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Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》

2023/10/17

ただいま、 オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催) の解説冊子を鋭意作成中です。


立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求しています。

しかし、報告書の作成は平成19年(2007)。新知見も出てきています。


とくに、立花伯爵邸「西洋館」を設計した西原吉治郎については、調査研究が蓄積され、その姿がより明確に見えてきました。


詳細な経歴は下記の文献におまかせして、建築家・西原吉治郎(1868~1935)の経歴をものすごく簡単に3行にすると、

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した

となります。

吉治郎は明治初年生まれ。およそ30歳、40歳、50歳で職場を変えながらも、工手学校在学時からずっと現場でキャリアを積み、建築家として働き続けました。
わたしは勝手に、勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿を想像しています。


優れた先行研究をもとに、現存する吉治郎作品をインターネットにて捜索していたら、興味深い事実をいろいろと見つけてしまいました。


そこで急遽、建築家・西原吉次郎の足跡をたどるGoogleマップツアーを開催!
オンラインツアーのプレ企画として、 お楽しみください。


吉治郎の在籍時に福岡県営繕が手がけた建築活動は、病院や県立学校、郡役所など様々でした。

なかでも、明治33年(1890)9月に「設計及工事監督」を嘱託され、翌年に竣工した「日本赤十字社福岡支部本館」は、吉治郎が最初に設計した本格的洋館であり、のちに設計する「立花伯爵邸西洋館」と共通する点も多かったようです。

*共通点の詳細は、河上信行・松岡高弘「福岡県技手西原吉治郎と雇亀田丈平」(『日本建築学会研究報告』49号 2010.3 日本建築学会九州支部) を参照

残念ながら建物は昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で焼失してしまいました。



ところが、その正門の門柱は焼失を免れ、病院とともに場所を移して再建された日本赤十字社福岡支部の門として、今もきちんと保存されているのです。

日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱 【福岡市登録有形文化財】
高さ3.59m 上部の笠石は別造り 石材は徳山産花崗岩



そして、本来は左右2本ずつ計4本だった門の外側の2本は、久留米赤十字会館ににて門柱としての役を担っています。



これらの門柱と、立花伯爵邸の正門とを見くらべると、

同じバイブスを感じます。

門扉など鉄を素材とした部分は戦時中の物資供出で失われ、戦後に再現されました



立花伯爵家のアルバムを探すと、明治43年(1910)の竣工よりも前、建築工事中の正門の写真も見つかりました。【上段左写真の赤枠内】

まさに、西洋館が”映える”ようにデザインされた門柱ではないでしょうか。



建物の設計者が必ずしも門までデザインするわけではなく、誰の作だと判断する術もないのですが、立花伯爵邸の正門については、当時の寸法図が残されています。

正面門柱の正面図 原寸1/5スケール

ここまで精密に描かれた図面をみると、吉治郎自身がデザインした可能性は十分にあります。

となると、共通する雰囲気をもつ日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱にも、吉治郎の意向が反映されていると考えたいところです。



作例は多いほど楽しいので、吉治郎さんの足跡をさらに辿ってみます。



吉治郎の在籍中に福岡県営繕が手がけた建築には、県立中学校も含まれます。
現時点で吉治郎がどの学校を担当したのかは不明ですが、柳川の伝習館、久留米の明善、福岡の修猷館、京都の豊津、北九州の東筑……
そういえば、我が母校はどうだったっけ?

木造校舎ではありませんでしたが、古めかしい正門があったような気がします。

明治31年(1898)開校の福岡県東筑尋常中学校は、翌年「福岡県東筑中学校」と改称、明治35年(1902)に現在地の新校舎に移転しました。
今の県立東筑高等学校の正門は、新校舎移転時からのものだと推測されます。

「日本赤十字社福岡支部本館」や「立花伯爵邸西洋館」の門柱と、共通する雰囲気があるような……

いずれ確かめに行かねばなりません。



さらに愛知県へと足をのばします。

西原吉治郎は、愛知県では営繕のトップにつき、多種多様な公共施設の設計・工事監督を担当しました。

例えば、吉治郎が新築移転の任にあたった、大正3年(1914)完成の「愛知病院・医学専門学校」の正門がこちら。2基が同じ道路沿いに立っています。

旧愛知県立愛知病院正門及び外塀 【国登録有形文化財】

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀 【国登録有形文化財



ここまで見てきた門柱たちのバイブス、かなり似てなくない?



しかし、趣がちがうデザインの門柱も残されています。

明治村第八高等学校正門【国登録有形文化財】 
昭和45年(1970)愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町より移築

吉治郎を中心とした愛知県営繕が設計を担当し、明治42年(1909)に建てられた第八高等学校の正門が、今は博物館明治村の正門として残されています。

赤煉瓦と白御影石を積んだデザインは、この頃に流行していた「辰野式」を彷彿させます。「辰野式」とは、日本近代建築の父とも称される建築家・辰野金吾が好んで用いた様式のこと。
吉治郎さんの意向ではなく、第八高等学校の設計の基本方針を示したとされる初代校長や文部省営繕課の意向が影響した結果ではなかろうかと、わたしは邪推しています。ただし、根拠はありません。



今回は結局、門だけしか見てきませんでした。
(それでもわたしはものすごく楽しかったです)
もっと西原吉治郎について知りたくなった方は、是非オンラインツアーへ!

オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長がじっくりと解説しながら、ちゃんとご案内いたします。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



建築家・西原吉治郎についての先行研究





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、福岡市文化財HP平成25年度の福岡市指定文化財・登録文化財について」、 文化遺産オンライン(文化庁)、福岡県立東筑高等学校同窓会東筑會HP「母校沿革」文化財ナビ愛知HP(愛知県)、博物館明治村HP

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花伯爵邸「家政局」七変化

2023/9/24

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。

まずは前回の、「大広間」修復工事のビフォーアフターをご確認ください。




そして、「家政局」のビフォーアフターは、こうなりました。

どうして…どうして…




安心してください。

取り戻したかった、100年前の「家政局」の姿は、こちらなのです。

おそらく昭和40年代(1965~75)の「家政局」



ただし、この写真は昭和40年代(1965~75)に撮影されたと推測されるもので、厳密には100年前の姿とは言えません。
実は、「家政局」の昔の写真は、あまり残されていないのです。



明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸は、西洋館・大広間・御居間・御子様御部屋・仏間・御宝蔵・女中部屋などの多くの棟が連なり、廊下で繋がれていました。

立花伯爵邸全域の航空写真 1930~1937年



「家政局」棟は、木造2階建。1階に家政局の事務所と職員の控室が、2階には会議室2部屋と客間1部屋が設けられていました。
もともと家政局とは、伯爵立花家の財産管理などを担う家政機関の名称です。
当時「御役所」と呼ばれていたオフィス棟を、今は「家政局」と呼んでいます。

現在、伯爵邸時代に撮影された「家政局」の外観写真は、撮影日が不明の、この2点しか確認できていません。伯爵立花家の家族が生活する場所ではなかったので、立花家のアルバムに写真が残されなかったのです。



立花家のアルバムに残る「家政局」っぽい室内写真は、今のところコレだけ。
上の2点の外観写真の、高欄の形などから推測しました。

伯爵邸時代の「家政局」?の室内写真
「家政局」は昭和62年(1987)頃にサッシ窓に替えられました。

かわいい。


ですが、伯爵邸時代の「家政局」については、また別のおはなしで。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付




時代はとんで昭和20年(1925)、第二次世界大戦の終結後。
戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なったため、立花家は収入源を確保しようと、 料亭・旅館業をはじめます。

昭和25年(1950)5月、立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。
立花家が伯爵ではなくなると、家政機関は不要となり、「家政局」は役割を失います。


立花家17代目の想い出話では、16代当主・和雄は、空きスペースとなった「家政局」を赤の他人に気前よく貸し出し、そのあげく「家政局」でダンスホールが営業されていた時もあったようです。 *これもまた別のおはなしで。



現時点で最も古い、撮影日が確かな「家政局」の写真は、昭和45年(1970)10月30日、「焼肉とイタリアンスナック 御花 一番館」オープン時のものです。

当時「家政局」は60歳、外観を一変して再出発がはかられました。
墨漆喰の黒壁を、なまこ壁風白壁に変えたところに、当時の流行を感じます。
ただし、骨組は変えていません。



昭和39年(1964)の東京オリンピックと昭和45年(1970)の大阪万博を画期として全国的に整備された交通網が牽引し、マイカーの大衆化や高速道路網の発展が推し進めた観光ブームは、柳川にも波及しました。

はじめは伯爵時代の建物・食器・布団などを贅沢に流用して料亭旅館を営んでいた立花家も、昭和46年(1966)に株式会社 御花となり、観光ブームに乗り遅れないよう設備の充実をはかるようになります。
「家政局」の改装も、その一環でした。



「御花」を訪れる観光客はドンドン増え続け、昭和49年(1974)には10万人、昭和56年(1981)は20万人を突破します。



観光地として大賑わいをみせる「御花」では、ホテル棟やレストラン棟が新築され、代わりに「焼肉とイタリアンスナック御花 一番館」は閉店します。

今度は「御花」の来園受付兼土産物店となった「家政局」。
当時は団体旅行で来園した大勢の旅行客がひっきりなしに出入りして、芋の子を洗うような混雑も見られたようです。

残念ながら、当時の写真はありませんが、修復工事の直前の「家政局」のそこここにも、往時の名残が感じられます。



平成6年(1994)に、ショップ「お花小路」を併設した史料館棟が新築、受付の機能が他に移されたため、再びお役御免に。その後は、株式会社御花の事務所として使われるようになりました。

しかし、現代オフィスには必須の、電気設備も空調設備もネット回線も想定されていない旧「家政局」は使い勝手が悪く、すきま風に煩わされない現代建築への大改装を望む声が日に日に大きくなっていきます。


ちなみに、家政局の別の一区画では、すでに昭和26年(1651)頃から柳川藩主立花家に伝来した美術工芸品が展示されていました。

「立花家史料室」 1970年代の「御花のしおり」掲載写真

史料館棟の新築後は、民具を展示していた時期もあります。



ところが、にわかに「家政局」は見直されます。

福岡県西方沖地震(2005.3.20発生)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)を機にご縁ができた、建築の専門家の方々が、「家政局」の歴史的価値を一目で見抜いたのです。
立花家をはじめとする関係者一同は思いもよらず、大改装も考えていた時でした。

奇跡的に生き残り、築100年にならんとする「家政局」。

全国的にみても、旧大名家の家政機関であった建物は残されておらず、いつの間にか希少な一例となっていました。よそのお宅の「家政局」は、役割を失った際にダンスホールにはならず、すぐに更地にされたのでしょう。



そして平成23年(2011)年、もともと旧立花伯爵邸の敷地【下図青色範囲】は、昭和53年(1978)に「松濤園」の名で国の名勝に指定されていましたが、指定範囲が追加され【下図赤色範囲】、名称も「立花氏庭園」と改められました。

ついに「家政局」も、名勝の重要な構成要素として、文化財に!

たちまち、河上建築事務所の綿密な調査により、「家政局」棟の骨組の大部分が建築当初のまま維持されていることが確認され、改造前の姿に戻す「復原」兼、修復工事が計画されました。


また、工事準備にあたり、昭和末期から「家政局」内で営まれていた社員食堂をふくむ、すべての事務所機能がホテル棟へ移されました。



伯爵邸時代から現在まで、一貫して人が集う場所でありつづけた「大広間」と、それとはまさに対照的に、めまぐるしく役割を変えてきた「家政局」。
それぞれ異なる問題を抱えていましたが、様々なハードルを乗り越え、平成の大修復工事が実施されたのです。



100年前の姿を取り戻した「家政局」。
白い「西洋館」との組合せが映える、クラシカルな美しさをご覧ください。

「家政局」修復および外観復元後 2019年4月

「家政局」の過去を知っていると、実際の3倍ほどステキに見えてきませんか?

わたしは、ここに書ききれなかった伯爵時代からの七変化の詳細を知っているので、実際の7倍ほどステキに見えています。


「家政局」を7倍ステキに見たい方は、是非ともオンラインツアーへ。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。

2023/9/14

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」修復工事(2016-17) では、雨漏り被害が年々拡大していた屋根を全面的に改修して、約1万3千枚の瓦をすべて葺き替えました。

修復工事前 2014年7月

修復工事前の瓦の話はこちら。




現在、全国の瓦の多くは、限定された製産地でつくられた機械製品です。

しかし、昭和初期頃までは、各地の身近な土で焼かれた手づくりの瓦がつかわれていました。筑後地方でも、大正7年頃までの瓦生産は、手作業でした。
「大広間」の瓦は、刻印から、地元柳川でつくられたことがわかります。

修復前の旧瓦は、土の耐火度が低いために焼成が十分ではありませんでした。
そして、100年以上にわたり風雨にさらされ続けてきました。

修理の時点で、ほとんどの瓦は、 瓦に滲みた水分が凍結と融解を繰り返す「凍害」により、割れ・欠け等の破損がありました。


新しく葺く瓦は、日本三大瓦の産地といわれる愛知県三河地方の「三州瓦」をつかいます。

耐久性があり、かつ明治期の瓦となじむ色味に調整できる瓦を探しました。良質の粘土を高温で焼き締めた均質な瓦は、明治期の瓦よりもグンと長持ちするはずです。




はい!
では、これから、 約1万3千枚の瓦を葺き替えていきたいと思います!


まず「大広間」を素屋根で覆います。




2016年7月

それでは、瓦をはずしていきましょう。

2016年8月



これは……土、でしょうか?



まごうかたなく土ですね!



ご覧ください!
こんな大量の土が、「大広間」の屋根に隠されていました……



「大広間」は壁の少ない構造の上に、瓦や土を積んだ重く大きな屋根が架けられた「頭でっかち」だとは聞いていましたが、想像をはるかに超えていました。
これでは非常に重いはずです。

屋根全面に敷きつめた土(粘土に川砂や石灰を混ぜたもの)に、瓦をのせて安定させる工法を、「土葺き」といいます。 昭和20年代までは、この工法が主流でした。これだけの量の土なら、断熱効果も高そうです。
屋根の板の上に杉の皮などの下葺き材を敷き、その上に粘土をのせ、粘土の接着力で瓦を固定するそうですが、こんなに石がゴロゴロあって大丈夫だったのでしょうか。

現在は、葺き土を使用しない 「空葺き」工法が一般的です。


文化財の修復は、本物としての価値を損なわないため、現状維持を原則としますが、今回の修復工事では、「土葺き」を「空葺き」に替え、瓦も旧瓦よりも軽い「三州瓦」をつかいます。

屋根をできるかぎり軽量化して、耐震性を高めるためです。
「大広間」内に出入りする見学者の安全確保を、何よりも優先して決めました。





それでは、こちらのバキューム車で、土を取り除いていきましょう!









「大広間」屋根の土の除去作業
【注意:掃除機に似た音がします】

観光客に配慮して、砂埃が舞わないようバキュームで吸い込みました。土というより礫に近く、手作業で砕かないと吸い込めません。吸引力を高めると、野地板の上に敷かれている杉皮まで吸い込むので、加減が難しかったそうです。

想定以上の大量の土を、なんとかバキュームで吸いあげました。



無事、土もなくなりました!
これからは倍速でお見せしていきます !


細い木で押さえれられていた杉皮が撤去され、野地板 ノジイタ (屋根の下地板)があらわになりました。 さらに野地板もはずしていきます。



垂木 タルキ(棟から軒にかけた斜材)は、なるべく元の木材を残しながら、腐朽した部分を修理しました。



あわせて950枚ほどの野地板を新しく張った上に、「改質ゴムアスファルトルーフィング」(合成樹脂を混合したアスファルトを浸透させた防水紙)を敷いていきます。



ルーフィング(防水紙)の上に縦横に桟木 サンギを打ち付け、針金や釘で瓦を桟木に固定します。



最後にかわいくデコっていきましょう!

立花家の家紋「祇園守紋」があらわされた鬼瓦は、旧瓦と寸分たがわぬよう、焼成後の収縮率を計算した上で、手彫りでつくられました。




はい!完成です!!

2017年8月



ビフォーアフターは、こんな感じ。

なんということでしょう!
ただ瓦が新しくなっただけに見えます。


大量の土が失われ、屋根の重さが激減したことに、いったい誰が気づくでしょうか?(反語)


わたしと吉村さん(現場代理人)と河上先生(設計監理)と、バキューム作業に携わった少人数しか知りえない事実をわかちあった貴方に、ひとつお願いがあります。




立花伯爵邸「大広間」が超重い屋根に耐えてきた100年間を、どうか忘れないであげてください。   



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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かりそめの素敵な素屋根

2023/9/8

工事中の建物を風雨から守るために覆う仮屋根を、「素屋根」といいます。

文化財建築物の修復工事の現場では、各々の事情に合わせ「素屋根」が設営されますが、すべて工事後には解体され、その姿をとどめることはありません。


現在(2023年9月)、Googleマップ航空写真に見る「立花氏庭園」は、「大広間」修復工事中(2016-17) に撮影されていたようです。

国指定名勝の全貌が見えないのは残念ですが、今にいたるまで素屋根の姿が残されていて、わたしはとても嬉しいです。

工事終了後の全貌 は、Googleアースの航空写真で見られます。



現場代理人・吉村さんの頼れる背中

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」工事の現場代理人は、吉村さん。
センス・知恵・経験が豊富で、ものすごく頼りがいがありました。







「大広間」工事の素屋根には、吉村さんの英知がこめられています。



作業足場と素屋根の設営は、修復工事のはじめの一歩。
しかし、その前に大きなハードルがありました。


修復工事と観光の両立です。

民有の文化財である国指定名勝「立花氏庭園」の修復工事は、国・福岡県・柳川市からの補助をうけながら、所有者の株式会社 御花が主体となって実施します。

文化財保護のためには、「安かろう悪かろう」工事は許されません。
民間企業としては、文化財を活用して蓄えた資金を文化財の修復に費やすという運用をストップできないので、営業を続けていかねばなりません。


「大広間」はおよそ110歳、大規模な修復工事は今回が初めてです。

順次建てられた新築時とは異なり、北は「西洋館」、東は「御居間」、南は「松濤園」と密接しています。四方を文化財で囲まれた「大広間」まわりの狭さは、航空写真をみると一目瞭然でしょう。


修復工事中も平常とかわらず観光客を迎えるなか、文化財を傷つけずに工事作業をすすめるため、有識者による「名勝立花氏庭園整備委員会」でも議論が重ねられましたが、観光客の多少の不便は仕方ないという雰囲気でした。しかし、所有者の希望は、お客様ファーストです。


どうする吉村さん!

わたしは今も鮮やかに思い出せます。
工事の落札直後、吉村さんが「素屋根の改良案があるのですが」と言い出された瞬間を。



そして、「松濤園」展望デッキが組み込まれた「素屋根」が設営されたのです。

CNES/Airbus、Maxar Technologies、地図データ ©2023を加工

「工事後も展望デッキは残してほしい」と本末転倒な声があがるほど、大好評を博した展望デッキは、予定を超過して、素屋根を解体するギリギリまで活用され続けました。



素屋根足場に凝らされた吉村さんの工夫は、これだけではありません。


限られたスペースを効率的につかい、台風にも負けない強度となるよう、ブレース構造(筋交い)の枠組を多用したり、防炎シートをスムーズに張れるよう、屋根部分をフラットにしたりと、計算を重ねてています。
天井に半透明部分をスリット状に入れて、採光を確保。全体を覆うのは、内部に熱や湿気がこもらない通気性のシートです。


屋根材としては、トタン板(亜鉛鉄板)やタキロン(硬質塩化ビニール波板)などの候補もありましたが、手間・工期・費用・強度・勾配を総合的に判断して防炎シートに決めたと、吉村さんから聞きました。シートは継ぎ目ができないため、屋根の勾配を緩くできるそうです。


たとえば、福岡県西方沖地震(2005.3.20発生、柳川市は震度5弱)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)の「素屋根」と見比べると、屋根の形やつくり等の差違がわかります。

「御居間」は文化財建物に挟まれてないので、「大広間」まわりより余裕がありました。何より、松濤園のマツの木々との距離にもゆとりがあります。



「大広間」の工事では、どのように工夫してもマツが邪魔してきます。
しかし、素屋根足場の障害物となるマツも、国指定名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素です。文化財の一部として、保護しなければなりません。



マツには少し退いていただくことになりました。


しかし、これを理由に100年かけて育ってきたマツが衰弱したら、困ります。
前年に根回し(根の周囲を切って細根の発生を促す準備)をした上で、 2016年2月に仮移植しました。
「松濤園」には重機が入らないので、すべてが人力作業。とてつもない大仕事でした。

もちろん、工事終了後は、元の位置にきちんと戻っていただきます。

植木職人さんから「戻さなくても良いのでは?」と尋ねられました。
わたしも気持ちが傾きかけましたが、「名勝」とは「眺め」を文化財として指定されているので、指定時の「眺め」から変更することは許されません。
ふたたびの重労働の末、マツは工事前の位置に戻されました。




マツに退いてもらっても、作業スペースは確保できません。


解決策として、「大広間」と「西洋館」の間の中庭、ソテツの上空に作業用ステージを設けました。ここで素屋根のパーツも組み立てています。



しかし、ソテツも名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素
枯らさないため、 日照と雨水を確保できるよう配慮しました。



台風襲来!
嵐が来るぞ、”帆”をたため!!

「計算上どんな台風でも全く問題ありません」という吉村さんの言葉は非常に頼もしかったのですが、台風接近予報のたびに、”帆”をたたみ、ブルーシートで覆う手間はとても大変そうでした。




ふりかえってみると、現場代理人・吉村さんと、設計監理・河上先生と、素敵な「素屋根」とともにあった「大広間」修復工事の日々。



あの素晴らしい「素屋根」をもう一度……とは全く思いません。

2017年3月 
2016年4月発生の熊本地震による災害復旧工事も同時進行していました



かりそめがゆえの美しい想い出。


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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100年前の手仕事が、現代の機械には難しい……

2023/3/25

立花伯爵邸「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的に、平成28~31年(2016-2019)の修復工事は実施されました。
屋根瓦の葺き替えは、現代の機械により省力されましたが、機械化があだになった工程もあります。

とくに「大広間」の内装工事では、100年前の手仕事と、機械化が進んだ現代とのギャップに苦心しました。

金剛砂

例えば、「大広間」のガラス障子の格子模様。
奈良産の金剛砂(柘榴石)を吹きかけて削る、サンドブラストという技法によります。






【修理前】格子模様のないガラスが補完されています

修理工事では、(株)クライミング に、「大広間」のガラスを模造してもらいました。
通常は、ブラスト加工と薬品処理で “表情豊かなガラスを創る” を実現されている会社ですので、単純な格子模様はまったく難しくなかったのですが、意外な落とし穴がありました。

ガラスの厚さです。
明治43年(1910)築「大広間」のガラスは厚さが2mm、現代の一般住宅でよく使われるのは3~6mmなので、すこし薄めです。

この厚さ2mmのガラスに、通常どおり機械で砂を吹きかけると、ガラスが割れてしまいます。
しかし、風圧を落とすと、砂がノズルに詰まってしまう……

「大広間」の建具は厚さ2mmにあわせて作られているので、ガラスを厚くする手もありません。

職人さんも予期せぬ難点でしたが、「割れるな」と念を込めながら微調整を繰り返した結果、100年前の「大広間」のガラスが模造されました。

【修理後】すべて格子模様のガラスが補完されました

それ以上に苦心したのは、やはり「大広間」の壁紙です。




もう一度、修理前の壁紙をご覧ください。

【修理前】「大広間」東床の壁紙

お分かりいただけますでしょうか?

そこここに模様が抜けている箇所があります。

模様が緊密だと息苦しくなるため、適度に空白をつくり、軽やかに仕上げたのでしょう。
とってもお洒落です。

しかし、この空白をつくり出すのが一苦労でした。

京都から来た株式会社 丸二の職人さん達・設計監理・現場監督の三者により検討が重ねられました。

空白に法則性があるかも?と、長時間にわたり壁紙と向きあい続けた職人さん達。
ついには「”寿”という文字が見える!」と口走りはじめました。

あたかもランダム・ドット・ステレオグラムのように、「目を凝らせば見える」と。

ランダム・ドット・ステレオグラム一昔前に流行しましたが、ご存知でしょうか?
わたしは見えた経験は全くないのですが、言われるがままに壁紙を凝視します。


なんとなく”寿”が浮かびあがってくるように感じました……



結局、無作為だろうという判断におちつきました。



元々の「大広間」の壁紙の模様は、版木をつかって擦られたものでした。

株式会社 丸二さんが、版木による色擦りについて、とてもわかりやすい動画を公開されています。

「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)

絵具のせの段階で、のせたりのせなかったりと、無作為にムラをつくったのでしょう。

当時の職人さんの気持ちでつくられた空白には、文字は隠されてないはずです。



壁紙を張り替えるにあたり、この”無作為”が、最大の難点でした。

現代でも動画のように手仕事をお願いできますが、予算をとてつもなく超過してしまいます。

文化財を末永く保存活用していくためには、無尽蔵ではない予算を上手に配分せざるを得ません。
補助金を交付する国・福岡県・柳川市と相談しながら、名勝立花氏庭園整備委員会で修理の方針を決めていきます。



現代の機械をつかって、可能な限り「大広間」の壁紙に近いモノを制作することになりました。
つかう技法は、版木のような凸版ではなく、孔から絵具を通して刷る孔版です。ステンシルや合羽刷りともいいます。

“寿”を空目した職人さんたちにより、バランスよく空白を入れた4パターンの型紙が描きおこされました。

4パターンの型紙 福井県越前市 前田加工所にて

そこに、金銀2色刷と組み合わせることで、意図的に無作為をつくり出しました。(わたしは計算が苦手なので、4パターンの型紙×2色の場合、何通りの模様が出来るのか全く見当もつきません)

金色のみ印刷した壁紙 福井県越前市 前田加工所にて

100年前の手仕事とくらべると、すごく遠回りはしましたが、現代の機械でも、適度に空白のある軽やかな壁紙が出来ました。

【修理後】「大広間」東床の壁紙

わたしには見えませんが、もし”寿”の字が見えた方がいらっしゃいましたら、挙手をお願いします。



参考文献
株式会社クライミング(福岡県みやま市)HP株式会社 丸二(京都府)HPYouTube動画「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑

2023/3/15

平成28~31年(2016-2019)の修復工事がはじまる頃、(株)御花の古株社員の某氏から、深刻な表情で話しかけられました。

某氏「今度の修理では大広間の瓦もやりますか?」

「やります!すべて葺き替えます!これで雨漏りに悩まされなくなりますよ!」

暗い顔の某氏「今の瓦はどうなりますか?」

「残念ながら記録を残して廃棄ですねぇ」(古い瓦に愛着があるのかな?)

さらに暗い顔の某氏「言っていいものかどうか迷うのですが……」

「そんな話こそ聞きたいです!」

某氏「あのですね……新入社員の頃に大先輩から聞いた話なのですが」

(ワクワク)

某氏「大広間の建築資材は大阪から船で運んできたそうで」

(口伝だ!大阪から運んだことは報告書でも読んだぞ〔註1〕

某氏「その船上でですね」

(船上!ワクワク)

声をひそめた某氏「大広間のための瓦が粗悪品とすり替えられたそうなんです……」

(え!!!!)

某氏「木材は建てた後も殿さん〔註2〕の視界に入るけれど、瓦は屋根に載せたら最後、絶対に殿さんの目には入らないからバレない、と」

(すごくもっともらしい!騙され方が、とても殿さまっポイ!)

某氏「大広間の瓦は、出来が良くないからヒビが入って、だから雨漏りするんですよ」

(これは事実。実際、大広間の瓦は焼き締めがあまく経年劣化が激しいです〔註3〕

某氏「柱などの木材はすべて立派じゃないですか」

(これも事実。選りすぐりの木材が使われています〔註4〕

某氏「木材と瓦の品質に差がありすぎるのは、殿さんが騙されたからだと大先輩が言ってました」

(ちゃんと筋が通ってる!信じちゃう!)

深刻な某氏「殿さんが騙された話は、おおっぴらには言えないので、今まで黙ってきました」

(えらいな、社員の鑑だな)

とても深刻な某氏「でも、瓦も修理するなら、白日の下にさらされるのですよね……」

「安心してください、殿さんは騙されていません。大前提が違ってます。木材は大阪から取り寄せましたが、瓦は地元の柳川周辺でつくられたものです

某氏「え!!!!そうなのですか?
でも、木材はわざわざ遠方から取り寄せたのに、なんで瓦はそうしなかったのですか?」

「それはですね、瓦はとても重く、そして大量の瓦が必要だったからです。 当時の輸送力では、遠方から瓦を運ぶのはとても難しく、地産地消となったのです

某氏「じゃあ、騙された殿さんはいなかったのですね、よかった……」

以上、多少脚色しましたが、実話です。


おそらく御花の大先輩は、目の前のチグハグさを、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、知らずにストーリーを作ってしまったのでしょう。とても興味深い事例です。
そして、殿さんが騙された話は絶妙に面白く、確証がなければ、わたしも完全に否定できなかったかもしれません。

註を解説しながら、騙された殿さんがいないことを証明していきます。

まずは、註2:殿さんは、柳川ではトンさんと読みます。


註1
国の指定文化財を、国・県・市などから補助金を交付されて修理する場合、修理の前後をきちんと記録に残すために、報告書を作成しなければなりません。

(株)御花が主体となって実施した修理工事の報告書は、2007年『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』、2020年『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』の2冊があります。

報告書の作成にあたり、有明高等工業専門学校建築学科教授・松岡高弘氏と(株)河上建築事務所・河上信行氏が中心となって、残された図面や古文書類まで丹念に調査され、その成果も報告書にまとめていただきました。

とても充実した内容の、自慢の報告書です。


註3
立花伯爵邸の瓦は、瓦に刻印された地名から、地元柳川でつくられたことがわかります。

現在、全国の瓦の多くは、限定された生産地域でつくられた機械製品です。しかし、昭和初期ころまでは、それぞれの土地で焼かれた手作りの瓦がつかわれていました。

修理前の瓦は、土の耐火度が低いために焼き締めが十分でなく、100年の経年劣化もあわせて、「凍害」「割れ」「欠け」のある瓦が多く見られました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、明治期の瓦に色が近く、耐久性のある瓦をもとめ、瓦の日本三大産地のひとつ、愛知県の三州瓦を約1万3千枚つかっています。


註4
立花伯爵邸の材木「御建築用材」の調達は、成清仁三郎さんが請け負い、長崎・大阪・名古屋で材木の市場調査の末、材料や木挽人夫等の手間賃の高騰に困らされながも、ケヤキ・ヒノキ・スギ・ツガ・マキ・タガヤサン等を大阪から納入したことが、残された文書資料からわかります。

ただし、修理で発見された板の摺書には、秋田や宇都宮の地名も見られるので、全国から集められた中で選りすぐりの良い材木を見分したのでしょう。



報告書では、刻印や摺書の写真や、ほかの文書資料なども掲載され、註3と註4がさらに詳述されています。



実際の修復工事にて、大型トラックやクレーン車、瓦を屋根に揚げる機械「瓦揚げ機」の大活躍ぶりを目にすると、100年以上前に人力のみで瓦を葺いた際の労力は計り知れません。

この修復工事をつぶさに見学した経験と、報告書の記録により、 わたしは確信をもって瓦の疑惑を否定することができます。


ですが、歴史を学ぶ必要性を実感する、とても良い教材となりました。


参考文献
名勝松濤園修理事業委員会 河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花伯爵邸には無いモノを紹介します

2023/3/5

前回よそのお宅をのぞいていると、立花伯爵邸には無いモノが、とても気になりました。





目の前の作品を解説するとき、無いモノは説明しづらいので、在るモノだけを紹介せざるをえませんが、無いモノにも、無いことの理由があり、”無い”という特徴になるのです。

そこで、前回Googleマップストリートビューで訪れた、「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」に在って、立花伯爵邸には無いモノを紹介します。


・立花伯爵邸には、趣向を凝らした天井がありません。


重要文化財「旧伊藤家住宅」(福岡県飯塚市)はどうでしょう?

北棟「本座敷」廊下が、矢羽 ヤバネ 天井となっています。
柾目の板を斜めにして、V字を連続させたような文様に貼り、錯視効果を狙ったともいわれます。畳を横使いに敷き詰め、広さが強調される畳廊下は約50mつづきますが、欄間で区切られた、本座敷と次之間の範囲外は、装飾性が低い棹縁 サオブチ 天井です。

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趣向を凝らした天井をもつ廊下は、重要文化財「旧岩崎家住宅」(東京都台東区)にもあります。
洋館と和館がつながる廊下が、船底 フナゾコ 天井です。横にわたされる梁は、岩崎家の家紋にちなんだ三菱紋形に削り出されているそうです。

並べてみると、どちらも廊下が長く見える効果を狙っているように感じます。
ちなみに、両者の廊下の幅はおおよそ同じです。



旧長州藩主の毛利家が大正5年(1916)に建設した重要文化財「旧毛利家本邸」山口県防府市)では、角材を格子に組んだ格 ゴウ 天井が、重厚さを醸しだしています。

格天井(小組格天井)は、この部屋「本館客室(一階大広間)」の格式の高さをあらわします。
Googleマップストリートビューではのぞけませんが、床の間がある部屋は、天井の中央部分を一段高くへこませた折上 オリアゲ 格天井にして、さらに高い格をあらわしています。



当主家族が食事をとる部屋「食事ノ間」の天井もスゴイ‼
内側は格天井で、一枠ごとに木目の方向を互い違いに配しています。



「旧毛利家本邸」では、いたるところで豪奢な木材を堪能できます。
例えば、玄関から応接間にいたる廊下は、台湾産の巨大ケヤキの一枚板です。 加えて、部屋部屋を仕切る各板戸は屋久杉(神代杉)の一枚板。

一枚板とは、大きく育った一本の木から切り出された、継ぎも接ぎもない板のこと。とくに節がなく木目が美しいものは珍重されます。



・立花伯爵邸には、このような一枚板はありません。


もちろん、立花伯爵邸「大広間」や「御居間」の柱や長押に使われているスギ材は、すべて均一な柾目で、とても上等です。他の部材も、伯爵邸の建築にあたって選び抜いた大量の高級木材を、大阪から運んできました。
平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、屋根裏にいたるまで贅沢に木材を使っていると、どの大工さんも褒めてくださいました。

でも、立花伯爵邸には一枚板は無く、わかりやすいケヤキやヒノキも無いのです。


しかし、趣向を凝らした天井も一枚板も無いことが、立花伯爵邸の特徴-明るさと軽やかさと新しさ を、より際立せているとも言えます。
とくに、重厚でゴージャスな毛利公爵邸と、軽妙でスタイリッシュな立花伯爵邸と、それぞれの個性が対照的なのも、大変興味深いです。



今回は立花伯爵邸と比較するため、重要文化財「旧伊藤家住宅」重要文「旧岩崎家住宅」重要文化財「旧毛利家本邸」の、ごくわずかな部分しか取り上げませんでしたが、どのお宅も見どころ盛り沢山のステキな建物です。
Googleマップストリートビューで楽しんだ後は、ぜひ実際に訪れてはいかがでしょう。

そしてわたしのように、床の間を見て、天井を見て、各部材をイチイチ見て、同行者や周りの人々から不審がられてください。



【2013.3.14追記】
浅学のため見逃していました。毛利博物館の柴原館長が「旧毛利家本邸」の見どころを解説される、贅沢で素晴らしく、とても勉強になる動画です。レポーターの方がとても羨ましい…… 豪奢な木材も十分に堪能できます。

You Tube「防府市公式チャンネル」

『重要文化財 旧毛利家本邸(前編)』(ほうふほっとライン:2021年7月放送)

『重要文化財 旧毛利家本邸(後編)』(ほうふほっとライン:2021年8月放送)



参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸(福岡県飯塚市)、
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビュー (飯塚市提供)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」、毛利博物館(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会、YouTube「防府市公式チャンネル」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。




最近は床の間のない住宅が主流になりつつあります。
床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も多くはありません。
床の間になじみのない方に、テキストだけで説明するのは難しすぎるのだけれど、どうしよう……


そんなときは新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。
立花伯爵邸内のGoogle撮影に立ち会ったのに、すっかり忘れていました。
画像の拡大も、360°回転も可能です。


さっそく、立花伯爵邸「大広間」東床を、のぞいてみましょう!

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ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にうってつけのメディアです。
東床と西床とを並べて、”間違い探し” もできます。

「大広間」東床・西床の詳細を知りたい方はコチラ




ついでに、立花伯爵邸「御居間」棟の「床の間」も並べてみます。

現在「御居間」は柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用され、通常の有料見学範囲には含まれておりませんので、ご注意ください



最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

左上に見える欄間の意匠は「帆の丸祇園守紋」。立花家の家紋「祇園守紋」のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。



ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。



隣は寛治の書斎であった「鈴の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

右をのぞくと見える欄間の意匠は「崩し祇園守り紋」。これも立花家の家紋のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。




「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。
伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左上に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



寛治の三番目の妻・鍈子(明治31年結婚)の居間が「花の間」です。
伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左をのぞくと見える欄間の意匠は梅、やわらかく洒落た雰囲気になっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



なんということでしょう!
各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。
さらに、視点を変えて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

「立花伯爵邸」の「床の間」には、当主をトップとするヒエラルキーが明確にあらわされています。
柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅の特徴でしょうか?



よそのおうちの「床の間」がとても気になる……
数多くの作例を見るほど、「床の間」を “見る目” も養われていくはずです。


明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準に、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、《オンラインツアー「床の間」拝見》にGO!!



まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビューもオススメします*

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。
さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。かわりに襖に趣向が凝らされ、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。

「四分一」?と思われた方はコチラ





旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格が下げられています。紙貼り付け壁ですが、「四分一」はありません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱は鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。 伯爵家から傳右エ門 嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1.5間の畳床、床柱は赤松の面皮柱筍面付、床框は三色黒漆塗の面皮塗残し、丸竹の落掛け。床脇は欅玉杢の一枚地板に亀甲組の天井が見えます。




次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。

文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』) より引用

贅を尽くした旧毛利家本邸では、 誰もが豪華さに圧倒されます。

とくに、先に “11万石” “外様” “伯爵” という「立花伯爵邸」を見ておくと、「旧毛利家本邸(毛利博物館)」が醸し出す ” 36万9千余石 ” “薩長土肥” “公爵” という風格がより強く、はっきりと感じられるので、オススメです。


わたしのイチオシは「旧毛利家本邸」の「本館客室(一階大広間)」。
絶妙な画角で「床の間」が拝見できないのが惜しまれます。
極めてゴージャスなので、ぜひとも現地を訪問して御確認ください。




最後は、洋館と和館を併設した住宅というつながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名です。

「大広間(和館)」の床柱は正角、おそらく杉の四方柾でしょうか。
この部屋の格の高さがわかります。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。*畳床に通常の畳を縦に用いている点が合理的です。



Googleマップツアーって、とても楽しい!
「みんなちがって、みんないい」



「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」の話はコチラにもアリマス





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸HP(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、『飯塚市指定有形文化財 旧伊藤伝右衛門邸修復工事報告書』2007.3.31 飯塚市、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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フレキシブルな「大広間」床の間[後半]

2023/2/22

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の西側の床の間「西床」を復原しました。




参考としたのは、一枚の古写真と柱や梁に残された痕跡です。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

河上建築事務所による入念な調査の末に、復原のための設計がなされました。

理想としては、元の「西床」の木材を再利用したいところですが、関係者一同、誰も心当たりがありません。
ステージの改造は、およそ半世紀前。
当時は文化財であるという意識も薄かったので仕方ないと諦めて、新造する設計になりました。

修復工事がはじまった頃、わたしは倉庫で丸太につまずきました。
年に5回ほどしか来ない倉庫なので、毎回忘れて、毎回つまずくのです。

なぜここに 丸太が 転がっているのだろう?
長くて重くてすごく邪魔……と思った瞬間、ハッとひらめきました。

これって「西床」の木材じゃない?!

きちんと見ると、長さ12尺(3.6m)ほどの鉄刀木 タガヤサンで、ホゾ穴があき、加工されています。東南アジア産の鉄刀木は、漢字のとおり非常に硬くて重い高級木材であり、よく床柱として使われる材です。

急いで設計監理の河上先生に報告すると、フレキシブルに設計が変更され、「西床」の床柱として組み込まれることになりました。



きれいに洗われて、今では立派な床柱によみがえっています。




見るたびに、これぞ適材適所としみじみ思います。


修復工事後に、戦前から立花家・御花に勤めていた番頭さん(故人)が「大広間の床柱と仏間廊下のケヤキ板を床下に入れた」と仰っていたという証言を聞きました。
現時点では床下ではなく倉庫ですが、ケヤキ板もちゃんと保管されていますので、ここに記しておきます。



よみがえった「西床」の床柱は鉄刀木の面皮柱です。
「東床」はどうでしょうか?



2017年8月のGoogle撮影時は床框 トコカマチ(床の間の前端の化粧横木)に保護カバーが被せられていますので、こちらもご覧ください。

大広間「東床」修復後
ちなみに修復前の「東床」

お分かりいただけますでしょうか?

「東床」の床柱は杉の角材です。
数寄でも侘びでもなく、まったく面白みはありません。

しかし、この柱は「四方柾 シホウマサ」
四面すべてを細めで均一な柾目 マサメ(まっすぐな木目)にするために、数倍の大きさの丸太から贅沢に切り出された最高級品です。

また、縦の床柱と横の長押 ナゲシ との接点(釘隠 クギカクシ のある所)での、長押が裏までまわりこむ取付き「枕捌 マクラサバキ」や、床框の黒漆蝋色塗 ロイロヌリ での仕上げなど、すべてに手間がかけられています。

つまり「東床」は、最も格式が高い床の間としてつくられているのです。

ちなみに「西床」は、長押が床柱の正面でとまる「雛留 ヒナドメ」という取付き、床框は拭き漆仕上げとなっていて、一段階ほど格が下がります。

それでも、床の間の畳「畳床」にはサイズ(東床は約390×120cm、西床は約242×95cm)に合わせた大きな特注品(一般的な畳のサイズは約182×91cm)が使われるなど、シンプルですが贅沢です。



修復工事では、「東床」の床框も塗り直しました。

「東床」の蝋色塗仕上げも、 「西床」の拭き漆仕上げも、どちらも丹念な手仕事です。とくに「西床」は、 参考資料が白黒写真しかなかったため、色合わせに苦心しました。

木地に油分を含まない漆を塗り、木炭で研ぎ出し、さらに磨いて光沢を出す「蝋色塗仕上げ」の工程は、古研ぎ→錆繕い・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り鏡面仕上げ。
木地に透けた漆を塗り、余分な漆を拭き取る「拭き漆仕上げ 」の工程は、生漆固め・研ぎ→ 錆下地付・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り。
どちらも下塗り3回に上塗り1回という工程を重ねています。


この艶めき、キズひとつ付けてはならぬ!と心に誓いました。


実際の「大広間」では、どうか、お手を触れずにご鑑賞ください。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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フレキシブルな「大広間」床の間[前半]

2023/2/13

明治43年(1910)築の立花伯爵邸「大広間」が誇る、 “明るさと軽やかさと新しさ” 、その “新しさ” のアピールポイントは、まだあります。




再び、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、 『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手にまた選んでみました。

「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

しかし、今回は床の間の向かい側をくらべます。
お手数ですが、3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』「大広間」(Matterport)にて、ふりかえってみてください。

*実際にふりかえると、畳廊下をはさんで「使者之間」があります。つまり、「大広間」からは出てしまいます*



では、立花伯爵邸「大広間」は? 

立花伯爵邸のGoogleストリートビュー「大広間」 にて、ふりかえってみてください。

お分かりいただけますでしょうか?

ふりかえると見えるのは、こちらの床の間です。

立花伯爵邸「大広間」西床 修復後

そうです、
立花伯爵邸「大広間」には、床の間(床・棚・付書院)が2つあるのです。

『高山陣屋』のような近世の書院造では、一方向の軸性が強調されます。

他方、立花伯爵邸「大広間」は、南側の庭園「松濤園」を隅々まで見わたせるような部屋の配置で、東西に床の間があるため、横の広がりを感じさせます。

東の床の間が主であり、西の床の間は、広間を分割して使用する際につかわれたのでしょう。
このフレキシブルさが、近代ならではの新しさだといえます。



実は、今ご覧いただいている西の床の間「西床」は、平成28~31年(2016-2019)の修復工事によって復原されたものです。

修理前はステージが設けられ、貸会場として「大広間」を利用される際には大活躍していました。

立花伯爵邸「大広間」西側ステージ 修復前

もちろん、明治43年(1910)の建築当初は、写真のような床の間でした。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

昭和42年(1967)ころには、ステージへと改造されたようです。

床の間 → ステージ → 床の間復原 という変遷なら、をみると、ステージの時代は不要だったと思われるかもしれません。
しかし、フレキシブルに姿を変えてきた「西床」は、立花伯爵邸の歴史をそのまま反映しているのです。



昭和25年(1950)に立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なった状況で、収入源を確保するため、立花家は料亭・旅館業をはじめます。

「大広間」は、宴会場として地元の人々に頻繁に利用されるようになりました。
宴会には余興が欠かせません。
需要にこたえて「西床」が解かれ、ステージが設けられたのです。

時代に即したフレキシブルに 改装などにより、料亭旅館「御花」は創業70年をこえる老舗となり、立花伯爵邸は失われることなく、新築時からの姿を大きく変えずに残されました。


築50年は珍しくはありませんが、築100年をすぎると文化財として扱われるようになります。現に、旧大名家の明治期の住宅が良好に保存されている例は全国的に見ても希少であり、立花伯爵邸をふくめた「立花氏庭園」は、国の名勝に指定されています。



文化財となると、今度は「変わらない」努力が求められます。

文化庁の指導に基づき、国・福岡県・柳川市のご協力を賜りながら、適切な維持管理に努めるなかで、「大広間」の修復工事が計画され、そこに「西床」の復原も組み込まれたのです。
文化財建造物の修理の際に、改造前の姿に戻すことを「復原」と言います。


それでは、一枚の古写真と、柱や梁に残された痕跡をもとに、「西床」はどのように復原されたのでしょうか?




参考文献
高山陣屋HP(岐阜県)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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