2017/11/17
立花家の人々、立花万起子です。
11月18日開催の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」のレポート記事を綴ります。
柳川古文書館と立花家史料館に協力をいただき、お茶席では掛軸、香合、茶杓を飾りました。この三つの道具について紹介します。
掛軸
立花宗茂書状 中紙二束 (立花家史料館所蔵・柳川古文書館寄託)
改年の祝儀として中紙二束が送られたことへの返礼
釈文
為改年之祝儀
中紙弐束到
来令祝着候
猶立花木工助可
申候 謹厳
正月十一日 宗茂(花押)
読み下し文
改年の祝儀として、中紙二束到来。祝着せしめ候。なお立花木工助申すべく候。謹言
正月十一日 宗茂
宛所はないので誰に送ったものかは不明。宛所は通常左端に書かれますが、折り目とシミの形状からこの書状は端が裁断されたのではないかと考えらます。
中紙とは上質ではない中程度の紙。中紙、祝着という言葉遣いから目下のものへ送った書状と思われます。
宗茂と名乗っていることから1620年以降、柳川に復帰してから書かれた書状のようです。
花押は宗茂の筆ですが、その他は祐筆(ゆうひつ 文書・記録の執筆・作成にあたる職)によるものです。
柳川古文書館
立花宗茂450ブログ 大慈院イベント準備④の記事で古文書について書いています。
香合
貝香合 (立花家史料館所蔵)
江戸時代初期
9.2cm×5.9cm×2.0cm(厚さ)
寛永15年(1638年)または翌16年の家光の下屋敷御成りの際、拝領した香合。
蓋表
底面 中央には雲形の高台
特徴
貝製、蓋表と底面に彫刻。蓋表の窓の中に霊芝、鳳凰、菊流水紋等が浮き彫りにされ、まわりは細かい青海波の地紋。底面には蓋表と同様の文様が施され、中央に雲形の高台。
お茶席では飾っていませんが、外の包みには以下が墨で書かれています。
「貝 / 御香合 / 大猷院様御残し□品 / □□上□□書付在□中」
「大猷院様」:徳川家光(三代将軍)
「御」香合とありますが、御の字がつく場合それは大名が直接使うものをさします。しかし、これは香合として使われたことはおそらくないのではと思われます。細かく彫られた鳳凰の羽や波模様が貝表面に優美な陰影をつくります。400年前のものですが、いまでも美しい輝きをはなっています。
茶杓
一尾伊織作 江戸時代初期 (立花家史料館所蔵)
17.9cm×0.9cm 節下長9.7cm
茶杓と筒 下方に「一庵」と号が書いてある
特徴
竹に透漆を掃く。中節、双樋(節から櫂先にかけて樋が二本通っている)、丸撓(まるく曲がる)、櫂先は丸く蟻腰浅い。節上は鼈甲色、節下は煤竹色。切止めは垂直な一刀下しに面取りを加える。筒は真の筒で面取、墨書銘あり。
作者 一尾伊織 (号 一庵)
作者の一尾伊織は江戸時代初期の旗本で茶人。細川三斎(忠興)の家臣津川四郎左衛門に茶道を学び、三斎流一尾派を創始しました。詳細はGoogle Arts and Cultureの立花家史料館所蔵コレクションのサイトもご覧ください。
「茶杓 一尾伊織作」@Google Arts & Culture
とても繊細なつくりで、自分が普段使う茶杓と比べると華奢です。江戸時代につくられた茶杓はこのように細いものが多かったそうです。節の上下で色つやが異なるところ、櫂先へむけてあらわれる二本の樋が美しいと思いました。
香合や茶杓は実際にお茶席で使うことはできませんでしたが、普段はガラス越しでしか見ることができない収蔵品をイベント参加者の方々には直に見ていただき、宗茂が生きていた400年前の雰囲気を少しでも感じていただけたらと思いました。
タグ: 立花宗茂, 立花家18代目の人々
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2017/10/1
立花家の人々、立花万起子です。
11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。
柳川古文書館へ行ってきました。さすが柳川、お堀の側に建つ古文書館の外観はお蔵のようでなまこ壁が施されていますので、街の雰囲気にとても馴染んでいます。
柳川古文書館
ここには立花家ゆかりの文書が多く保管されています。いつもはガラスケース越しにしかみたことがない文書を、田渕館長の解説付きで実際にいくつか見せていただきました。
見せていただいたものは宗茂の書状で、贈り物に対するお礼を述べています。いつごろ書かれたのか、誰宛なのかなど、この書状からだけではわかりません。しかし、宗茂の花押や使われている言葉から、おそらく宗茂の晩年ごろのもので、目下のものへ送られた書状であるとわかるそうです。またもしかしたら書状は端が切り落とされているかもしれないということが、書状についた折り目やシミの具合で推測できるそうです。
下の方が宗茂の花押
紙に書かれていること以外のこと、折り目、寸法、シミなども文書のことについて色々伝える大切な情報なのだと学び、感動・・・。書かれた時代や人について、今までより立体的に感じることができました。田渕館長、ありがとうございました。
さて、古文書館での見学がイベントとどのような関係があるか・・・。こちらも当日のお楽しみです。
タグ: 立花宗茂, 立花家18代目の人々
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2017/9/2
立花家の人々、立花万起子です。
11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。
私が昔から見慣れている立花宗茂の肖像画は、イベントお知らせのチラシにも掲載しました立花家史料館が持っているものです。お顔が丸くてちょっと色黒で、父(立花宗鑑)に似ているな、といつも思っていました(宗茂が色黒なのは肖像画が古いからかもしれませんが、父の色黒は生まれつきです)。
立花宗茂肖像画(立花家史料館所蔵)
立花宗鑑(十七代目当主、立花財団理事長)
ぽっちゃり丸顔、鼻の形、ちょっと似ていませんか?
大慈院も立花宗茂の肖像画を所蔵しています。イベント当日は大慈院の本堂で宗茂の法要をしますが、そのときに大慈院でお持ちの肖像画をかけていただく予定になっています。
私はまだ実物を見たことがありません。父は以前大慈院の肖像画をご住職に見せていただいたそうです。こちらはすこし面長で色白、男前に描かれているとのこと。京都だとちょっとお公家さんのようになるのかしら、と思ってみたり。
大慈院の肖像画の宗茂さんがどれくらい男前か、どうぞ当日の法要のときにチェックしてください。
タグ: 宗鑑理事長, 立花宗茂, 立花家18代目の人々
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2017/8/2
立花家の人々、立花万起子です。
11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。
この企画は父、立花宗鑑(立花財団理事長)と昨年末くらいから考え始めました。大徳寺塔頭である大慈院の若住職が、どこへでも持ち歩ける竹の茶室「帰庵」をもって、日本各地の自然の中で茶道を楽しまれる記事を読んだことがきっかけでした。
”大慈院・茶道・立花宗茂・450年・・・大徳寺の塔頭でお茶席・・・あこがれる・・・”
そんな思いが頭を巡り、父と一緒に今年の2月にはじめて大慈院さんへ相談にうかがいました。
大徳寺の塔頭でお茶席を使わせていただくことは、茶道のお稽古をしている自分にしてみれば、一生のうちに一度あるかないかの稀な機会。宗茂の生誕450年を記念しての行事ならば、ここで行う意義がある、できれば美しい紅葉の季節であれば「京都感」も高まる!と構想妄想は楽しく順調でした。
そして春から具体的に動き始めました。いろいろと予期していないこともありますが、父と植野館長と、従姉妹で御花の千月香社長、東京の親戚や従姉妹に助けてもらいながら、11月にむけてコツコツと準備しております。
大慈院にはお茶室が二席ありますが、今回は青霄庵(せいしょうあん)を使わせていただく予定です。二面がガラス戸になっている広間は、お部屋にいながらお庭との一体感も味わえる開放的な空間です。紅葉の季節はどんな景色になるか楽しみです。
こちらはお茶室へ向かう路地からの眺め。まだ夏の景色です。
お茶室にある「青霄」の文字は表千家十三代目即中斎によるものです。
タグ: 立花宗茂, 立花家18代目の人々
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2016/11/22
柳川古文書館の白石です。
宗茂の生年
来年2017年が立花宗茂生誕450周年ということですが、これは宗茂が永禄10年(1567)生まれであることによります。
しかし、戦国武将によくあることなのですが、宗茂の生年には永禄10年説以外にも永禄12年説があります(実は宗茂と同年生まれとされる真田信繁(幸村)の生年にも永禄10年説と元亀元年(1570)説があるようです)。
永禄10年説を採るのは「立花事実記」「立斎公御年譜」などで、永禄12年説には『寛政重修諸家譜』や「立斎公旧聞記」などがあります。
では、なぜ今回永禄10年説が採用されているのでしょうか?
実は、宗茂の跡を継いだ忠茂が「亡父七十六才にて死去に候」(「富士谷文書」)と書いた書状が残っていて、宗茂の没年である寛永19年(1642)から逆算すると永禄10年生まれとなるのです。
さらに、写しではありますが、寛永15年(1638)に宗茂が雪斎(十時連貞)に宛てた書状に当時72才である旨が記されていて、この史料からもやはり永禄10年生まれとなります。このように複数の状況証拠から、宗茂の生年は永禄10年としてよいと思われます。
タグ: 立花宗茂
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