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総工費およそ40億円!?延床600坪余の豪邸ルームツアーをオススメする3つの理由

2023/11/26

現在、オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪」 (2023.11.28開催) の二次募集中です。本日23:59締切!
【終了しました】

せっかくの機会に、できるだけ多くの方々にご参加いただきたいと心より願い、今回のオンラインツアーを徹底的にプロモーションします。



1つめの理由

今回のオンラインツアーは、いま流行りのルームツアーです。
しかも、総工費およそ40億円、延床600坪あまりの超豪邸のルームツアーなのです。

是非、下世話な好奇心でご参加ください。

総工費は当時の金額で20万円を超えていました。
当時の1円が現在の2万円くらいの重みがあったという説に基づいて計算すると、およそ40億円となります。
※参考サイト「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?」(金融・経済を楽しく学ぶサイトman@bow
*ちなみに、明治42年(1909)10月に開業した奈良ホテルの建築費は、およそ35万円だったようです。 (『奈良ホテル物語』2016年7月(株)奈良ホテル )



2つめの理由

しかも、ただの豪邸ではありません。
ご案内するのは「立花伯爵邸」”伯爵邸”です。

明治2年(1869)から昭和22年(1947)に廃止されるまで78年間存続した華族制度。明治17年(1884)に華族令が制定され、公・侯・伯・子・男の五爵位により序列化されました。

「立花伯爵邸」は明治43年(1910)に、伯爵立花寛治の住居として建てられました。つまり、今はもう日本に存在しない、伯爵という地位に相応しい品格を備えた豪邸なのです。

そのシンボルともいえる「立花伯爵邸」の「西洋館」は、建築当初からの姿を変えずに残されています。

明治43年(1910)建築当初の「立花伯爵邸」 「正門」から見た「西洋館」

現在の姿を、是非オンラインツアーでご確認ください。



3つめの理由

さらに立花家は、江戸時代を通じて、柳川藩11万石の藩主であった大名家です。「立花伯爵邸」が建てられた場所は、江戸時代には殿さまのお屋敷「御花畠屋敷」がありました。近代に伯爵となった立花家が、藩主として治めていた領地「国元」に建てた、歴史の積み重ねのある豪邸なのです。

「立花伯爵邸」の「大広間」では、大名家の格式に圧倒されます。

現在の「立花伯爵邸」 「大広間」の背後に「西洋館」が見えます



ちなみに、近代に建てられた旧大名家の住居として6件が重要文化財に指定されていますが、明治・大正期に建てられたなかで、「立花伯爵邸」のように、和館と洋館を併置している邸宅が現存している例はありません。

  • 明治17年(1884)旧徳川家松戸戸定邸【千葉県松戸市】和館
  • 明治23年(1890)旧堀田家住宅【千葉県佐倉市】和館
  • 大正5年(1916)旧毛利家本邸【山口県防府市】和館
  • 大正6年(1917) 旧島津家本邸【東京都品川区】洋館
  • 大正11年(1922)萬翠荘(旧久松家別邸)【愛媛県松山市】洋館
  • 昭和4年(1929)旧前田家本邸【東京都目黒区】 洋・和館



伯爵家が名に恥じぬように費用を投じて建設した、
旧大名家の重厚さと、近代の華族の綺羅びやかさとを併せもつ、
延床600坪余の豪邸のルームツアー。

と聞くと、参加したくなって来ませんか?



これまで、実際に福岡県柳川市まで訪問してくださった方々も、安心してください。
通常は未公開のヒミツをお見せしますので、現地をご存知だからこそ、より楽しんでいただけます。



そして、こちらの解説冊子もお手元にお送りいたします。

立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求したつもりです。

A5判32頁と当初の想定よりボリュームは増えましたが、いま解説冊子を読み直していると、お伝えできていない点ばかりが浮かんできます。
取りこぼした話は、こちらのブログでちょこちょこと書いていきますが、まずはオンラインツアーにて、館長直々の案内の補足資料としてご活用ください。



「おはなのうむすび」・解説冊子の発送が、オンラインツアー開催日以降とはなりますが、ツアー参加の申し込みは、まだまだ受け付けていますので、是非!!
※アーカイブ配信もいたしますので、解説冊子は復習にご活用いただけますと幸いです。



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》

2023/10/17

ただいま、 オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催) の解説冊子を鋭意作成中です。


立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求しています。

しかし、報告書の作成は平成19年(2007)。新知見も出てきています。


とくに、立花伯爵邸「西洋館」を設計した西原吉治郎については、調査研究が蓄積され、その姿がより明確に見えてきました。


詳細な経歴は下記の文献におまかせして、建築家・西原吉治郎(1868~1935)の経歴をものすごく簡単に3行にすると、

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した

となります。

吉治郎は明治初年生まれ。およそ30歳、40歳、50歳で職場を変えながらも、工手学校在学時からずっと現場でキャリアを積み、建築家として働き続けました。
わたしは勝手に、勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿を想像しています。


優れた先行研究をもとに、現存する吉治郎作品をインターネットにて捜索していたら、興味深い事実をいろいろと見つけてしまいました。


そこで急遽、建築家・西原吉次郎の足跡をたどるGoogleマップツアーを開催!
オンラインツアーのプレ企画として、 お楽しみください。


吉治郎の在籍時に福岡県営繕が手がけた建築活動は、病院や県立学校、郡役所など様々でした。

なかでも、明治33年(1890)9月に「設計及工事監督」を嘱託され、翌年に竣工した「日本赤十字社福岡支部本館」は、吉治郎が最初に設計した本格的洋館であり、のちに設計する「立花伯爵邸西洋館」と共通する点も多かったようです。

*共通点の詳細は、河上信行・松岡高弘「福岡県技手西原吉治郎と雇亀田丈平」(『日本建築学会研究報告』49号 2010.3 日本建築学会九州支部) を参照

残念ながら建物は昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で焼失してしまいました。



ところが、その正門の門柱は焼失を免れ、病院とともに場所を移して再建された日本赤十字社福岡支部の門として、今もきちんと保存されているのです。

日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱 【福岡市登録有形文化財】
高さ3.59m 上部の笠石は別造り 石材は徳山産花崗岩



そして、本来は左右2本ずつ計4本だった門の外側の2本は、久留米赤十字会館ににて門柱としての役を担っています。



これらの門柱と、立花伯爵邸の正門とを見くらべると、

同じバイブスを感じます。

門扉など鉄を素材とした部分は戦時中の物資供出で失われ、戦後に再現されました



立花伯爵家のアルバムを探すと、明治43年(1910)の竣工よりも前、建築工事中の正門の写真も見つかりました。【上段左写真の赤枠内】

まさに、西洋館が”映える”ようにデザインされた門柱ではないでしょうか。



建物の設計者が必ずしも門までデザインするわけではなく、誰の作だと判断する術もないのですが、立花伯爵邸の正門については、当時の寸法図が残されています。

正面門柱の正面図 原寸1/5スケール

ここまで精密に描かれた図面をみると、吉治郎自身がデザインした可能性は十分にあります。

となると、共通する雰囲気をもつ日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱にも、吉治郎の意向が反映されていると考えたいところです。



作例は多いほど楽しいので、吉治郎さんの足跡をさらに辿ってみます。



吉治郎の在籍中に福岡県営繕が手がけた建築には、県立中学校も含まれます。
現時点で吉治郎がどの学校を担当したのかは不明ですが、柳川の伝習館、久留米の明善、福岡の修猷館、京都の豊津、北九州の東筑……
そういえば、我が母校はどうだったっけ?

木造校舎ではありませんでしたが、古めかしい正門があったような気がします。

明治31年(1898)開校の福岡県東筑尋常中学校は、翌年「福岡県東筑中学校」と改称、明治35年(1902)に現在地の新校舎に移転しました。
今の県立東筑高等学校の正門は、新校舎移転時からのものだと推測されます。

「日本赤十字社福岡支部本館」や「立花伯爵邸西洋館」の門柱と、共通する雰囲気があるような……

いずれ確かめに行かねばなりません。



さらに愛知県へと足をのばします。

西原吉治郎は、愛知県では営繕のトップにつき、多種多様な公共施設の設計・工事監督を担当しました。

例えば、吉治郎が新築移転の任にあたった、大正3年(1914)完成の「愛知病院・医学専門学校」の正門がこちら。2基が同じ道路沿いに立っています。

旧愛知県立愛知病院正門及び外塀 【国登録有形文化財】

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀 【国登録有形文化財



ここまで見てきた門柱たちのバイブス、かなり似てなくない?



しかし、趣がちがうデザインの門柱も残されています。

明治村第八高等学校正門【国登録有形文化財】 
昭和45年(1970)愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町より移築

吉治郎を中心とした愛知県営繕が設計を担当し、明治42年(1909)に建てられた第八高等学校の正門が、今は博物館明治村の正門として残されています。

赤煉瓦と白御影石を積んだデザインは、この頃に流行していた「辰野式」を彷彿させます。「辰野式」とは、日本近代建築の父とも称される建築家・辰野金吾が好んで用いた様式のこと。
吉治郎さんの意向ではなく、第八高等学校の設計の基本方針を示したとされる初代校長や文部省営繕課の意向が影響した結果ではなかろうかと、わたしは邪推しています。ただし、根拠はありません。



今回は結局、門だけしか見てきませんでした。
(それでもわたしはものすごく楽しかったです)
もっと西原吉治郎について知りたくなった方は、是非オンラインツアーへ!

オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長がじっくりと解説しながら、ちゃんとご案内いたします。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



建築家・西原吉治郎についての先行研究





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、福岡市文化財HP平成25年度の福岡市指定文化財・登録文化財について」、 文化遺産オンライン(文化庁)、福岡県立東筑高等学校同窓会東筑會HP「母校沿革」文化財ナビ愛知HP(愛知県)、博物館明治村HP

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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