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殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑

2023/3/15

平成28~31年(2016-2019)の修復工事がはじまる頃、(株)御花の古株社員の某氏から、深刻な表情で話しかけられました。

 

某氏「今度の修理では大広間の瓦もやりますか?」

わたし「やります!すべて葺き替えます!これで雨漏りに悩まされなくなりますよ!」

暗い顔の某氏「今の瓦はどうなりますか?」

わたし(古い瓦に愛着があるのかな?)「残念ながら記録を残したら廃棄するしかないですねぇ」

 

さらに暗い顔の某氏「言っていいものかどうか迷うのですが……」

わたし「そんな話こそ聞きたいです!」

 

某氏「あのですね……新入社員の頃に大先輩から聞いた話なのですが」

わたし(ワクワク)

某氏「大広間の建築資材は大阪から船で運んできたそうで」

わたし(口伝だ!大阪から運んだことは報告書でも読んだぞ〔註1〕)

某氏「その船上でですね」

わたし(船上!ワクワク)

声をひそめた某氏「大広間のための瓦が粗悪品とすり替えられたそうなんです……」

わたし(え!!!!)

某氏「木材は建てた後も殿さん〔註2〕の視界に入るけれど、瓦は屋根に載せたら最後、絶対に殿さんの目には入らないからバレない、と」

わたし(すごくもっともらしい!騙され方がとても殿さまっポイ!)

 

某氏「大広間の瓦は、出来が良くないからヒビが入って、だから雨漏りするんですよ」

わたし(これは事実。実際、大広間の瓦は焼き締めがあまく経年劣化が激しいです〔註3〕)

某氏「柱などの木材はすべて立派じゃないですか」

わたし(これも事実。選りすぐりの木材が使われています〔註4〕)

某氏「木材と瓦の品質に差がありすぎるのは、殿さんが騙されたからだと大先輩が言ってました」

わたし(ちゃんと筋が通ってる!信じちゃう!)

 

深刻な某氏「殿さんが騙された話は、おおっぴらには言えないので、今まで黙ってきました」

わたし(えらいな、社員の鑑だな)

とても深刻な某氏「でも、瓦も修理するなら、白日の下にさらされるのですよね……」

 

わたし「安心してください、殿さんは騙されていません。大前提が違ってます」

木材は大阪から取り寄せましたが、瓦は地元の柳川周辺でつくられたものです

某氏「え!!!!そうなのですか?」

「でも、木材はわざわざ遠方から取り寄せたのに、なんで瓦はそうしなかったのですか?」

わたし「それはですね、瓦はとても重く、そして大量の瓦が必要だったからです

当時の輸送力では、遠方から瓦を運ぶのはとても難しく、地産地消となったのです

 

某氏「じゃあ、騙された殿さんはいなかったのですね、よかった……」

 

以上、多少脚色しましたが、実話です。

おそらく御花の大先輩は、目の前のチグハグさを、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、知らずにストーリーを作ってしまったのでしょう。とても興味深い事例です。

そして、殿さんが騙された話は絶妙に面白く、確証がなければ、わたしも完全に否定できなかったかもしれません。

 

会話内の註をくわしく解説しながら、騙された殿さんがいないことを証明します。

 

註2:殿さんは、柳川ではトンさんと読みます。

 

註1:報告書は、国の指定文化財を、国・県・市などから補助金を交付されて修理する場合、修理の前後をきちんと記録に残すために、作成しなければなりません。

(株)御花が主体となって実施した修理工事の報告書は、2007年『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』、2020年『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』の2冊があります。

報告書の作成にあたり、有明高等工業専門学校建築学科教授の松岡高弘氏と(株)河上建築事務所の河上信行氏が中心となって、残された図面や古文書類まで丹念に調査され、その成果も報告書にまとめていただきました。

とても充実した内容の、自慢の報告書です。

 

註3:立花伯爵邸の瓦は、瓦に刻印された地名から、地元柳川でつくられたことがわかります。

現在、全国の瓦の多くは、限定された生産地域でつくられた機械製品です。しかし、昭和初期ころまでは、それぞれの土地で焼かれた手作りの瓦がつかわれていました。

修理前の瓦は、土の耐火度が低いために焼き締めが十分でなく、100年の経年劣化もあわせて、「凍害」「割れ」「欠け」のある瓦が多く見られました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、明治期の瓦に色が近く、耐久性のある瓦をもとめ、瓦の日本三大産地のひとつ、愛知県の三州瓦を約1万3千枚つかっています。

 

註4:立花伯爵邸の材木「御建築用材」の調達は、成清仁三郎さんが請け負い、長崎・大阪・名古屋で材木の市場調査の末、材料や木挽人夫等の手間賃の高騰に困らされながも、ケヤキ・ヒノキ・スギ・ツガ・マキ・タガヤサン等を大阪から納入したことが、残された文書資料からわかります。

ただし、修理で発見された板の摺書には、秋田や宇都宮の地名も見られるので、全国から集められた中で選りすぐりの良い材木を見分したのでしょう。

 

報告書では、刻印や摺書の写真や、ほかの文書資料なども掲載され、註3と註4がさらに詳述されています。

そして、実際の修復工事にて、大型トラックやクレーン車、瓦を屋根に揚げる機械「瓦揚げ機」の活躍を目にすると、100年以上前に人力のみで瓦を葺いた際の労力は計り知れません。

報告書の記録と、修復工事をつぶさに見学した経験から、わたしは確信をもって瓦の疑惑を否定することができます。ですが、歴史を学ぶ必要性を実感する、とても良い教材となりました。

 

参考文献 名勝松濤園修理事業委員会 河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

 

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立花伯爵邸には無いモノを紹介します

2023/3/5

前回の オンラインツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》でよそのお宅をのぞいていると、立花伯爵邸には無いモノが、とても気になりました。

 

学芸員として目の前の作品を解説するとき、無いモノは説明しづらいので、在るモノだけを紹介せざるを得ません。

しかし、無いモノにも、無いことの理由があり、「無い」という特徴になるのです。

そこで、Googleマップ ストリートビューでよその例を挙げながら、立花伯爵邸には無いモノを紹介します。

 

 

立花伯爵邸には、趣向を凝らした天井がありません(ただし、西洋館にはお洒落な天井があります)

 

まずは、重要文化財「旧伊藤家住宅」(福岡県飯塚市)はどうでしょう?

「旧伊藤家住宅」は、筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。

解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビュー

 

北棟「本座敷」廊下が、矢羽 ヤバネ 天井となっています。

柾目の板を斜めにして、V字を連続させたような文様に貼り、錯視効果を狙ったともいわれます。

畳を横使いに敷き詰め、広さが強調される畳廊下は約50mつづきますが、欄間で区切られた、本座敷と次之間の範囲外は、装飾性が低い棹縁 サオブチ 天井です。

※埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

 

趣向を凝らした天井をもつ廊下は、重要文化財「旧岩崎家住宅」(東京都台東区)にもあります。

「旧岩崎家住宅」は、三菱第3代社長・岩崎久彌(1865~1955)の本邸として、明治29年(1896)に建てられました。

洋館と和館がつながる廊下が、船底 フナゾコ 天井です。横にわたされる梁は、岩崎家の家紋にちなんだ三菱紋形に削り出されているそうです。


並べてみると、実際よりも廊下が長く見える効果を狙っているように感じます。

ちなみに、両者の廊下の幅はおおよそ同じです。

 

旧長州藩主の毛利家が大正5年(1916)に建設した重要文化財「旧毛利家本邸」山口県防府市)では、角材を格子に組んだ格 ゴウ 天井が、重厚さを醸しだしています。

格天井(小組格天井)は、この部屋「本館客室(一階大広間)」の格式の高さをあらわします。

向かって左奥、床の間がある部屋は、天井の中央部分を一段高くへこませた折上 オリアゲ 格天井にして、さらに高い格をあらわしています。

Googleマップ ストリートビューではのぞけませんので、実際に訪れた際に是非ご覧ください。

 

 

重要文化財「旧毛利家本邸」は、当主家族が食事をとる部屋「食事ノ間」の天井もスゴイ‼

内側は格天井で、一枠ごとに木目の方向を互い違いに配しています。周囲を囲むのは一枚板なのでしょうか?

 

重要文化財「旧毛利家本邸」では、このように、いたるところで豪奢な木材を堪能できます。

 

例えば、重要文化財「旧毛利家本邸」の、玄関から応接間にいたる廊下は、台湾産の巨大ケヤキの一枚板です。

一枚板とは、大きく育った一本の木から切り出された、継ぎも接ぎもない板のこと。とくに節がなく木目が美しいものは珍重されます。

そして、部屋部屋を仕切る各板戸は屋久杉(神代杉)の一枚板。

 

 

立花伯爵邸には、このような一枚板はありません。

 

もちろん、立花伯爵邸「大広間」や「御居間」の柱や長押に使われているスギ材は、すべて均一な柾目で、とても上等です。

他の部材も、伯爵邸の建築にあたり、選び抜いた大量の高級木材を、大阪から運んできました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、屋根裏にいたるまで贅沢に木材を使っていると、どの大工さんも褒めてくださいました。

 

でも、立花伯爵邸には一枚板は無く、わかりやすいケヤキやヒノキも無いのです。

 

しかし、趣向を凝らした天井一枚板も無いことが、立花伯爵邸の特徴-明るさと軽やかさと新しさ―を、より際立せているとも言えます。

とくに、重厚でゴージャスな毛利公爵邸と、軽妙でスタイリッシュな立花伯爵邸と、それぞれの個性が対照的なのも、大変興味深いです。

 

 

今回は、重要文化財「旧伊藤家住宅」も、重要文化財「旧岩崎家住宅」も、重要文化財「旧毛利家本邸」も、立花伯爵邸と比較するために、ごく微細な点しか取り上げておりません。

どれも本当に素晴らしい建物ですので、Googleマップ ストリートビューでも楽しめますが、ぜひ実際に訪れて、床の間を見て、天井を見て、各部材をイチイチ見て、同行者や周りの人々から不審がられてください。

 

【2013.3.14追記】

浅学のため見逃していました。毛利博物館の柴原館長が、「旧毛利家本邸」の見どころを解説される、贅沢で素晴らしい動画です。レポーターの方がとても羨ましい……

ウチのことではありませんが、強くオススメいたします。

You Tube「防府市公式チャンネル」

『重要文化財 旧毛利家本邸(前編)』(ほうふほっとライン:2021年7月放送)

『重要文化財 旧毛利家本邸(後編)』(ほうふほっとライン:2021年8月放送)

 

 

参考文献 国指定文化財等データベース(文化庁)、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」、毛利博物館(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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オンラインツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。

*ご興味のある方は フレキシブルな「大広間」床の間[前半] [後半] へ

 

最近は床の間のない家が主流で、他人の家の床の間を見る場面もあまりありません。

かと言って、床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も少ない……

床の間に馴染みのない方に文字だけで紹介するのは不親切すぎるけど、どうしよう……

 

そんなときに新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。

立花伯爵邸内のGoogle撮影に立ち会ったのに、すっかり忘れていました。

 

試しに「大広間」東床をのぞくと、画像の拡大も、360°回転も可能です。

※埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にぴったりのメディアではないでしょうか。

現実では不可能ですが、このように東床と西床とを並べてみると、間違い探しが楽しめます。

*東床と西床の詳細が知りたい方は フレキシブルな「大広間」床の間[後半]

 

立花伯爵邸には他にも「御居間」棟に「床の間」があるので、この機会に並べてみましょう!

※現在「御居間」は、柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用されています

 通常の有料見学範囲には含まれておりませんのでご注意ください

 

最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」。

伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

ちなみに、向かって左に見える欄間の意匠は、立花家の家紋のバリエーションの1つ「帆の丸祇園守り紋」です。

 

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。

ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。

*「床の間」専門用語は フレキシブルな「大広間」床の間[後半] で説明しています

*専門用語は煩雑ですので読み飛ばしていただいても構いません。間違い探しのつもりでお楽しみください。

 

 

隣は寛治の書斎であった「鈴の間」。

伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

見えていませんが、向かって右側の欄間の意匠は、これも立花家の家紋のバリエーションの1つである「崩し祇園守り紋」です。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。

 

「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。

伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

向かって左に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。

 

明治31年(1898)に結婚した、寛治の三番目の妻・鍈子の居間が「花の間」です。

伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

見えていませんが、向かって左の欄間の意匠は梅、床の間とあわせて柔らかで、洒落た雰囲気でになっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。

 

 

なんということでしょう!

各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。

その上、視点を変えて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

さっき見た床の間を、隣の部屋へ移る間に忘却し、また戻って見直すなんて、しなくて良いのです。

 

ズラッと「御居間」の「床の間」を並べると、当主を頂点とするヒエラルキーが見えてきます。

柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅だからこそでしょうか?

 

よそのおうちの「床の間」がとても気になります。

 

Googleマップ ストリートビューなら、よその「床の間」も拝見できるのではないでしょうか。

数多くの作例を見るほど『見る目』が養われるはずなので、オンライン上の「床の間」をもっと探さなくては!

その前に、拝見や鑑賞をサラに面白くするため、基準作を定め、それに合わせた“縛り”を決めておきます。

 

今回は明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準作とし、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、オンラインツアーにGO!!

 

 

まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。

解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビュー

 

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。

さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。

*「四分一」?と思った方は”立花伯爵邸たてもの内緒話「知られざる四分一」 “へ

この「本座敷」は襖に凝っていて、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。

 

旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格を下げています。

紙貼り付け壁ですが、「四分一」はつけられていません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱はおそらく鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。

 

旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。

伯爵家から傳右エ門に嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1間の畳床、床柱は赤松の面皮柱、竹の落掛け、竹をつかった亀甲組の床脇天井が見えます。

 

 

次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

 

「全体に伝統的な和風意匠を用いた住宅建築……大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。」と文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』)では解説されています。

 

贅を尽くした旧毛利家本邸を訪問するたびに、わたしはウチ(立花伯爵邸)と比べて勝手にくじけてしまいます。

比較するまでもなく、誰もが豪華さに圧倒されるでしょうが、“11万石外様” “伯爵”というウチを基準とすると、“薩長土肥” “公爵”という格差がより明確に感じられるのです。

感嘆したり、くじけたり、感嘆したりと、おそらく「旧毛利家本邸」で一番忙しく鑑賞しているのは、わたしだと思います。毎度、記憶を上回る豪華さを体感しています。

「旧毛利家本邸」(毛利博物館)を十二分に楽しむために、ぜひ事前に「立花伯爵邸」(立花家史料館)をご見学ください。

※見る順を逆にすると、ウチがしょぼく見えてしまいます……でもウチには「西洋館」がある!

 

 

「旧毛利家本邸」のGoogleマップ ストリートビュー「本館客室(一階大広間)」をのぞいてみます。

 

惜しい!絶妙な画角での撮影で、「四分一」は確認できますが、「床の間」を拝見することができませんでした。

それでも、絢爛さは十分にお分かりいただけますでしょうか。

 

 

最後は、洋館と和館を併設する住宅つながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名ですが、今回は「大広間(和館)」をのぞいてみます。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。

 

この「床の間」の形式は何と言えばよいのでしょうか?

不勉強で申し訳ありませんが、課題として残しておきます。

素人考えで、畳床の畳を縦に使えば、畳を特注しなくて良いので合理的だなと思ってしまいました。

 

 

このオンラインツアー、とても楽しいです。

どの「床の間」も現実で訪れたことがありますが、今すぐ再訪問したくなりました。

様々な知見が得られて、勉強すべき課題も増えましたが、結論は「みんなちがって、みんないい」

 

参考文献 名勝松濤園修理事業委員会 河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」、毛利博物館(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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フレキシブルな「大広間」床の間[後半]

2023/2/22

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の西側の床の間「西床」を復原しました。

★前半からどうぞ★

 

参考としたのは、一枚の古写真と柱や梁に残された痕跡です。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

河上建築事務所による入念な調査の末に、復原のための設計がなされました。

理想としては、元の「西床」の木材を再利用したいところですが、関係者一同、誰も心当たりがありません。ステージの改造は、およそ半世紀前。当時は文化財であるという意識も薄かったので仕方ないと諦めて、新造する設計になりました。

 

修復工事がはじまった頃、わたしは倉庫で横たわった丸太に躓きました。年に5回程しか来ない倉庫なので、毎回忘れて、毎回躓くのです。丸太がなぜここに転がっているのだろう?長くて重くてすごく邪魔……と思った瞬間、ハッとひらめきました。

 

これ「西床」の木材じゃない?!

 

何度も躓いていたのに全く気づきませんでした。きちんと見ると、長さ12尺(3.6m)ほどの鉄刀木 タガヤサンで、ホゾ穴があき、加工されています。東南アジア産の鉄刀木は、漢字のとおり非常に硬くて重い高級木材であり、よく床柱として使われる材です。

 

急いで設計監理の河上先生に報告すると、フレキシブルに設計が変更され、「西床」の床柱として組み込まれることになりました。きれいに洗われて、今では立派な床柱によみがえっています。

見るたびに、これぞ適材適所としみじみ思います。

 

修復工事後に、戦前から立花家・御花に勤めていた番頭さん(故人)が「大広間の床柱と仏間廊下のケヤキ板を床下に入れた」と仰っていたという証言を聞きました。現時点では床下ではなく倉庫ですが、ケヤキ板はちゃんと保管されていますので、ここに記しておきます。

 

よみがえった「西床」の床柱は鉄刀木の面皮柱です。「東床」はどうでしょうか?

 

2017年8月のGoogle撮影時は床框 トコカマチ(床の間の前端の化粧横木)に保護カバーが被せられていますので、こちらもご覧ください。

「東床」修復後

 

ちなみに修復前の「東床」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お分かりいただけますでしょうか?

 

「東床」の床柱は杉の角材です。数寄でも侘びでもなく、まったく面白みはありません。

しかし、この柱は「四方柾 シホウマサ」。四面すべてを細めで均一な柾目 マサメ(まっすぐな木目)にするために、数倍の大きさの丸太から贅沢に切り出された最高級品です。

また、縦の床柱と横の長押 ナゲシ との接点(釘隠 クギカクシ が嵌まっている所)で長押が裏へ回り込む取付き「枕捌 マクラサバキ」や、床框の黒漆蝋色塗 ロイロヌリ での仕上げなど、すべてに手間がかけられています。

 

つまり「東床」は、最も格式が高い床の間としてつくられているのです。

 

ちなみに「西床」は、長押が床柱の正面でとまる「雛留 ヒナドメ」という取付き、床框は拭き漆仕上げとなっていて、一段階ほど格が下がります。

それでも、床の間の畳「畳床」にはサイズ(東床 約390×120cm 西床 約242×95cm)に合わせた大きな特注品(一般的な畳のサイズ 約182×91cm)が使われるなど、シンプルですが贅沢です。

 

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、「東床」の床框も塗り直しました。

実際の作業を拝見すると、木地に透けた漆を塗り、余分な漆を拭き取る工程を繰り返す「西床」の拭き漆仕上げも、木地に油分を含まない漆を塗り、木炭で研ぎ出し、さらに磨いて光沢を出す「東床」の蝋色塗仕上げも、どちらも丹念な手仕事でした。

この艶めき、キズひとつ付けてはならぬ!と心に誓いました。

 

どうか皆さま、実際の「大広間」では、お手を触れずにご鑑賞ください。

 

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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フレキシブルな「大広間」床の間[前半]

2023/2/13

明治43年(1910)築の立花伯爵邸「大広間」の新しさは、まだあります。

★前回の 「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ- からどうぞ★

 

再び、近世の書院造と比べてみましょう。

立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、見比べる相手として勝手に選んでます。

「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の比較点は床の間の逆側なので、3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』「大広間」で、後ろを振り返ってください。振り返ると、畳廊下を挟んで「使者之間」があり、「大広間」から出てしまいます。

 

では、立花伯爵邸「大広間」は?

 

立花伯爵邸の ★ Googleストリートビュー「大広間」で、後ろを振り返ってください。

お分かりいただけますでしょうか?

 

振り返った皆さまがご覧になったのは、こちらの床の間です。

立花伯爵邸「大広間」西床 修復後

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうです、立花伯爵邸「大広間」には、床の間(床・棚・付書院)が2つあるのです。

 

『高山陣屋』のような近世の書院造では、一方向の軸性が強調されます。

他方、立花伯爵邸「大広間」は、南側の庭園「松濤園」を隅々まで見渡せる部屋の配置で、東西に床の間があるので、横の広がりを感じさせます。

 

東の床の間が主であり、西の床の間は、広間を分割して使用する際につかわれたのでしょう。このフレキシブルさが、近代ならではの新しさだといえます。

 

実は、今ご覧いただいている西の床の間「西床」は、平成28~31年(2016-2019)の修復工事によって復原されたものです。

修理前はステージが設けられ、貸会場として「大広間」を利用される際には大活躍していました。

立花伯爵邸「大広間」西側ステージ 修復前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん、明治43年(1910)の建築当初は、写真のような床の間でした。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おそらく昭和50年代(1970年代)に、ステージへと改造されたようです。

床の間 → ステージ → 床の間復原 という変遷を知ると、ステージの時代は不要だったと思われるかもしれません。

しかし、フレキシブルに姿を変えてきた「西床」は、そのまま立花伯爵邸の歴史を反映しているのです。

 

昭和25年(1950)に立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なったことから、収入源を確保するため、立花家は料亭・旅館業をはじめます。そこで「大広間」は、宴会場として地元の人々に頻繁に利用されるようになりました。宴会には余興が欠かせません。需要にこたえて「西床」が解かれ、ステージが設けられたのです。

 

フレキシブルに時代に即した改装などにより、料亭旅館「御花」は創業70年をこえる老舗となり、立花伯爵邸は失われることなく、新築時からの姿を大きく変えずに残されました。

 

築50年は珍しくはありませんが、築100年をすぎると文化財として扱われるようになります。

現に、旧大名家の明治期の住宅が良好に保存されている例は全国的に見ても希少であり、立花伯爵邸をふくめた「立花氏庭園」は、国の名勝に指定されています。

 

文化財となると、今度は「変わらない」努力が求められます。

文化庁の指導に基づき、国・福岡県・柳川市のご協力を賜りながら、適切な維持管理に努めるなかで、「大広間」の修復工事が計画され、そこに「西床」の復原も組み込まれました。

 

文化財建造物の修理の際に、改造前の姿に戻すことを「復原」と言います。一枚の古写真と、柱や梁に残された痕跡をもとに、「西床」がどのように復原されたのか、[後半]でご紹介します。

★後半に続く★

 

参考文献 高山陣屋(岐阜県)

 

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に建てられた立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ-

2023/2/6

立花伯爵邸「大広間」の明るさと軽やかさのヒミツは、修復前の写真にも写っています。

2016年7月 修復工事の直前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お分かりいただけますでしょうか?

 

現代を生きる私たちは、明るくて広い室内空間に慣れすぎているので、驚きなく「大広間」を受け入れてしまいます。

よく畳の数を質問されますが、わたしが宣伝したいのは軽やかな開放感です。

ただし、「大広間」は襖で3室に区切られますが、近年はすべての襖をはずしているので、より開放感が増しております。

 

立花伯爵邸「大広間」は、室町時代にはじまる住宅建築の様式「書院造」をきちんと踏襲し、旧大名家にふさわしい格式を備えています。

 

*「書院造」については『NHK for School』の動画解説 がわかりやすいです

*「書院」とは、本来は呼称のとおりの書斎でしたが、[例:『吉水神社書院』【重要文化財】、『慈照寺東求堂【国宝】NHK for Schoolの動画解説)] 時代が下がると、接客や儀礼の場として使われるようになり、大規模な書院もつくられました。[例:『二条城 二の丸御殿【国宝】、『本願寺書院(対面所及び白書院)【国宝】、『名古屋城 本丸御殿(復元)』]

建築の様式がわかりやすい画像が見られる例を選んでますので、ご興味がある方は各サイトをご覧ください。とくに名古屋城本丸御殿は3Dバーチャルツアー『本名古屋城丸御殿(表書院をスタート地点に設定してます)』も楽しめます。

 

しかし、明治41年(1908)築の立花伯爵邸「大広間」には、近代ならではの新しさもあります。

新しさを実感していただくために、近世の書院造と比べてみます。立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、見比べる相手として勝手に選んでみました。

岐阜県高山市「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高山陣屋はなんと、「測定モード」がある3Dバーチャルツアーが可能です。こちらの 『高山陣屋』「大広間」 をゆっくりご堪能いただいてから、立花伯爵邸「大広間」に戻ってきてきてください。

立花伯爵邸「大広間」修理後の写真ですが、見比べやすいので

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このように並べると、よくわかるのではないでしょうか?

立花伯爵邸「大広間」の縦・横の木材(柱・長押)が細くて、数が少ないのは一目瞭然です。

また障子・ガラス障子・欄間障子が嵌められていて見過ごしがちですが、とにかく壁がありません。

加えて天井も高いので、とても明るく軽やかで開放感がある室内空間となっています。

 

2017年6月 障子の張り替え

2017年7月 細い柱しかありません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この開放感ある室内空間は、建築当時の新技術によって実現できました。明治時代に日本へもたらされた技術の1つ、トラス構造で屋根を支えているのです。

立花伯爵邸「西洋館」「大広間」断面図

 

 

 

 

 

 

 

従来の屋根の構造、いわゆる「和小屋」では、屋根を支える力を下へと流します。他方、三角形のトラス構造「洋小屋」は、力を外に分散させるので剛性が高くなり、各部材をより細く、柱と柱の間をより広くすることができます。

 

例えば、立花伯爵邸と同時代の設計例として木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」(明治36、7年頃 東京都立図書館蔵)をご紹介しますが、斜めの筋交いはあるものの、こちらは「和小屋」です。

木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」(明治36、7年頃)東京都立図書館蔵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在も「和小屋」と「洋小屋」は使い分けられているので、新技術だからといって、日本の屋根の構造が一変した訳ではありません。実際、立花伯爵邸「御居間」棟の屋根は「和小屋」です。おそらく必要な室内空間の広さにあわせて使い分けたのでしょう。

 

立花伯爵邸「大広間」の屋根を、並列する「西洋館」と同じトラス構造としたのは、近世には見られなかった、明るさと軽やかさがある広い空間が求められたからではないでしょうか。

そして、立花家のお歴々は、とても「新し物好き」だったのです。

 

立花伯爵邸の新築から現在までの110年間では、めまぐるしく産業技術が更新され続けていて、最新技術がすぐに古びてしまいます。現代において、伯爵邸の初お披露目のときの新鮮な驚きを追体験するのはとても難しく、自らの知識をタイムスリップさせなければなりません。

上から長々と書きつらねてきたように、時代を遡るための解説がとても煩雑になってしまうのが、このブログの悩みのタネです。

 

つまりは、立花伯爵邸「大広間」が誇る-明るさと軽やかさと新しさ-を、皆さまと共に実感できるようになればと願っております。

 

 

参考文献 NHK for School国指定文化財等データベース(文化庁)吉水神社(奈良県)臨済宗相国寺派銀閣寺(京都府)元離宮二条城(京都府)西本願寺(京都府)名古屋城(愛知県)高山陣屋(岐阜県)木子文庫(東京都立図書館)

 

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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金銀に輝く壁紙にひそむ新旧の技術

2023/1/31

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、経年により変色した「大広間」の壁紙を、新旧の技術で再現して張り替えました。

作業はすべて、今では失われつつある、京都の職人さん【(株)丸二】の技によります。

 

◆ 旧壁紙の剥取

2016年8月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧壁紙の内側(残念ながら重要文書は出ませんでした)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒ずんでいた菱形文様は、蛍光X線分析を主とした調査の結果、真鍮(銅+亜鉛)による金色と銀の2色刷と判明しました。経年により、銀は黒色に、真鍮は銅が緑青化して緑がかった褐色に見えていたのです。

 

2016年9月 福岡市埋蔵文化センターにて

 

◆ 組子の修理

2017年3月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆壁紙の下張り

可能なかぎり旧来の手法を踏襲しましたが、下張りは反故紙を利用せず、新たな和紙を、厚さや糊付けを変えて七重に貼り重ねた上に、本紙を上張りしました。

 

2017年4月 ①骨縛り

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年5月 手前から白・②緑・⑦茶色の和紙が張られています

 

 

 

 

 

 

 

 

張り方によって糊の濃度も変えます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

①骨縛り:厚めの楮紙と濃いめの糊により、組子の暴れと型くずれを防ぐ

②胴張り:虫害や変色につよく、燃えにくい緑色の名塩和紙(雁皮に泥土をまぜた和紙)により、骨が透けて見えるのを防ぐ

③田の字簑:少し濃いめの糊を田の字につけ、緩衝となる空気層をつくる

④簑縛り:楮紙を押さえつけ、壁面化させる

⑤浮け:楮紙により通気のための層をつくり、下地の灰汁を通さない

⑥浮け(二重浮け)

⑦浮け縛り:茶色の機械漉和紙(混入物がない、のびが少ない)により、下が透けず皺がでない

 

◆壁紙の本紙上張り

本紙は越前の手漉き和紙です。和紙を漉くための枠「漉きぶね」も、「大広間」壁紙のサイズに合わせ、通常の襖のサイズよりも大きくなっています。

福井県越前市 やなせ和紙(http://washicco.jp)にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金銀2色の文様はスクリーン印刷、顔料は金属粉よりも変色しにくい、雲母と酸化チタンからつくられる顔料を使いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

福井県越前市 前田加工所にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丈夫な越前の手すき和紙に、新技術で刷られた輝きが、100年後まで変わらずに続いていくはずです。

※新技術は新しいので、まだ100年の実績はないのです

 

壁紙が張り替えられた「大広間」は、とても明るく軽やかで、修復前とは印象がガラリと変わりました。

(株)御花では、この「大広間」を結婚披露宴の会場としても活用していますが、金銀でおめでたく華やかな宴にピッタリ

100年前の建築当初には想定していなかった使い方なのに、先見の明でしょうか……

 

しかし、明るさと軽やかさのヒミツは壁紙だけではありません。ヒミツはまだまだ残されていますので、これから明かしていきます。

2017年6月 畳を敷く前 四分一も見えますか?

100年前の輝きをとりもどした「大広間」

 

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

 

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立花伯爵邸たてもの内緒話「知られざる四分一」

2023/1/26

四分一と書いて、シブイチと読みます。

辞書には、

①4分の1。四半分

② 銅3、銀1の割合で作った日本固有の合金。装飾用。朧銀。

③室内の貼付壁をとめるために周囲に取り付ける漆塗の細い木

と3項目の説明があります。 ※広辞苑・大辞林・大辞泉の記述を要約

 

今回の「四分一」は③の建築で使われる用語です。わたしは、刀装具などの金工品に用いられる②は知ってましたが、③は立花伯爵邸の修復工事を担当するまで知りませんでした。

 

しかし、立花伯爵邸「大広間」を見学された方すべてが、「四分一」をご覧になってるはずです。

立花伯爵邸「大広間」修復前

立花伯爵邸「大広間」修復後(現在)

 

お分かりいただけますでしょうか?

コレです。

壁からはずされた四分一(黒い方、残念ながらこれよりマシな写真はありませんでした)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「四分一」とは、4分×1寸、つまり断面が約12㎜×約30㎜であることに由来する呼称です。建築現場で壁や床などの境目を美しく始末するための「見切り材」の一種で、主に紙や布を貼った貼り付け壁の縁に取り付けられています。

 

実際にご見学いただくのが一番なのですが、修復前・修復後の両写真を凝視すると、各区画の壁紙に額縁のように付けられているのが見えてきませんか?

 

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の壁紙をすべて貼り替えました。

京都から職人さん達が下見に来た際に、わたしは初めて「四分一」を視認しました。何年も見てきて、来館者の皆さまに解説することもあった「大広間」なのに……まことにお恥ずかしいかぎりです。

2016年7月 職人さん・設計監理・現場監督の三者下見

 

 

 

 

 

 

 

 

壁紙を貼り替えると同時に「四分一」も新調するのですが、いくつかの難点が挙げられました。

1 最近は紙の貼り付け壁が激減、さらに「四分一」の施工例は希少で、作業経験のある職人さんも少ない。

2 「大広間」の「四分一」は黒漆塗り仕上げであるが、細長い木材に漆を塗るにはコツが必要。あつかえる職人さんはごく少数のうえ、高齢化している。

3 「大広間」の「四分一」は最長で2メートルをこえるほど長く、必要本数も大量。漆塗りには体力を要し、高齢化された職人さんから避けられる可能性がある。

「再利用しては?」とうかがうと、「四分一」は釘付けされていて、旧壁紙を剥がすには毟りとるように撤去するしかないとのこと。

 

釘? どこに?

下見のおよそ1年後、実際の作業を見てはじめて理解できました。

★★ 四分一の取り付け【釘を隠すための工程】 ★★ 

まず、両端がとがった合釘 アイクギ を、「四分一」の内側に半分打ち込みます。その合釘が仕込まれた「四分一」を、傷が付かないよう当て木をして、紙を張り終わった壁に打ち付けています。

もちろん、ぴったりと納まるように、寸法は現場にて合わせます。

2017年6月 新調四分一のサイズ合わせ

 

 

 

 

 

 

 

「大広間」のすべての「四分一」が、一本一本このように丁寧に取り付けられました。

 

 

壁紙の撤去は修復工事の序盤。畳や瓦が次々に取り除かれ、「大広間」の内部構造が露わになっていきます。

左:剥ぎ取る前、右:剥ぎ取り後 釘隠ではなく四分一をご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年9月「大広間」 壁紙・四分一撤去後

 

 

 

 

 

 

 

はぎとられた四分一(全体のほんの一部です)

 

外された「四分一」の断面を見てはじめて、角が削られる「面取り」加工に気づきました。当然、すべての「四分一」が面取りされています。

 

このような、とても丁寧に工程が重ねられた贅沢さが、大名から伯爵となった立花家400年の歴史の重みだといえます。

 

この贅沢さは、立花伯爵邸の建築の各所に隠れています。

わたしも修復工事の過程でいろいろと再発見しました。

しかし、どれも派手な綺羅びやかさはなく、一見しただけでは分かりにくいのです。

なかなかお伝えすることが難しい立花伯爵邸の見どころを、学芸員として非常にもどかしく思っていましたので、遅ればせながら修復工事の裏話も含めて紹介していきます。

 

【立花伯爵邸たてもの内緒話】は、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのに誰もご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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