔵の宗茂肖像画を見た、立花家17代の兄弟も、

「大慈院さん御所蔵の肖像画は、お参りのときに見せていただいていたけれど、これは今はじめて知った。随分ふっくらしているね。」

「もみあげが長い人だね。俺なんてもみあげがないから。」

と、“もみあげ”に注目していました。



そして今、封印が解かれた印象的な長めの“もみあげ” がお洒落にデザインされ、スタイリッシュなデイリーバッグとなりました。


あなたの暮らしに、宗茂の“もみあげ” を‼️




オマケ:立花家18代目が語る「立花宗茂の肖像画」

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高橋紹運が立花宗茂へ譲った「剣 銘長光」【重文】[後半]

2024/12/1

天正9年(1581)、戸次道雪の養嗣子となる日に、15歳の立花宗茂が、父の高橋紹運から譲られたという逸話をもつ「剣 銘長光」【重要文化財】
その5年後の天正14年7月27日、紹運は九州を北上する島津氏大軍に岩屋城で徹底抗戦の末に敗死。本剣は、宗茂にとって唯一ともいえる父の形見となってしまいました。





「剣 銘長光」【重要文化財】 立花家史料館所蔵


なぜ高橋紹運〔1549~86〕は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町長船地区)で作られた「剣 銘長光」を所有していたのでしょうか?

寺社仏閣が似合うようなイメージがある剣と、戦国時代の勇猛なる武将であった紹運との関係が気にかかりますが、調べようがありませんでした。



そんな折の2015年7月、立花宗茂イラストコンテストへのご協力をお願いするために豊後高田市の教育委員会をお訪ねした際、重要な知見をいただきました。

2015/8/10 の記事ですので、現在はイラストを募集しておりません。




高橋紹運は、豊後国武蔵郷吉弘(現 大分県国東市武蔵町吉弘)を本拠とする吉弘氏の出身であり、その吉弘氏は、室町時代中期には大友氏から都甲地域(現 大分県豊後高田市)に配置されていました。

都甲地域の歴史を知るには、 2014年に豊後高田市教育委員会が作成された『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』

豊後高田市HP/https://www.city.bungotakada.oita.jp/文化財室 > 「小冊子『都甲谷の歴史』について」から、PDF版をダウンロードできます。



そのうちに吉弘氏は長安寺の高い役職を歴任するようになり、鑑理・鎮信・統幸はみな六郷山別当や執行といった地位を手に入れていきます。これらの役職は、権威・権力共に非常に強いもので、都甲地域だけでなく、国東市の両子寺や香々地の霊仙寺など、六郷山寺院に広く影響力を持っていたと考えられます。

『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 36頁

紹運は吉弘鑑理の子で、高橋と名乗る前は吉弘鎮理※1という名前で登場します。紹運は都甲地域で生まれたとされており、「六郷山年代記」※2によれば、元亀三年(一五七二)には吉弘氏当主のように六郷山執行を勤めています。

『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 46頁

※1 永禄12年(1569)大友氏に謀反をおこした高橋鑑種にかわり、吉弘鎮理が岩屋城・宝満城(現 福岡県太宰府市)を本拠とする高橋家名跡を継ぎ、高橋鎮種、後に紹運と名乗る。
※2 長安寺所蔵 の「六郷山年代記」は慶長12年(1607)に長安寺僧の長老格であった豪意が六郷山の歴史を記したと伝わる。(『六郷満山寺院群詳細調査報告書』2016 豊後高田市教育委員会⇒PDFダウンロード



大友家の加判衆をつとめ、戸次鑑連、臼杵鑑速とともに「三老」と称された吉弘鑑理〔?~1571〕は紹運の父、大友軍と島津軍とが激突した高城・耳川合戦で戦死した吉弘鎮信〔1544~78〕 は紹運の兄、豊臣秀吉から改易された旧主の大友義統に従って石垣原合戦で黒田軍(関ケ原合戦東軍)を苦しめて戦死した吉弘統幸 〔1564~1600〕は紹運の甥と、吉弘氏はそろって忠義に厚く壮烈だったようです。

この吉弘氏が、天台宗の金剛山長安寺【大分県指定史跡】の主要な役職であった「六郷山別当職」「執行職」を占有し国東半島の寺院群に強い影響力をもっていたこと、紹運自身が「六郷山執行」という役職にあったことは、「剣 銘長光」の来歴を考える手がかりとなりそうです。



しかし残念ながら、現時点でわたしがお話できるのはここまで。
室町時代後期の吉弘氏の実状がさらに明らかにされるのを、期して待っています。




先の豊後高田市訪問の際には、高橋紹運ゆかりの地「筧城跡伝承地」「長安寺」などをご案内いただきました。 筧城は立花宗茂が生誕した地でもあります。

豊後高田市HP>  文化財 > 豊後高田市の先人たち > 【統幸公ゆかりの地・其の二】筧城(吉弘氏館)跡 伝承地 【統幸公ゆかりの地・其の三】長安寺【統幸公ゆかりの地・其の四】屋山城跡

近年「筧城跡伝承地」を案内する石碑が寄贈され、わかりやすくなっているようです。



ご案内いただいたなかで、とくに感慨深かったのは、国の重要文化的景観に選定されている「田染 タシブ荘小崎の農村景観」。中世から変わらない土地利用を現代に伝え、宇佐神宮の荘園であった「田染荘」の風景が残されています。



YouTubeチャンネル「 豊後高田市公式チャンネル 」より


永禄12年(1569)に福岡へ引っ越す前の高橋紹運(当時21歳)や立花宗茂(当時3歳)が眺めたであろう風景を、今まさに自分も見ているという浪漫に心がふるえました。



ゆかりの品がほとんど現存していない高橋紹運ですが、息子の宗茂へ譲った「剣 銘長光」 と「田染荘小崎の農村景観」が、現代のわたしたちに遺されています。



参考文献
豊後高田市教育委員会 編集 『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 2014.11 豊後高田市教育委員会、ぶんごたかだ文化財ライブラリーVol.1『 豊後高田の城跡 』2019.3.31 豊後高田市教育委員会文化財室⇒PDFダウンロード長安寺(大分県豊後高田市加礼川635) HP

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高橋紹運が立花宗茂へ譲った「剣 銘長光」【重文】[前半]

2024/11/22

江戸時代の柳川藩主立花家は、大名の家格にふさわしい刀剣を多数所持していたはずですが、当館が所蔵する伝来の刀剣は20口にもおよびません。
逆にいえば、立花家において重要な意味をもつからこそ、これらの刀剣は様々な事情を越えて残されてきたのです。
実際、それぞれの刀にまつわる逸話には、立花家の歴史が映し出されています。


柳川藩主立花家にて代々大切に受け継がれてきた刀の由来を記録して残そうと、明和4年(1767)に担当係の「御腰物方」が吟味の上まとめた「御腰物由来覚」 には、133口の刀剣が記載されています。
その筆頭には、徳川将軍家から歴代の柳川藩主が拝領した「刀 無銘 左文字」「短刀 粟田口則国」「刀 備前正恒」「刀 無銘 延寿」「刀 無銘 了戒」「小脇指 筑州左文字」の6口が列記されますが、すべて立花家から離れてしまいました。


将軍からの拝領刀の次に並ぶ7番目の刀剣が、現在も立花家史料館が所蔵している「剣 銘長光」【重要文化財】です。

「剣 銘長光」【重要文化財】 立花家史料館所蔵

「御腰物由来覚」の「一 長光 銘有 八寸壱分 御剣」の項を3行にまとめるとこんな感じ。

…柳川藩士が著した『浅川聞書』には、戸次道雪の養嗣子となる日に、15歳の立花宗茂が父の高橋紹運から本剣を譲られたという逸話がある。初代柳川藩主・宗茂の秘蔵であったが、2代・忠茂の代に立花家を離れ、後に再び戻された。…

〚CM〛11月30日(土) 15時~ オンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」【終了しました】の解説冊子(B6判カラー52頁) では、この逸話を詳しく解説! コチラで購入できます⇒

これまでのオンラインLIVEツアー解説冊子も購入できます








つまり、天正9年(1581) に宗茂へ譲るまで、「剣 銘長光」【重要文化財】の所有者は高橋紹運〔1549~86〕 でした。
紹運のゆかりの品はほとんど現存していないので、彼の形見としても貴重な1口です。


実はこの剣について、気になっている点が2つあります。


1つは、「剣 銘長光」の名刀たる所以です。

もちろん私は、端正な姿と澄んだ地鉄に映える沸づいた乱刃調の刃文とが絶妙に調和した本剣を、誇りに思っています。ただ、本剣は長光としてはイレギュラーな作例なのです。


長光は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町長船地区)で活動していた刀工です。名工として技量が高かったといわれます。
文化庁「国指定文化財等データベース」を利用して数えると、現在、国宝・重要文化財に指定されている長光の刀剣は34口。剣2口、薙刀2口のほかはすべて太刀(金象嵌銘と無銘の刀を含めます)です。この傾向は、国宝・重文指定の13口のうち、薙刀直シ刀1口、剣2口以外はすべて短刀という吉光と対照的ではないでしょうか。


当館所蔵の【国宝】短刀 銘吉光は、ほかの作例と比べた上で優品だと断言できます。

しかし、長光の他の剣を実見できてない私に、本剣をほめたたえる資格があるのでしょうか。
「それってあなたの感想ですよね」って言われたらどうしよう。


そんな私に朗報が!

望月規史氏(九州国立博物館 主任研究員)と杉原賢治氏(備前長船刀剣博物館 学芸員)というスペシャリストが、当館所蔵の「剣 銘長光」「刀 無銘伝兼光」を中心に「備前刀」を 解説するオンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」が開催されます!【終了しました】


〚CM〛LIVEツアー は、展示室では見られないアングルで撮影した映像と専門家の解説、チャット機能を利用した質問対応と臨場感も楽しめます。アーカイブ視聴期間は約1ヶ月間、別途撮影した「剣 銘長光」の映像も追加予定です。ご興味のある方は⇒ 【終了しました】



本剣についての忌憚のない評価がうかがいたいと、今回のオンラインツアーを心待ちにしています。


ところで、さきほど国宝・重要文化財に指定されている長光作と吉光作の刀剣を数えましたが、あわせて4口の剣のうち、3口は神社の所有となっています。
偏見ではありますが、剣には寺社仏閣が似合うようなイメージがあります。

高橋紹運は、なぜ「備前刀」の剣の優品を所有していたのでしょうか?

この気がかりについては、後半で考えてみます。






オンラインツアーの前にコチラのブログもどうぞ

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立花も伊達も毛利も池田もハマった?黄檗文化インパクト!

2024/10/29

2024年10月18日、黄檗宗大本山黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の三棟(法堂・大雄宝殿・天王殿)が文化史的意義の深いものとして評価され、重要文化財から格上げされて『国宝』へ指定されました。

隠元さんが来日した中国明時代末期頃の様式で造られた、ほかの日本の寺院では見かけることのない建築に圧倒されてしまいます。

YouTubeチャンネル「黄檗宗大本山萬福寺」より



この黄檗宗大本山萬福寺公式サイト内「黄檗宗末寺一覧」には、全国およそ460寺の黄檗寺院が紹介されています。


こちらを参考にわたしが数えたところ、黄檗寺院の所在はだいたい、西日本7.5割:東日本2.5割となっているようです。

とくに多いのが、京都、滋賀、福岡、大阪で、大本山萬福寺 がある近畿地方に4割以上が集中していますが、旧柳川藩領を擁する福岡も負けていません。東海地方も少なくなく、関東以北の寺院数は全体1割程度です。承応3年(1654)の来日以降、隠元さんが長崎と京都を往復したり江戸に赴いたりした街道に沿って、その影響が広がっているように感じられます。


これまで黄檗宗寺院とのご縁が薄かった方もいらっしゃるでしょうが、わたし自身は学生の頃に黄檗美術を学び、これまでいくつもの黄檗寺院を拝観してきたので、黄檗文化を知ってるつもりでいました。


しかし、黄檗宗の法式による旧柳川藩主立花家のお盆をのぞき見て、衝撃をうけました。

わが家も禅宗檀家ですが、知らない形のお供えです。
よそさまの宗教的な話題にふみ込むのは躊躇しましたが、法要を終えた立花家の方々に尋ねてみました。



「あれは何ですか?」「おしゃんこんさん たい!」
「もう一度お願いします」「あれは、おしゃんこんさん たい!」
「どんな漢字?」「おしゃんこんさんは、おしゃんこんさんやろうもん!」


旧柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺さんへ伺うと、荘厳さを増した同じお供えがありました。

そっとインターネットで調べました。
⇒慧日山永明寺(滋賀県米原市) HP 「黄檗事典」http://www.biwa.ne.jp/~m-sumita/oubakujisyotop.html

むかって右から青 セイ・黄 オウ・油揚げ・赤 シャク・白 ビャク・黒 コクとならぶ六味の供物は、「上供」と書いて「シャンコン」
中国語です。昔公民館で習った現代中国語の知識が役立ちそうです。


え~

経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残していると聞いてはいましたが……
黄檗寺院の建築や美術工芸品に中国っぽさを感じてはいましたが……

え~


先に渡来した仏教宗派も、そのときどきの中国文化を運んできました。瓦屋根の寺院も、当時は異様だったはずですが、時を経るなかで日本に馴染んでしまいました。400年ほどの空白期間をおいて隠元さんが持ち込んだ、当時最新の仏教と中国文化は、忠茂さんたちに新鮮な驚きを与えたのでしょう。



福嚴寺さんがコチラで、2024年10月13日に厳修された「福嚴開山鉄文禅師の開山忌」についてご報告されています。https://readyfor.jp/projects/fukugonji/announcements/346046

どことなく異国情緒を感じる写真を拝見すると、不謹慎ですがワクワクします。
黄檗宗は経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残しているので、不心得にも法要に参列できるチャンスを虎視眈々と狙っていましたが、願ってもない機会です。


忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

この度は、旧柳川藩主立花家の法要で行われていた、古より伝わる貴重な経典 「八十八 パーシーパー 佛名経」を僧侶7~8名が読経するという特別な機会となります。黄檗宗の読経は梵唄 ボンバイといわれ、中国式の発音による独特の節のあるお経です。他宗派にはあまり見られない太鼓や引磬などの鳴り物が加わることで、音楽のように美しく調和します。深遠な響きが堂内を包み込み、歴史ある空間の中で黄檗宗独特の法要に直接ご参加いただけるまたとない機会です。

お席に余裕があるため、今も参加のお申込ができます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji



黄檗宗の読経「梵唄」 は、黄檗唐音とよばれる近世中国語(明代南京官話) の発音でおこなわれています。

例えば、多くの方が一度は耳にされる普回向「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」は、「願わくは此の功徳を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と訓読されます。そのまま漢文として読むと「がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう」です。

それが黄檗宗では「えんいつこんて ぷぎじいちえ ごてんいちょんせん きゃいこんちんふたう」となります。現代中国語の標準語(普通話)「Yuàn yǐ cǐ gōngdé  pǔjí yú yīqiè wǒ děng yǔ zhòngshēng jiē gòng chéngfó dào 」の発音に近く、知ってるはずの文言が、知らない響きで聞こえてきます。

この違和感を好む人もいれば、好まない人もいるでしょう。

おそらく忠茂さんは、わたしみたいに違和感を楽しむ方だったのでしょう。
目新しさへの興味を契機に、黄檗の禅や文化に傾倒したのではないかと推測されます。


黄檗文化にハマった柳川藩11万石の2代柳川藩主・忠茂と3代藩主・鑑虎。
同じようにハマった大名たちは、ほかにもいました。

多くの僧侶を排出して「黄檗三叢林」と称されたのは、仙台藩62万石藩主・伊達家の両足山大年寺(宮城県仙台市)、 萩藩36万石藩主・毛利家の護国山東光寺(山口県萩市)、鳥取藩32万石池田家の龍峯山興禅寺(鳥取県鳥取市)です。どの寺院も当時の藩主の熱い支援を受けて建立されました。



喜多元規筆 立花忠茂像 部分
立花家史料館所蔵

また、黄檗僧の肖像画「頂相 チンソウ」にならって、自らの肖像画を描かせた大名や旗本も出てきます。
斜め向きに描かれる肖像画に慣れ親しんでいた日本では、正面向きで陰影をつけてリアルに描かれる「頂相」のインパクトは大きかったと想像されます。忠茂も「頂相」 にならった肖像画を描かせていますが、これはまた別のお話で。









福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。
立花も伊達も毛利も池田もハマった黄檗文化インパクトを、体感してみませんか。

参考文献
服部祖承「黄檗宗独特のお経」(大法輪編集部編『禅宗で読むお経入門』1983.10.26 大法輪閣)

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立花宗茂の兜は、太陽の下で見るに限る(個人の感想です)

2024/10/7

現存する立花宗茂の甲冑は2領「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。どちらも立花家史料館が所蔵しています。

立花宗茂の甲冑、とくに兜については、これまでいろいろと語ってきました。


おわかりいただけたでしょうか?

立花家史料館の学芸員であるわたしが、立花宗茂の兜をとても好きで、造形として非常に美しいと思っていることを。

現在の立物は20年程前の修理時に補修されたものです。

わたしは、この鳥毛後立(鳥の羽根で作られた飾り) のキラメキを見るたびに摩利支天を連想します。金をつかわず “輝く光” をあらわすのに、このニワトリの羽根はもってこいではないでしょうか。

そして、大輪貫脇立。

金属製だと誤解されがちですが、実は薄くて軽い木製です。黒漆が塗られ、鏡面のように仕上げられています。上部中央の蝶番で半分に畳んで収納されます。

当館の所蔵品台帳の基準となる近代の道具帳「立花家御器目録」に「月輪」と記されているため、立花家史料館では「月輪 ガチリン」と称しています。同じ道具帳には「鉄皺革包月輪文最上胴具足」の胴に朱色で描かれた輪貫も「月輪」と表記されるので、共通の意匠となるのでしょうか。

太陽の「日輪」ではないので、金を使わないのは理解できます。
でも、月の輝きをあらわすために、銀を用いても良かったのでは?黒漆だけだと地味じゃない?と思わなくもありません。



そんなとき、甲冑類の修復をお任せしている西岡甲房さんが制作する、「鉄皺革包月輪文最上胴具足」着装用レプリカができあがりました。

この2013年にレプリカ甲冑は大活躍で、様々な場面で着装されました。

実はこのあと、KBC「前川清の笑顔まんてん タビ好キ#51 福岡・柳川市 新たな門出を速攻スケッチ(2013.4.7放映)の撮影に訪れた前川清さんに、レプリカ甲冑を着せ付けています。



レプリカ甲冑の活躍を見ているうちに、わたし気付いちゃいました。

黒漆塗の「月輪脇立」は光を反射して、ものすごく輝くのです。
照明が調整された展示室でホンモノを見ている時には思いもしませんでした。
とくに太陽光のもと、角度によっては眩しいくらい輝くのです。
まさに「月」‼️

武将は展示室で兜をかぶったんじゃない!
戦場でかぶっているんだ!

以来、戦国武将の甲冑を鑑賞する際には太陽の光を想定しています。
わたしにコペルニクス的転回をもたらした”太陽光を反射する「月輪脇立」”を、是非皆さまにも見てほしい……


しかし、レプリカであっても、立花宗茂の兜を太陽の下で見る機会は滅多にありません。

そこで朗報です!!

2024年10月と11月は、立花家史料館公式キャラクター「立花宗茂と誾千代姫」が屋外イベントに出演する機会が、例年よりも多くあります。
ただし、ホンモノに近づけるため鉄と漆で作られた兜はレプリカでも重いため、公式キャラクターが兜をかぶっている時間は短時間に限られます。

  • 10/14(月・祝) 柳川戦国パークin御賑会@福岡県柳川市
  • 10/19(土) 関ヶ原合戦祭り2024 @岐阜県関ケ原町
  • 11/9(土) 大野川合戦まつり@大分県大分市
  • 11/10(日) 臼杵市歴史資料館@ 大分県臼杵市

気になる方は必ずコチラでご確認ください。






当日の天候によっては、兜をかぶらない場合もありますし、兜をかぶってても、時間帯によっては太陽光を反射しません。
公式キャラクター「立花宗茂と誾千代姫」 のパフォーマンスを楽しみながら、ラッキーチャンスをお待ちいただけますと幸いです。



オススメしておきながら、あまりのハードルの高さに慄いています。
ふりかえると、わたしも10年間で数えるほどしか目撃できていませんでした。






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立花家のヨメが、徳川家康のヒマゴで、伊達政宗のマゴ!?

2024/4/28

柳川藩主立花家にお嫁入りした女性のなかに、今でも「仙台奥様」や「仙台奥さん」と、なぜか親しげに呼ばれる方がいます。



その方は、2代柳川藩主・立花忠茂(1612~75)の継室となった、鍋子(1623~80)さん。

正保元年(1644)の祝言までの経緯を、柳川古文書館学芸員の白石氏がわかりやすく解説されています。

白石さんによる詳しい経緯の解説はコチラ






忠茂 33歳と鍋姫 22歳の縁組は、いろいろと異例でした。


忠茂の先妻・長子〔玉樹院〕の場合、大御所秀忠に仕える西丸老中の父・永井尚政は、最終的には淀藩(京都府)10万石の藩主となりますが、結婚当時は古河藩(茨木県)8.9万石の藩主でした。
柳川藩(福岡県)11万石と、ほどよく釣り合った縁組だといえます。


しかし、鍋子さんは仙台藩(宮城県)62万石の2代藩主・伊達忠宗の一人娘。

しかも母親は、 姫路藩(兵庫県)52万石の初代藩主・池田輝政の娘、かつ初代将軍・徳川家康の孫であり、2代将軍・秀忠の養女となって嫁いだ正室・振姫です。


ちなみに、振姫の母親は、2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』で印象深い役柄だった「お葉」〔西郡局〕であり、北条氏直との離縁後、再婚した池田輝政との間に振姫をもうけました。
「お葉」さんの娘!俄然親しみがわいてきます。
また、父・忠宗の両親、伊達政宗と正室・愛姫についても、1987年NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』のおかげで、よく知っている気がします。

わたしは日頃、血統ではなく「家」という枠で系図を見ていますが、今回はフカボリするほどに意外な血縁が判明して、ワクワクしました。


あいにく振姫の実子3人のうち男子2人は早世したため、側室から生まれた綱宗が3代仙台藩主となります。
つまり鍋ちゃんは、徳川家康と伊達政宗との血を受け継ぐ、一粒種となってしまったのです。

忠茂が 「つりあわぬ身躰」 と感じたのも、無理はありません。

まさに格差婚。
しかも老中が祝言を急かすので、予期せぬ大きな出費が嵩んでムリっぽい。

そこで老中は、本来ならば江戸上屋敷ですべき祝言を、下屋敷で行うよう助言してきました。柳川藩の苦しい財政事情を鑑みた、立花家の負担を減じる指示でしたが、鍋姫や伊達家にとっては不本意だったかもしれません。

いろいろと異例な縁組と祝言には、3代将軍・家光の意向「上意」が働いていたようですが、家光の目的は何だったのでしょうか。


大きな格差はありましたが、忠茂と鍋姫はいい夫婦となれたようです。

二人の間には、夭折した千熊丸、後の3代柳川藩主・鑑虎、先の永井家に嫁いだ、忠茂から「雷切丸」をもらった茂辰、早世した兄から「雷切丸」を引き継いだ茂堅、縁起を担いで養子に出された、旗本として分家を立てた貞晟、福岡藩主黒田家に嫁いだ呂久と、5男2女〔一説には6男2女〕が生まれました。

脇指「雷切丸」の話はコチラ



江戸時代、大名の正室には跡継ぎの確保が期待されました。

幸運にも鍋姫は、実子の鑑虎(1645-1702)が無事に成人して3代柳川藩主となりましたが、その鑑虎が、両親の供養のためにつくらせた位牌もまた異例でした。

忠茂と鍋姫それぞれの位牌が、一つの厨子の中におさめられています。
厨子には、立花家の家紋「祇園守紋」と、伊達家の家紋と思しき「竹に雀紋」があしらわれているのが、かろうじて見て取れます。
夫婦の位牌をまとめて厨子におさめた例は、意外にも少ないのです。


同じ永禄10年(1567)に生まれた立花宗茂と伊達政宗。
勇将として名高い二人の没後に奇しくも結ばれた、養嗣子と孫の縁組。
徳川家康・高橋紹運・池田輝政・伊達政宗の血を継ぐサラブレッド鑑虎の誕生。
今にいたるまで立花家の仏間で祀られてきた、両家の家紋があしらわれた厨子。

なんか、すごくエモくない?

現代から立花家の歴史をふりかえると、2代藩主・忠茂の最大の功績は鍋姫との逆玉婚と言いたくなります。

実際、鍋姫は自らの血縁を活かして、立花家と伊達家との仲介をつとめたり、江戸城大奥を通じた「奥向」の交渉ルートをつかったりと、誰にもできない役割を果たしました。
そして、その威光は実子たちにも及び、彼女の没後も輝き続けるのです。

近世大名家の女性達の名と活躍は、歴史の表舞台に出ることはあまりありませんでしたが、立花家の婚姻を紐解き、彼女たちの生涯を追ってゆくと、歴史の節目にいかに大きな役割を果たしたのかが見えてきます。




6月4日(火)開催のオンラインLIVEツアーでは、 江戸時代の大名家間で行われた婚姻について、遺された豊富な婚礼調度や文書資料を使って実像に迫ります。
立花家から黒田家・毛利家・蜂須賀家へ嫁いだ姫たちもまた、鍋姫にまさるとも劣らぬ物語を紡いでいるので、是非ご参加ください。【終了しました】








立花家の歴史に多大な影響を与えた鍋姫の法名は、「法雲院殿龍珠貞照大夫人」。
本来ならば「法雲院さま」と敬称すべきで、「仙台奥様」「仙台奥さん」と気安く呼ぶような感じではないのですが……






参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、作並清亮『伊達略系』(仙台文庫叢書第1集)1905、柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市 【正室鍋姫 50~53頁】、中野等・穴井綾香『柳川の歴史4近世大名立花家』2012.3.31 柳川市 【伊達家との婚姻 330~332頁】、柳川市史編集委員会 編 『柳川文化資料集成第3集-3 柳川の美術Ⅲ』2013.5.24 柳川市 【立花家仏間の位牌 218~233頁】、角田市文化財調査報告書第55集『牟宇姫への手紙3 後水尾天皇女房帥局ほか女性編』2022.3.28 角田市郷土資料館

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必見!激アツ怪異譚!「芸州武太夫物語絵巻」【ネタバレ配慮】

2023/9/1

柳川藩主立花家に伝来した「芸州武太夫物語絵巻」は、全3巻の長さを合わせると、およそ34.5メートルにおよびます。

「芸州武太夫物語絵巻」 江戸時代後期 立花家史料館所蔵

江戸時代に備後国三次(今の広島県三次市)に住んでいた稲生武太夫 イノウ ブダユウ(1734-1803) が、まだ平太郎という幼名を名乗っていた寛延2年(1749)7月に体験した、怪異現象が描かれた絵巻です。



こどもも大人も楽しめる展示のため、立花家に伝来した諸々の美術工芸品を物色していたところ、館長から「オバケの絵巻があるよ」と推薦されました。

描かれているのは、こんなオバケ。


え、超ワクワクするんですけど……


え、予想外の衝撃のラストを迎えるんですけど……


この面白さと驚きを、こどもたちに体験してもらいたいけど、どうしよう?


この絵巻は実録レポです。
旧暦の7月1日から1カ月、全30日間の事件が描かれているからこそ、ラストの衝撃が際立つのですが、長い文章は最後まで読み進んでもらえない可能性があります。

ちょっと、冒頭をみてみましょう。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵)の冒頭

「 彼の武太夫、化物に逢し起りは、十二三歳の頃よりして、勇気なる余りにや…… 」………………。



小学1年生を想定して、伝わりやすい表現に言いかえてみます。
主人公の名前は、「武太夫」より幼名の「平太郎」が良さそうです。

勇気なる余りにや、勇気いっぱい、勇気凜々……勇気りんりん
そうだ!
アンパンマンの絵本をイメージしつつ、絵巻の文章から逸脱しないよう苦心しながら翻案しました。


そして、翻案したテキストを映像化したものが、こちら!

『へっちゃらへいたろう(稲生物怪録)』
You Tube「立花家史料館公式チャンネル」で全巻公開中

*英語の字幕もあります*



絵巻は、畳に座った膝の前に置き、両手で開いて鑑賞します。
肩幅ほどの一場面を読み、読み終わったら巻き込んで、また肩幅ほどを開いて次の場面を読む、の繰り返しで読みすすめる、ひとりじめ形式の娯楽です。

立花家のお殿さまやお姫さまが、私的な空間でひそやかに楽しんでいた絵巻を、全世界に公開して、皆さまと一緒に楽しめる時代になりました。

時代をこえて伝えられた衝撃のラストを、ぜひネタバレ前にご堪能ください。




ここからはネタバレを含みます。




魔王・山本五郎左衛門が負けを認めた、平太郎の勇気。
オバケを倒すのではなく、怪異に惑わされない強さが評価される点が、とても興味深いです。

衝撃のラストで明かされる、勇気ある16歳と根競べして100人に勝つと「魔王のなかの魔王」(原文では「魔王の頭」)になれるという奇妙なシステムや、86人目という絶妙な数字など、この物語には民間伝承の怪異説話とは趣を異にする面白さを感じます。


物語の重要なポイントは、どんな怪異にも動じない平太郎の姿です。
ここを、小学1年生にもしっかり伝えたい。

平気、平気の平左、平気の平太郎……へっちゃら平太郎
響きもよく、強そうです。
脳内BGM「CHA-LA HEAD-CHA-LA」(アニメ「ドラゴンボールZ」主題歌)のおかげで、リズミカルな文章に仕上げられました。




しかし、いったい何故、広島在住の平太郎(16歳)の体験談が、福岡の柳川藩主立花家に伝来した絵巻に描かれているのでしょうか?


実は、「芸州武太夫物語」には原典があります。


平太郎の体験談はいつしか評判となり、平太郎本人が書き留めたり、知人が平太郎から聞き書きしたりと、後年には文書に起こされたようです。
そして、求めに応じて、次々と写本がつくられていきました。
その過程で、絵本や絵巻にも仕立てられ、 怪異の内容や出現順に差異がある異類本も派生していき、さまざまな題名で流布したとみられています。

江戸時代の国学者・平田篤胤(1776-1843)は、平太郎の体験談に強い関心をもち、門人らと諸本の校合整理をすすめ、集成本をまとめさせました。

ちなみに平田篤胤は、国学者として大成する一方、霊界研究にも勤しみ、天狗の仙境で暮らしたという寅吉を取材した『仙境異聞』や、前世の記憶をもつ勝五郎を取材した『勝五郎再生記聞』を著しています。


近代になっても、平太郎の体験談は、いろいろな文芸作品、ときには講談のモチーフとなり、 忘れ去られることなく、多くの人々に愛好され続けました。

今年は平太郎の没後から220年、平太郎の体験談は ≪稲生物怪録≫ と総称され、超長寿人気コンテンツとしてマルチメディア展開がなされる一方、 ≪稲生物怪録≫ を対象とした多角的な研究も深められています。


2019年4月には、≪稲生物怪録≫ の聖地である広島県三次市に、湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)が開館しました。

湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)HP
博物館について > 《稲生物怪録》- 三次の妖怪物語 – より




当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」も、多種多様な≪稲生物怪録≫ のなかの一例です。

ほかの≪稲生物怪録≫ と比べて論じてみたいところですが、登場人物の名前表記に注目するだけでも数系統があり、とても複雑です。



例えば上記映像では、魔王・山本五郎左衛門の名前を「ヤマモト」と読んでいます。
しかし、「サンモト」とルビが振られる例 ほかの≪稲生物怪録≫では、が多く、山本を「サンモト」と読むと魔王っぽさが強まる気がするので、わたしとしては「サンモト」と読んでほしかった……
ですが、当館の絵巻にはルビがないので、ほかの≪稲生物怪録≫ を知らない読み手ならそのまま「ヤマモト」と読む方が一般的です。


逆に、ライバルの真野悪五郎(原文では「真の」)には、わざわざ「まこと」とルビが振られ、原文のままだと「マコトノ」になりますが、 ほかの≪稲生物怪録≫ にならって「シンノ」と読んでいます。


さらに、主人公の名前も、原文は「武太夫」としか書かれていません。
ほかの≪稲生物怪録≫ に例があるので、「武太夫」に慣れ親しんでいたはずの立花家のお殿さまやお姫さまはには遠慮せず、幼名の「平太郎」をひっぱってきました。


※下の画像のピンク傍線箇所を参照。
オレンジ傍線箇所には「魔王」「魔王の頭」と実際に書かれているのでご確認ください。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵) の該当部分



まだまだ注目すべきポイントはあるのですが、諸本を比較検証して≪稲生物怪録≫ の成立を探るような研究は然るべき方々におまかせして、当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」を、絵巻という作品として見てみます。


この絵巻の第一印象は、大名家伝来品にしては質素だな、内容も期待できそうにないな、でした。


もともと、本紙に別紙1枚を裏打ちしただけのラフな表装ではありますが、繰り返し読まれたことを想像させるほど傷み、収納箱も失われてしまっています。
しかし、開いてみると、すっきりとした丁寧な文字に、上品な色彩で巧みに描かれた狩野派系の絵が添えられた、大名家にふさわしい上作で驚きました。


一巻目の前半を絵巻の形で見たい方はコチラ




ほかの≪稲生物怪録≫とくらべると、怪異現象だけを記述する系統になり、シンプルで分かりやすい文章で語られています。
しかし残念ながら、文字も絵も、作者名は記されていません。

巻末は、「武太夫が直接話したことを詳しく書きました」とあっさり終わり、立花家が絵巻を入手した経路も分かりません。


いまのところ、平太郎が仕えた広島藩主浅野家と婚姻を結んだ際に入手した可能性、もしくは、柳川藩士・西原晁樹が平田篤胤門下であったので、その縁で立花家に納められた可能性を考えていますが、どちらも裏付けはありません。


同じく浅野家と婚姻関係がある尾張徳川家にも、江戸時代に描かれた筆者不明の「武太夫物語絵巻」3巻(徳川美術館所蔵)が伝来しているようですが、文章に差違がみられます。

徳川美術館HP
企画展「怪々奇々―鬼・妖怪・化け物…―」(2020.7.18~2020.9.13開催) より


現時点の2例だけでは、検証も不十分です。
「うちにも≪稲生物怪録≫ の絵巻あるよ」という大名家関係者の方、いらっしゃいましたら是非ご教示ください。


難しいことはさておき、 柳川藩主立花家伝来の「芸州武太夫物語絵巻」に描かれたオバケたちは、どれもとてもカワイイ。

立花家史料館の総力をあげて作成した特製おばけカードは自慢の逸品です!


平太郎のHは、ヒーローのH。


参考文献
杉本好伸 編『稲生物怪録絵巻集成』2004.7.1 国書刊行会 、『改訂版 妖怪いま蘇る-《稲生物怪録》の研究-』20133.3.29 三次市教育委員会、杉本好伸 「 《稲生物怪録》資料紹介 徳川美術館所蔵『武太夫物語絵巻』について」(広島近世文学研究会編集『鯉城往来 17号 』2014.12.30 広島大学文学部)

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こちらの鎧をキレイに畳んでご覧にいれましょう!

2023/8/16

今月30日(2023.8.30)19時から、3回目となるオンラインツアー「立花家伝来変り兜と畳胴具足の秘密-変り兜の仕組みを知る・畳胴具足を畳んでみる-」を開催します。 【終了しました】

前回のブログでは「変り兜」の見どころを紹介しました。
よろしければオンラインツアーの予習としてご活用ください。





続いて、オンラインツアーでしか成し得ない「畳胴具足を畳んでみる」を、声を大にして宣伝します。

今回は盛りだくさんの二本立!
「変り兜」と「畳胴具足」について、植野館長が徹底的に解説します。




「畳胴具足」または「畳具足」は、その名のとおり、折り畳める甲冑です。


「畳具足」といえば、足軽などの下級武士クラスがつかう、簡素なつくりの例が多いのですが、大名クラスの「畳具足」も存在します。

今回のオンラインツアーで取り上げるのは、「鉄黒漆塗骨牌鉄繋畳具足」。
柳川藩2代藩主・立花忠茂が島原の乱に持参したと伝わります。


実戦期における大名クラスの「畳具足」と「鎧櫃」の組合せは、ほとんど現存していない作例です。

今回のオンラインツアー付録ブックレットより

では、みなさま。
この畳具足をたたんで、右下の鎧櫃にキレイに収めてご覧にいれましょう!


……ものすごくワクワクしませんか?
実は、学芸員のわたしも、はじめて見ます。
小さな鎧櫃に収まりきらないのではないかと、少し不安です。

折り畳むことは、『文化財の保存』の立場では推奨されません。
したがって、今回のオンラインツアーが最初で最後となります。


兜を折り畳むと、こんな感じ。

今回のオンラインツアー付録ブックレットより

ツアー内では植野館長が実際に、兜から順々に畳んでいきます。畳み方についてリアルタイムで質問できる機会は、このとき限りです。



今回を見逃すと、次の機会はありません。
これは宣伝の誇張表現ではなく、その通りですので、ぜひ今回のオンラインツアーをご覧になっていただきたいと願っております。【残念ながら終了しました】

ここで紹介している解説本はご購入いただけます

◆販売中◆ 解説本『変り兜と畳胴具足の秘密』500円(税込/送料別)強烈なインパクトを見るものに与える立花家伝来の変り兜を詳細に紹介。また、実戦期の究極の甲冑収納術である「畳胴具足」について、畳み方も解説します。◎ B6判 24ページ オールカラー





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変り兜の実例は、現代人の想像より奇なり。

2023/8/13

今月30日(2023.8.30)19時から、3回目となるオンラインツアー「立花家伝来変り兜と畳胴具足の秘密-変り兜の仕組みを知る・畳胴具足を畳んでみる-」を開催します。 【終了しました】


今回は盛りだくさんの二本立!
「変り兜」と「畳胴具足」について、植野館長が徹底的に解説します。


オンラインツアーでとりあげる、立花家伝来の「変り兜」はこちらの4点。

どの兜も、ワクワクする造形です。



それぞれ形はちがいますが、ベース(兜鉢)の構造はだいたい共通しています。
「変り兜」を二次元で説明するのは難しいので、ぜひオンラインツアーにて、三次元の視点でご覧ください。

自由自在なカメラワークで「変り兜」を鑑賞できるのは、オンラインツアーならではの醍醐味です。ライブ中継ですので、カメラの視点のリクエストも、時間が許す限り対応いたします。





◆販売中◆ 解説本『変り兜と畳胴具足の秘密』500円(税込/送料別)強烈なインパクトを見るものに与える立花家伝来の変り兜を詳細に紹介。また、実戦期の究極の甲冑収納術である「畳胴具足」について、畳み方も解説します。◎ B6判 24ページ オールカラー





実は、「変り兜」はとても難しい……

まず、定義が曖昧です。
そして、現存する作例の多くは、制作年代がわかりません。
今となっては、装飾や祭礼のために作られたものも入り混じっているので、実戦で活躍した「変り兜」の姿が隠されてしまっています。

つまり、研究の余地が大いに残されているのです。

そんな「変り兜」、オトナの自由研究にオススメです。
今回のオンラインツアーで「変り兜」の基礎を学べば、これからの人生をかけて楽しめる趣味が手に入ります。

わー、なんてお得! 今すぐ、申し込まなきゃ!



軽率にオススメした手前、「変り兜」の作例を、ちょっとだけご紹介します。
オンラインツアーの予習として、お楽しみください。


大名家伝来の「変り兜」の例として、土佐藩主山内家の伝来品は、数が多く、バリエーションも豊かです 。

高知県立高知歴史博物館の「あなたのかぶってみたい兜はどれ!?(変わり兜の解説)」で、とても楽しく、わかりやすく紹介されています。




また、福岡市博物館では、福岡藩主黒田家だけではなく、家臣の家に伝来した甲冑も定期的に展示されています。
図録に掲載されていない兜にも出会えるチャンスなので、見逃せません。


例えば、「黒漆塗頭形熨斗前立兜」と「鉄錆地桃形鬼面前立兜」


どちらも兜の鉢の形は変化させず、器物の形をした巨大な前立をつけています。
厳密には「変り兜」とは言えないかもしれませんが、十二分にインパクトがあります。

※画像がご覧になれない際はpic.twitter.com/2MT00JXfUr
「 黒漆塗頭形熨斗前立兜・紺糸威二枚胴具足・小具足付」(「黒田家の刀剣と甲冑展」
福岡市博物館 / Fukuoka City Museum X(旧Twitter)@fukuokaC_museum


「鉄錆地桃形鬼面前立兜・紺糸威胴丸具足」
おうちDE楽しめる3D福岡市博物館! (福岡市HP)より



底知れぬ「変り兜」の”沼” に、ようこそ。

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立花宗茂に勝利をもたらした「摩利支天」

2023/5/22

NHK大河ドラマ「どうする家康」第19話(2023年5月21日放送)のオープニングのアニメーションを見た瞬間、テンションがあがりました。


摩利支天だ! 


立花家史料館にとっては馴染みの深い神像なので、どのような扱われ方をするのだろうと、本編を食い入るように見てしまいました。
「どうする家康ツアーズ」恵林寺(山梨県甲州市)の不動明王像(武田不動尊)がとりあげられていたので、それに呼応させたのでしょうか。

*「武田不動尊」について大変興味深い記事がありました。
武田不動三尊像について学術的な新発見が公式発表されました 」(恵林寺HP)/「武田不動尊にかかる新たな発見について」(甲州市HP)



戦国時代、生きるか死ぬかの一瞬を生きた武将たちは、我が身の安泰や一族の存続を切実に願い、九万八千とも数えられた神や仏を頼みにしました。
立花宗茂もさまざまな加護を願っていたことが、残された護符類から推測されます。

特に目を引くのが、宗茂が自身の守護本尊としていた、摩利支天への信仰です。

摩利支天は、陽炎が神格化したもの。光により自らを見えなくする「隠形」の効能を特徴とします。実体のない光は、捕まえられることも傷つけられることもなく、まっすぐに進んでいくのです。
戦国時代には、戦勝の神として、武士たちから篤く信仰されていました。


こちらの掛軸に、三神が描かれています。

立花宗茂が、戦の陣中に持参したものと伝えられてきました。
陣中に持参しやすい感じの、すこし小ぶりの掛軸です。

軍神掛物(部分) 絹本着色 縦61.1×横31.5㎝

当館での過去の展示の様子から、大きさが伝わるでしょうか?

各像の姿や持ち物から判断して、猪に乗った中央の神像は摩利支天、軍馬に乗った甲冑姿の神像は将軍地蔵(勝軍地蔵)、笏を手にした右の神像は、高野山の鎮守である高野明神とみられています。

このような三神の図像は、他にあまり例を見ない組み合わせです。


そして、摩利支天!!

顔が3面、腕が6本ある男神で、弓矢や金剛杵を持ち、1頭の猪の背に座った姿で描かれています。

しかし、NHK大河ドラマ「どうする家康」に出てきたのは女神でした。

実は、摩利支天は古代インドの女神に由来するのですが、日本では平安時代から、男神としても描かれるようになりました。
猪に乗っている姿で描かれる例が多く、猪が7頭に増える場合もあります。
突進する猪の素早さに、災いを払い除けて進む「光」のイメージが重なるのでしょうか。


光といえば、このキラメキ。

現存する立花宗茂の甲冑2領 「鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」には、どちらも大輪貫頭形兜に鳥の羽根で作られた飾り(鳥毛後立)が付いています。


鳥毛後立のキラメキを見るたびに、摩利支天を連想します。


金をつかわず “輝く光” をあらわすのに、このニワトリの羽根はもってこいではないでしょうか。



この鳥毛後立の羽根のキラメキは、展示ケースのガラス越しでは見えにくいので、常々はがゆく思っておりました。
今回のオンラインツアー【終了しました】は絶好の機会です。是非、様々な角度から見るキラメク鳥毛後立をご堪能ください。







◆販売中◆ 解説本『立花宗茂の甲冑大解剖』(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足 )16頁 300円/解説本『立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ(鉄皺革包月輪文最上胴具足)24頁 500円(どちらも税込・送料別)展示室では鑑賞しずらい裏面や細部の拡大写真と詳細な解説。◎ B6判オールカラー ※まとめての購入は送料がオトクです








立花宗茂と徳川家康の年齢差は、約四半世紀。
それぞれ異なる人生を送った二人ですが、神仏を信じるところに違いはなかったかと思うと、とても感慨深いです。


参考文献
高野山霊宝館仏に関する基礎知識:摩利支天」( > 収蔵品紹介 > 仏に関する基礎知識 )、吉田典代「 摩利支天をめぐる言説と美術 : 日天との関わり」(『研究年報』 65号 2019.3 學習院大學文學部)

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