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〚館長が語る〛女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代

2024/5/3

前回は、7歳で立花城主となった誾千代が、13歳の時に2つ年上の宗茂を婿に迎えるまでのお話しをしました。





今回は、宗茂と誾千代の結婚と二人の立花城時代についてお話ししたいと思います。

大友宗麟 [1530~1587]

元亀2年(1571)、大友宗麟の命により立花城主となった戸次道雪ですが、男子がいなかったため、主である大友宗麟は戸次一門のうちからしかるべき男子を養子として「立花城」の家督を譲るように勧めます。









しかし、道雪はこれを聞き入れず、天正3年(1575)数え年わずか7歳の娘・誾千代に立花城主の座を譲ってしまいます。この相続は大友宗麟と義統も認めたため、ここに幼少の女城主が誕生したのです。

天正三年(1575)五月二十八日
戸次道雪譲状写(部分)【重要文化財】





その6年後、誾千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが高橋紹運の長男であった弥七郎 ヤシチロウ 統虎 ムネトラ、のちの立花宗茂でした。
誾千代と宗茂の婚儀は天正9年(1581)8月と言われています。

こうして、立花城主の座は夫となった宗茂に引き継がれたのです。



二人の婚儀の背景には、騒乱の九州にあって衰退する大友家の家臣として北部九州を守る戸次道雪と高橋紹運が堅固な軍事同盟を結ぶという意義があったのではないかと言われています。

その頃、道雪と紹運はともに筑前筑後の各地で反大友勢力との戦の中にありましたが、宗茂と誾千代の結婚からわずか4年後の天正13年(1585)9月、道雪は筑後北野の陣で没し、翌14年(1586)7月末には紹運の護る筑前岩屋城も九州の統一をもくろみ北上する島津軍との戦いで陥落、紹運も戦死します。



二人の父を相次いで亡くした宗茂と誾千代は、その時19歳と17歳という若さでしたが、立花家を率い、立花城を包囲する島津軍との20日間におよぶ決死の籠城を耐え抜きます。



そして、大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の軍が九州に入るという報を受けて島津勢は撤退を開始し、立花城は危機を脱しました。宗茂はこの機を逃さず、島津方にあった高鳥居城を激戦の末落城させ、岩屋・宝満両城も奪回します。

豊臣秀吉 [1537~1598]

この武功に感じ入った秀吉は、黒田如水、安国寺恵瓊等に宛てた書状で宗茂を「九州之一物(九州一秀でた武将)」と激賞しています。









この軍功により、天正15年(1587)立花家は大友家から独立して筑後柳河に新たな領知を与えられ、大名となったのです。

天正十五年(1587)六月二十五日 豊臣秀吉朱印状【重要文化財】


九州の要衝である立花城は、その後小早川隆景が入ることになり、宗茂と誾千代は筑後柳川城へと移りました。


立花家御城印シリーズ 「立花城」「柳川城」はじめました






若き豊臣大名・立花宗茂は戦巧者としてその名を知られるようになるのですが、そのお話は、次話でご紹介いたしましょう。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/




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