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肖像画に描かれた初代柳川藩主・立花宗茂の“もみあげ”ふたたび

2025/1/30

令和7年1月15日「立花宗茂公祥月命日 大般若転読祈願法要」が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されました。



この法要は、福嚴寺ご所蔵の初代柳川藩主・立花宗茂の肖像画に見守られていました。

前回お話した立花家史料館所蔵の肖像画とも、京都の大徳寺大慈院ご所蔵の肖像画とも異なる画風ですが、立花家史料館所蔵の肖像画と同じく、印象的な長めの“もみあげ”はしっかりと描かれています。

京都の大徳寺大慈院ご所蔵の「立花宗茂肖像画」についてはコチラ



過去には当館展示室にて、 福嚴寺ご所蔵の肖像画と当館所蔵の肖像画が並んだこともありました。

柳川古文書館と共催した立花宗茂柳川再封400年記念特別展
「復活の大名 立花宗茂」2020.1214~2021.2.7



宗茂が亡くなったのは、 寛永19年11月25日 。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1643年1月15日です。

福嚴寺ご所蔵の「立花宗茂肖像画」は、 宗茂の没後半年がすぎた寛永20年(1643)5月25日に、家老の十時惟保(惟昌)が宗茂の「真影」を写させ、梅岳寺に寄進したものと伝えられます。以来、梅岳寺から福嚴寺と寺名を変えても肖像画は大切に受け継がれ、宗茂公法要の際に掲げられてきました。

描かれているのは、四位以上の正式な礼服である黒い束帯姿に、袈裟を簡略化した牡丹唐草文絡子をかけた、老年の威厳ある宗茂の姿です。
まさに国元の重臣が抱いていた宗茂の「真影」であると感じられます。



現存する幾つかの「立花宗茂肖像画」を見るだけでも、初代柳川藩主・立花宗茂の人物像が多面的であったことが想像されます。

では、現代のわたしたちは、宗茂の人物像にどこまで近づけるのでしょうか?



そんな疑問を抱いた貴方に朗報です‼

2月9日に開催するオンラインLIVEツアー【戦国を駆け抜けた勇将 立花宗茂】は、”立花宗茂”研究を代表するお二人、中野 等氏(福岡市博物館 総館長)と白石直樹氏(柳川古文書館 学芸員)をお迎えして、特別拡大版でお送りします。

◎当日のオンラインツアー内ではチャットにて直接質問ができます!
◎アーカイブ視聴のみの方をふくめ、事前にメールにてご質問を承ります‼ ⇒申込時に登録したアドレスからお送りください。
◎いただいたご質問は、時間がゆるす限りはオンラインツアー内にて回答しますが、時間内に対応できない質問は書面にて回答の上、全参加者の皆さまへお送りします。
ご興味のある方は⇒



今回のオンラインLIVEツアーは、1月8日のNHK『歴史探偵』「戦国ご当地大名シリーズ・立花宗茂」に出演した3名が一堂に会する希少な機会です。
『歴史探偵』放映後に不完全燃焼な想いを抱かれた方々に、 オンラインLIVEツアー【戦国を駆け抜けた勇将 立花宗茂】を強くオススメいたします。

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立花も伊達も毛利も池田もハマった?黄檗文化インパクト!

2024/10/29

2024年10月18日、黄檗宗大本山黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の三棟(法堂・大雄宝殿・天王殿)が文化史的意義の深いものとして評価され、重要文化財から格上げされて『国宝』へ指定されました。

隠元さんが来日した中国明時代末期頃の様式で造られた、ほかの日本の寺院では見かけることのない建築に圧倒されてしまいます。

YouTubeチャンネル「黄檗宗大本山萬福寺」より



この黄檗宗大本山萬福寺公式サイト内「黄檗宗末寺一覧」には、全国およそ460寺の黄檗寺院が紹介されています。


こちらを参考にわたしが数えたところ、黄檗寺院の所在はだいたい、西日本7.5割:東日本2.5割となっているようです。

とくに多いのが、京都、滋賀、福岡、大阪で、大本山萬福寺 がある近畿地方に4割以上が集中していますが、旧柳川藩領を擁する福岡も負けていません。東海地方も少なくなく、関東以北の寺院数は全体1割程度です。承応3年(1654)の来日以降、隠元さんが長崎と京都を往復したり江戸に赴いたりした街道に沿って、その影響が広がっているように感じられます。


これまで黄檗宗寺院とのご縁が薄かった方もいらっしゃるでしょうが、わたし自身は学生の頃に黄檗美術を学び、これまでいくつもの黄檗寺院を拝観してきたので、黄檗文化を知ってるつもりでいました。


しかし、黄檗宗の法式による旧柳川藩主立花家のお盆をのぞき見て、衝撃をうけました。

わが家も禅宗檀家ですが、知らない形のお供えです。
よそさまの宗教的な話題にふみ込むのは躊躇しましたが、法要を終えた立花家の方々に尋ねてみました。



「あれは何ですか?」「おしゃんこんさん たい!」
「もう一度お願いします」「あれは、おしゃんこんさん たい!」
「どんな漢字?」「おしゃんこんさんは、おしゃんこんさんやろうもん!」


旧柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺さんへ伺うと、荘厳さを増した同じお供えがありました。

そっとインターネットで調べました。
⇒慧日山永明寺(滋賀県米原市) HP 「黄檗事典」http://www.biwa.ne.jp/~m-sumita/oubakujisyotop.html

むかって右から青 セイ・黄 オウ・油揚げ・赤 シャク・白 ビャク・黒 コクとならぶ六味の供物は、「上供」と書いて「シャンコン」
中国語です。昔公民館で習った現代中国語の知識が役立ちそうです。


え~

経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残していると聞いてはいましたが……
黄檗寺院の建築や美術工芸品に中国っぽさを感じてはいましたが……

え~


先に渡来した仏教宗派も、そのときどきの中国文化を運んできました。瓦屋根の寺院も、当時は異様だったはずですが、時を経るなかで日本に馴染んでしまいました。400年ほどの空白期間をおいて隠元さんが持ち込んだ、当時最新の仏教と中国文化は、忠茂さんたちに新鮮な驚きを与えたのでしょう。



福嚴寺さんがコチラで、2024年10月13日に厳修された「福嚴開山鉄文禅師の開山忌」についてご報告されています。https://readyfor.jp/projects/fukugonji/announcements/346046

どことなく異国情緒を感じる写真を拝見すると、不謹慎ですがワクワクします。
黄檗宗は経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残しているので、不心得にも法要に参列できるチャンスを虎視眈々と狙っていましたが、願ってもない機会です。


忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

この度は、旧柳川藩主立花家の法要で行われていた、古より伝わる貴重な経典 「八十八 パーシーパー 佛名経」を僧侶7~8名が読経するという特別な機会となります。黄檗宗の読経は梵唄 ボンバイといわれ、中国式の発音による独特の節のあるお経です。他宗派にはあまり見られない太鼓や引磬などの鳴り物が加わることで、音楽のように美しく調和します。深遠な響きが堂内を包み込み、歴史ある空間の中で黄檗宗独特の法要に直接ご参加いただけるまたとない機会です。

お席に余裕があるため、今も参加のお申込ができます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji



黄檗宗の読経「梵唄」 は、黄檗唐音とよばれる近世中国語(明代南京官話) の発音でおこなわれています。

例えば、多くの方が一度は耳にされる普回向「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」は、「願わくは此の功徳を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と訓読されます。そのまま漢文として読むと「がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう」です。

それが黄檗宗では「えんいつこんて ぷぎじいちえ ごてんいちょんせん きゃいこんちんふたう」となります。現代中国語の標準語(普通話)「Yuàn yǐ cǐ gōngdé  pǔjí yú yīqiè wǒ děng yǔ zhòngshēng jiē gòng chéngfó dào 」の発音に近く、知ってるはずの文言が、知らない響きで聞こえてきます。

この違和感を好む人もいれば、好まない人もいるでしょう。

おそらく忠茂さんは、わたしみたいに違和感を楽しむ方だったのでしょう。
目新しさへの興味を契機に、黄檗の禅や文化に傾倒したのではないかと推測されます。


黄檗文化にハマった柳川藩11万石の2代柳川藩主・忠茂と3代藩主・鑑虎。
同じようにハマった大名たちは、ほかにもいました。

多くの僧侶を排出して「黄檗三叢林」と称されたのは、仙台藩62万石藩主・伊達家の両足山大年寺(宮城県仙台市)、 萩藩36万石藩主・毛利家の護国山東光寺(山口県萩市)、鳥取藩32万石池田家の龍峯山興禅寺(鳥取県鳥取市)です。どの寺院も当時の藩主の熱い支援を受けて建立されました。



喜多元規筆 立花忠茂像 部分
立花家史料館所蔵

また、黄檗僧の肖像画「頂相 チンソウ」にならって、自らの肖像画を描かせた大名や旗本も出てきます。
斜め向きに描かれる肖像画に慣れ親しんでいた日本では、正面向きで陰影をつけてリアルに描かれる「頂相」のインパクトは大きかったと想像されます。忠茂も「頂相」 にならった肖像画を描かせていますが、これはまた別のお話で。









福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。
立花も伊達も毛利も池田もハマった黄檗文化インパクトを、体感してみませんか。

参考文献
服部祖承「黄檗宗独特のお経」(大法輪編集部編『禅宗で読むお経入門』1983.10.26 大法輪閣)

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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂③

2024/10/26

義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまった2代柳川藩主・立花忠茂[1612~75]
実は、義祖父・道雪の法名を由来とする寺の宗派と名前も変えているのです。






天正3年(1575)立花山麓(現 福岡県新宮町)にある曹洞宗の花谷山神宮寺に、戸次道雪[1513~85]の継母・養孝院が葬られ、元中2年(1385)からの寺号が立花山養孝院と改められました。つづいて、天正13年(1585)に道雪も葬られ、法名「福厳寺殿梅岳道雪大居士」にちなんだ寺号「立花山梅岳寺」に改められます。


天正15年(1587)宗茂が柳川城主となると、梅岳寺も立花家の香華所として柳川の地へ移されますが、養孝院と道雪の墓はそのまま立花城下に残されました。

改易された宗茂が、柳川から離れていた間の梅岳寺の状況はわかっていません。


元和6年(1620)宗茂が初代柳川藩主として戻ってくると、曹洞宗梅岳寺は柳川城内の中核に復興されます。
ちなみに福嚴寺所蔵の戸次道雪肖像画の賛は梅岳寺3世・大機全雄、立花宗茂肖像画の賛は4世・賢鐵彦良によるものです。


寛文9年(1669)3代柳川藩主・鑑虎[1645~1702]により、梅岳寺は臨済宗黄檗派に転ぜられ、寺号が「梅岳山福厳寺」と改められます。
臨済宗黄檗派は、中国の僧・隠元隆琦[1592~1673]が開いた黄檗山萬福寺(現 京都府宇治市)を本山とします。明治9年(1876)に臨済宗から独立して黄檗宗となりました。
日本でいう「禅宗」は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗ですが、黄檗宗は、経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している点で、他の二宗と大きく異なります。


え!3代柳川藩主・鑑虎? 忠茂の話ではなかったの?


安心してください!

臨済宗黄檗派の梅岳山福厳寺が開かれたのは、2代柳川藩主・忠茂の意向でした。


承応3年(1654)中国・明の高僧である隠元が、招請により弟子たちと来日【忠茂43歳】
寛文元年(1661)徳川幕府のすすめを受け、隠元が中国の自坊と同じ名の「黄檗山萬福寺」を開く【忠茂50歳】
京都の萬福寺には、戒律を重んじる正統な中国臨済宗と厳格な仏教儀礼がそのまま移され、最新の中国生活文化が持ちこまれました。鎖国体制にあった当時、明僧と黄檗寺院は、日本人が接触できる数少ない異文化への窓口となったのです。


寛文5年(1665)前年隠居した忠茂【54歳】は、隠元の高弟・木庵性瑫[1611~84]と、江戸ではじめて面会します。隠元を追って来日した木庵は、この前年に法席を継ぎ、萬福寺2世住持となっていました。面会を機に忠茂は木庵と禅要の問答をくりかえし、延宝3年(1675)には木庵から嗣法するまでに至っています。同年、忠茂は自らの菩提のため、萬福寺に塔頭別峰院(開山は鉄文)を建立しました。

寛文9年(1669)3月 忠茂【58歳】と3代藩主・鑑虎【25歳】は、木庵と木庵の法弟・鉄文道智[1634~88]を江戸屋敷に招き、立花家の菩提寺である曹洞宗梅岳寺を黄檗派に転じて梅岳山福厳寺という新寺を開きたいこと、柳川藩出身の鉄文を開山に迎えたいことを願います。
当時、キリスト教禁制を目的に幕府が寺檀制度を確立させ、新寺の建立を禁止していたので、黄檗寺院の新設には転派や再興という名目が必要でした。

寛文9年(1669)8月求めに応じた鉄文は柳川に入り、福厳寺を開きました。

延宝2年(1674)10月1日 鑑虎による伽藍整備が進み、大雄宝殿、選仏場(禅堂)、禅悦堂(食堂)、方丈などの諸堂と釈迦三尊像、四天王像などの諸仏が開堂開光されました。
鉄文は藩内に次々と黄檗寺院を創建し、後継者たちも福厳寺の末寺を増やしていきます。黄檗寺院創建の波は柳川藩に限らず、日本全国に拡がっていました。



隠元の来日直後から、渡来中国僧との交流を求める大名や上流武士たちが少なくなく、彼らの援助により、およそ90年間で千寺以上の黄檗寺院が建立される勢いがありました。
しかし、後進のため檀家を得ることが難しく、中国僧の来日が途絶えた江戸時代中期には、無住に戻った寺もありました。さらに明治維新や廃仏毀釈により黄檗寺院は半減しますが、柳川藩領の黄檗寺院は明治5年(1872)時でも40ヶ寺を数え、他藩よりも格段に黄檗文化が根付いていたことがうかがえます。



黄檗文化!?

隠元さんが隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚、明朝体、原稿用紙などを持ち込み、日本の文化全般に影響を及ぼしたことは、歴史の教科書で読みました。
実際に、萬福寺や長崎興福寺などを拝観して、中国明朝様式の建造物に圧倒された思い出もあります。
ですが、長い歴史を誇るほかの禅宗をこえて当時の人々を魅了する力が、黄檗文化にあったのでしょうか?



幸いなことに、忠茂、鑑虎、木庵、鉄文がかかわって開かれた梅岳山福厳寺は、現在も立花家の菩提寺として、黄檗宗の法式による供養を続けられています。

江戸時代の大名280家余のうち、藩主が黄檗寺院に埋葬された家は20家ほどですが、一代限りの例がほとんどで、黄檗寺院を歴代の菩提寺とした家は多くありません。なかには明治時代に宗旨を神道に替えた家もあるので、菩提寺として旧大名家とのつながりを保ち続けている黄檗寺院は珍しいのです。
したがって、旧大名家の菩提寺で黄檗宗の法式による供養に参列する機会は、ものすごく希少だと言えます。

たまたま立花家の法要を覗き見する用件がなければ、わたしは今も「経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している」実態を知らないままでした。
今は、黄檗文化に傾倒した忠茂さんたちの気持ちが、とてもよく理解できます。






未知の文化に出逢った衝撃! このトキメキは見らんとわからん!

忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

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戦国の世が過ぎ、体制が安定する手前の、落ち着かない時代を生きた忠茂さん。
宗茂の祖業を懸命に継ぎながら、時に福嚴寺を開いたり雷切丸を譲ったりと大胆さをみせるギャップが、大変興味深いです。



参考文献
錦織亮介「第4項 黄檗文化への傾倒」86-98頁(柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』2007.3.22 柳川市)、穴井綾香「黄檗禅への帰依」44-45頁(  柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市)

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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂①

2024/9/30

2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。

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忠茂が亡くなったのは、延宝3年9月19日。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1675年 11月6日です。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



それでは、立花忠茂[1612~75]ってどんな人?

慶長17年(1612)7月7日 
立花宗茂の弟・直次の4男として誕生。即日、宗茂の養嗣子に。
元和8年(1622)12月27日 元服寛永7年(1630)永井尚政の娘・玉樹院と祝言、同11年12月死別
寛永14年(1637)12月~翌2月末
島原の乱に参陣 ⇒註1

寛永16年(1639)4月3日
家督を相続、2代柳川藩主に。
正保元年(1644)伊達忠宗の娘・ 法雲院と祝言⇒註2
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、11月20日剃髪し「好雪」と号す。
延宝3年(1675)9月19日没 享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」



註1:忠茂が島原の乱に持参したと伝わる甲冑の話はコチラ

島原の乱は、忠茂が生涯で参陣した唯一の戦となりました。



註2:いろいろあった忠茂の結婚事情の話はコチラ



そして、忠茂と「雷切丸」の話。
実は忠茂は、義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまったのです。

とは言うものの、渡した相手は吉弘家を継ぐことになった息子の茂辰。
藩主になれない息子に、祖父・道雪ゆかりの「雷切丸」を譲った忠茂の心情は理解できます。
しかし茂辰は早世。遺品分与されそうになった「雷切丸」は、弟の茂堅が「大切の御重宝」として、自らが継いだ矢嶋家にて伝えることにしました。
そして宝暦9年(1759)、「雷切丸」は矢嶋家から7代藩主・ 鑑通へ進上され、再び柳川藩主立花家に戻ってきます。

「雷切丸」が離れていた期間は、およそ100年くらいでしょうか。
帰ってきた「雷切丸」の存在価値は、偉大なる祖父の愛刀として扱っていた忠茂の頃よりも、ずっとずっと増していました。
以来、「雷切丸」は立花家で大切に伝えられ、現在は立花家史料館が所蔵しています。



その「雷切丸」は今、雷を切った因縁の地「大分県」へ出張中。

2024年11月10日(日)から臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!~義を貫いた武将、戸次道雪・高橋紹運・立花宗茂~」展にて展示される予定です。(~12月22日)


臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!」
2024.9.29-12.22 チラシ


2代柳川藩主・忠茂のエピソードを紹介してきましたが、まだまったく語り尽くせていません。
次回こそが本題となりますので、乞うご期待!




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写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式

2024/8/2

立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……【終了しました】



わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。

明治7年(1874)12月29日、鑑寛は当時17歳の息子に家督を譲ります。さらに明治11年(1878)には東京を離れ、柳川に戻ってきました。
現在の国指定名勝「立花氏庭園」内に建てた屋敷にて、和歌や能などの趣味に邁進していたようです。


亡くなったのは明治42年(1909)2月24日、享年80でした。

葬儀は3月3日、立花家の菩提寺である福厳寺(福岡県柳川市)で厳かにとりおこなわれました。
残っている記録をみると、式場用の椅子机を借り入れたり、大導師以下各参列寺院の席次や受付などの役割を決めたりと、大がかりだったことが分かります。


115年前に撮影された、最後の柳川藩主のお葬式。

まず気になるのは、仮設の屋根。
今でも野外の行事に欠かせない仮設テントが、当たり前ですが藁葺きです。
祭壇は本堂を背にする位置に、南側の天王殿に相対して設えられています。
何よりも、すべて屋外でおこなわれるようです。



鑑寛の長男・寛治とその妻・鍈子が、それぞれ焼香をすませました。

寛治さんは洋装の礼服を着ているように見えます。
鍈子さんは和装の喪服でしょうか?白い喪服‼

「同令夫人御焼香済御復席」 拡大 白い喪服姿の令夫人

中央に鎮座する屋根付の六角柱は、鑑寛さんの棺でしょうか?



12代藩主 鑑寛については、この葬儀以外の写真は確認されていません。
肖像画も伝来していないので、オンラインツアーでじっくりとご覧いただく「徳川将軍参内式列画巻」の中に描かれている姿が、おそらく唯一の鑑寛像です。

実は、この絵巻を開いて見たことがある人は、ほんの少数。

立花家史料館蔵「徳川将軍参内式列画巻」

わたしも未見ですので、ワクワクしながらオンラインツアーを待っています。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。


【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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