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河上信行氏と国指定名勝「立花氏庭園」

2024/1/11

わたしのブログ初投稿から、ちょうど1年が経過しました。


当初は、美術工芸品を専門とする学芸員として、当館所蔵品を次々と紹介しようと考えていましたが、ふりかえると、自分勝手に【立花伯爵邸たてもの内緒話】と銘打った、 国指定名勝「立花氏庭園」内の建物の話がメインとなってしまっています。

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。



専門外のわたしが、なんとか建物を解説できているのは、修復工事などの庶務を担当するなかで、河上先生から薫陶を賜ってきたからです。



河上信行氏[株式会社河上建築事務所 所長] は、平成17年(2005)3月に発生した福岡県西方沖地震による災害復旧工事の設計監理を皮切りに、国指定名勝「立花氏庭園」内の文化財建造物と真摯に向きあい続けてくださいました。
本当に、令和3年(2021)1月11日に他界されるまで、ずっと。


河上先生による徹底的な調査と、それを基とした設計図面の作成をもって、平成28年度(2016)に「名勝立花氏庭園大広間・家政局修理工事」がはじまります。

しかし、その着工直前の平成28年(2016) 4月に熊本地震が発生。

予定を変更することなく修理工事を進める一方で、熊本地震で受けた被害状況の調査から修理まで請け負ってくださいました。本当に心強かったです。



床下から天井裏まで、「立花氏庭園」の文化財建造物のなかで、河上先生が知らない柱は1本もないといっても過言ではありません。


庶務をつとめはじめた頃のわたしは、「縦の棒が柱で、横の棒が梁」レベルの知識しかなく、専門用語の多い早口な河上先生のお話を、2割くらいしか理解できない不甲斐なさでした。

そのわたしが今、多少なりとも建築について書けているのは、未熟者を見捨てず、慌ただしい現場でトンチンカンな質問してもご教示くださった河上先生のオカゲであり、先生が残してくださった2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』 のオカゲです。



令和2年(2020)3月に、河上建築事務所 編集『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』が無事に発行された後、河上先生は、お手元に蓄積されていた「立花氏庭園」関連のすべての膨大なデータ、 調査で撮影した写真や自身が作成した図面、工事関連の事務書類などを、丁寧に整理してまとめた上で、譲り渡してくださいました。

「自由に使ってください」
「え~いいんですか?大変大変ありがたいです。有難うございます。じゃあ、必ず先生の名前を出しますね」
「いりません、名前なんか出さなくて結構です」

というやりとりの末、とても心苦しいのですが、河上先生のこだわりの美意識を尊重しています。
逐一明記はしてきませんでしたが、図面はもちろん、写真についても河上先生の助けを大いにお借りすることで、 【立花伯爵邸たてもの内緒話】 は成立できているのです。



河上先生に頼りきりながら 【立花伯爵邸たてもの内緒話】を書き続けている根源には、河上先生の言葉があります。

「立花家が苦労して維持してきた御花は、柳川の個性であり、歴史です。ここまで残されてきたのは、立花家のみならず柳川の人々が愛情を持っていたからだといえます。心の拠り所にしてきたからこそ、子孫のために残したいと思う。文化財はその地域の人々に愛されてこそ守られていくのです」

建築への興味が薄かったわたしが、建築の知識や修復工事の苦労話など、知れば知るほど立花伯爵邸への愛情を増やしてきたように、ブログを読んだ方が「立花氏庭園」に関心を抱き、もっと知りたい、実際に行ってみたいと思ってもらえれば、とても嬉しいです。



『OHANA Story』2006年夏号 (株)御花作成 より

「歴史の蓄積を感じさせる、品格のある建物」

・江戸時代からの流れを継ぐ大名屋敷でありながら、内部には明治期以降の近代和風建築技術が随所に見られ、そのバランスこそが正統な品格を醸し出している。

・文化財的価値として特筆すべきは、接客空間である西洋館と大広間だけでなく、立花家家族たちの寝室であった小部屋棟、事務方が使っていた御役間という内向きの建物が残っていること。明治期の大名屋敷が、機能別に残っているのは稀。

河上先生による立花伯爵邸の評価



河上先生の理念は、常に一貫していました。

「文化財の宿命的な課題が、保存と活用です。こと、建物に限っていうと、活用されてこそ後世に受け継がれていくのではないでしょうか。」



河上先生から託されたバトンを、次へと渡していけるよう精一杯がんばります。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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上げ下げ窓を上げ下げする機構

2024/1/8

前回にて繰り返しご覧いただいたように、明治43年(1910)築の立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、とても軽やかに上げ下げできます。




立花伯爵邸西洋館の窓はどれも大きいので、その重さを想定しながら窓を開けようとすると、肩透かしを食らいます。


名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』より



どうしてこんなに軽いのでしょうか?

わたしには、なんの変哲もない木造の窓枠に見えます。



株式会社 御花は、平成25年から27年(2013~15)の3ヵ年にわたり、外壁のペンキの塗り替えを主とする、西洋館のメンテナンス工事を実施しました。災害復旧にくらべると急を要しないため、閑散期である夏季に集中して施工されました。



外壁だけでなく、窓の状態もかなり悪化していたので、西洋館のすべての窓を取り外して、点検・修理をしていきます。

メンテナンス工事前 左下隅のガラスが抜けています

窓を取り外している現場では、予期せぬ”力技”に驚きました。

※5倍速です



作業のお邪魔にならないよう注意して、もう少し近寄ってみます。
(手ブレがひどく、ピントがズレている点はご容赦ください)

※音声注意

あらこんなところに、紐と錘と……滑車?



ヒミツはここに隠されていました!



立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、「分銅式」の錘(おもり)を用いた機構により、上下の窓がどちらも自在に動かせる「両上げ下げ窓」です。
窓と同じ重さの分銅とがバランスをとることで、小さな力での開閉や、開閉状態の固定が可能になっています。窓枠に仕組まれた分銅は、窓枠上部に取り付けられた滑車を介して、窓の両側とロープで繋がり、窓が分銅で吊るされたような形になっているのです。

実際、メンテナンス工事の際に錘を量ると、およそ4.5kgほどでした。つまり、窓1枚の重さは4.5×2=9kgとなります。



立花伯爵邸西洋館の各窓枠には、上下2枚の窓と、ロープでつながる4つの分銅が収まっていますが、100年が経過するなかで、木製建具がゆがんだり、ロープが切れたり、滑車が回らなくなったり、分銅が腐食したりと、様々な不具合が生じていました。

メンテナンス工事では明らかな不具合は修理しましたが、建築当初の素材や機構をできる限り後世に伝えたいと、切れずに残っていたロープや分銅など、経年劣化が明らかな部品でも、なるべく現役で頑張ってもらっています。

ですので、

100歳を超えた木造建築に斟酌していただき、通常のご見学時には、窓の開閉はご遠慮ください。



その代わり、いつでもこちらで、宗茂さんと誾千代さんが上げ下げ窓を上げ下げしている様子を御覧いただけます。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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サンタさん、立花伯爵邸の煙突、今も現役ですよ!

2023/12/23

明治43年(1910)に建てられた、立花伯爵邸西洋館の暖炉は、今でも薪を燃やして暖をとることができます。
もちろん、実際に火を点す機会はごくごく稀です。

立花伯爵邸 西洋館2階 暖炉

2019年2月の柳川藩主立花邸御花のイベント「Classic CAFE&BAR OHANA 」では、こんな感じ。
※4枚目と5枚目の写真をご覧ください

Classic CAFE&BAR OHANA 「夜の御花をゆっくりとくつろいでいただきたい」という思いからいまれたCAFE&BAR OHANA。 サックスやピアノ演奏もあり、西洋館が見事オシャレなバーに変わりました。 暖炉に火が灯り、どこか異空間にタイムスリップした気分です。 ちなみにバーテンダーは、前職でバーテンダーだったフロントスタッフのN氏。 さすが、カクテルを作る姿もさまになっております。 心地よい演奏を聴きながら、皆さん美味しいお酒に旅行の疲れを癒しておりました。 ( 2019年2月12日投稿 柳川藩主立花邸御花Instagram より)



つまり、立花伯爵邸西洋館の煙突は現時点でも外と通じていて、空気を取り込んでいるのです。


え、それって煙突からサンタさんがやって来られるってコト!?


実は、明治・大正期に日本で建てられた洋館の暖炉のなかで、立花伯爵邸西洋館のように薪を燃やすことができるものは、あまり残っていません。


薪を燃やすだけの暖房は、他の暖房器具と比べて暖房効率がとても低いので、多くの洋館では、暖房器具を暖炉から変更しています。
そして、昭和初期になって建てられた洋館では、ほとんどの暖炉は当初から装飾でしかなく、煙突は不要となってしまいました。


例えば、明治42年(1909)10月17日に開業した奈良ホテル(奈良県奈良市)の場合、大正3年(1914)に約1年をかけて全館セントラルヒーティング化(スチーム暖房化)したようです。(奈良ホテルHP「奈良ホテルヒストリー」
「マントルピースの煙突が、いつの頃からか屋根から消えていますが、この時の工事の際に取り払ったのかも知れません。奈良ホテルのマントルピースは、この工事を境に実用の物ではなく装飾品となりました。」(『奈良ホテル物語』)

煙突がある頃の奈良ホテル
奈良ホテル』(たましん地域文化財団 所蔵) 「ADEAC:デジタルアーカイブシステム 収録」 (https://cultural.jp/item/adeac-R100000094_I000102187_00)
Cultural Japan



また、明治29年(1896)に建てられた「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)の洋館の場合、最低限の煙突で各部屋に暖炉が備えられるよう工夫された配置や、 屋根にある煙突の痕跡から、建築当初は暖炉を使っていたようですが、「本邸は都市ガスを熱源にしたボイラーが設置され、スチーム暖房が全館に配備されていました。」(『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』)と記述されるので、早い時期に変更されたのでしょう。



しかし、立花伯爵邸は暖炉から新しい暖房器具へと変更しませんでした。
立花伯爵邸の西洋館は、伯爵家族が日常的に生活する場ではなかったので、暖炉のままでも困らなかったのかもしれません。



現存する明治・大正期に建てられた洋館のほとんどは、戦後になって公共施設として利用されていたものです。そのため、不便な暖炉は廃止され、邪魔な煙突は撤去されてしまいました。
立花伯爵邸のように、住宅のまま使われ続けた数少ない洋館の場合、なおさら快適さが優先され、やはり暖炉と煙突は失われてしまいます。


その後、これらの洋館が文化財として見直されると、暖炉と煙突が外見的に復元されるのですが、暖房器具の機能まで復活させた例を聞いたことはありません。

サンタより、火気厳禁の原則やメンテナンスの都合が重視された結果でしょう。



ゆえに、立花伯爵邸西洋館は、サンタさんをお迎えできる設備が現役のまま使われている、とても希少な明治期の洋館だといえるのです。



サンタさんへ
このような貴重な煙突、実際に通ってみたくないですか?
暖炉からのご訪問、お待ちいたしております。

現在の立花伯爵邸 西洋館1階 暖炉前



参考文献
営業企画課「奈良ホテル物語」編集室『奈良ホテル物語』2016年7月(株)奈良ホテル 、『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園 (都立9庭園ガイドブック)』2011年6月 公益財団法人 東京都公園協会、

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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立花伯爵邸には無いモノを紹介します

2023/3/5

前回よそのお宅をのぞいていると、立花伯爵邸には無いモノが、とても気になりました。




目の前の作品を解説するとき、無いモノは説明しづらいので、在るモノだけを紹介せざるをえません。
しかし、無いモノにも、無いことの理由があり、”無い”という特徴になるのです。

そこで、前回Googleマップストリートビューで訪れた、「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」に在って、立花伯爵邸には無いモノを紹介します。



立花伯爵邸には、趣向を凝らした天井がありません(ただし、洋館はのぞく)。



重要文化財「旧伊藤家住宅」(福岡県飯塚市)はどうでしょう?

北棟「本座敷」廊下が、矢羽 ヤバネ 天井となっています。

柾目の板を斜めにして、V字を連続させたような文様に貼り、錯視効果を狙ったともいわれます。
畳を横使いに敷き詰め、広さが強調される畳廊下は約50mつづきますが、欄間で区切られた、本座敷と次之間の範囲外は、装飾性が低い棹縁 サオブチ 天井です。

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください



趣向を凝らした天井をもつ廊下は、重要文化財「旧岩崎家住宅」(東京都台東区)にもあります。

洋館と和館がつながる廊下が、船底 フナゾコ 天井です。横にわたされる梁は、岩崎家の家紋にちなんだ三菱紋形に削り出されているそうです。

並べてみると、どちらも廊下が長く見える効果を狙っているように感じます。
ちなみに、両者の廊下の幅はおおよそ同じです。



旧長州藩主の毛利家が大正5年(1916)に建設した重要文化財「旧毛利家本邸」山口県防府市)では、角材を格子に組んだ格 ゴウ 天井が、重厚さを醸しだしています。

格天井(小組格天井)は、この部屋「本館客室(一階大広間)」の格式の高さをあらわします。
向かって左奥、床の間がある部屋は、天井の中央部分を一段高くへこませた折上 オリアゲ 格天井にして、さらに高い格をあらわしています。*Googleマップストリートビューではのぞけませんので、ぜひ現地へ*



当主家族が食事をとる部屋「食事ノ間」の天井もスゴイ‼
内側は格天井で、一枠ごとに木目の方向を互い違いに配しています。
周囲を囲むのは一枚板なのでしょうか?



「旧毛利家本邸」では、このように、いたるところで豪奢な木材を堪能できます。
例えば、玄関から応接間にいたる廊下は、台湾産の巨大ケヤキの一枚板です。 加えて、部屋部屋を仕切る各板戸は屋久杉(神代杉)の一枚板。

一枚板とは、大きく育った一本の木から切り出された、継ぎも接ぎもない板のこと。とくに節がなく木目が美しいものは珍重されます。



立花伯爵邸には、このような一枚板はありません。



もちろん、立花伯爵邸「大広間」や「御居間」の柱や長押に使われているスギ材は、すべて均一な柾目で、とても上等です。他の部材も、伯爵邸の建築にあたって選び抜いた大量の高級木材を、大阪から運んできました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、屋根裏にいたるまで贅沢に木材を使っていると、どの大工さんも褒めてくださいました。

でも、立花伯爵邸には一枚板は無く、わかりやすいケヤキやヒノキも無いのです。



しかし、趣向を凝らした天井も一枚板も無いことが、立花伯爵邸の特徴-明るさと軽やかさと新しさ を、より際立せているとも言えます。


とくに、重厚でゴージャスな毛利公爵邸と、軽妙でスタイリッシュな立花伯爵邸と、それぞれの個性が対照的なのも、大変興味深いです。



今回は、重要文化財「旧伊藤家住宅」も、重要文「旧岩崎家住宅」も、重要文化財「旧毛利家本邸」も、立花伯爵邸と比較するために、ごく微細な部分しか取り上げておりません。

どれも見どころ盛りだくさんの素晴らしい建物ですので、Googleマップストリートビューでも楽しめますが、ぜひ実際に訪れて、床の間を見て、天井を見て、各部材をイチイチ見て、同行者や周りの人々から不審がられてください。



【2013.3.14追記】
浅学のため見逃していました。毛利博物館の柴原館長が、「旧毛利家本邸」の見どころを解説される、贅沢で素晴らしく、とても勉強になる動画です。レポーターの方がとても羨ましい…… 豪奢な木材も十分に堪能できます。

You Tube「防府市公式チャンネル」

『重要文化財 旧毛利家本邸(前編)』(ほうふほっとライン:2021年7月放送)

『重要文化財 旧毛利家本邸(後編)』(ほうふほっとライン:2021年8月放送)



参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸(福岡県飯塚市)、
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビュー (飯塚市提供)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」、毛利博物館(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会、YouTube「防府市公式チャンネル」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。




最近は床の間のない住宅が主流になりつつあります。
床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も多くはありません。
床の間になじみのない方に、テキストだけで説明するのは難しすぎるのだけれど、どうしよう……


そんなときは新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。
立花伯爵邸内のGoogle撮影に立ち会ったのに、すっかり忘れていました。
画像の拡大も、360°回転も可能です。


さっそく、立花伯爵邸「大広間」東床を、のぞいてみましょう!

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にうってつけのメディアです。
東床と西床とが並べられ、間違い探しも楽しめます。




立花伯爵邸「御居間」棟にも「床の間」があるので、この機会に並べてみましょう!

現在「御居間」は柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用され、通常の有料見学範囲には含まれておりませんのでご注意ください



最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

左上に見える欄間の意匠は「帆の丸祇園守紋」。立花家の家紋「祇園守紋」のバリエーションの1つです。

*薄字の解説はご自由に読み飛ばしてください*

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。



ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。



隣は寛治の書斎であった「鈴の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

右をのぞくと見える欄間の意匠は「崩し祇園守り紋」。これも立花家の家紋のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。




「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。
伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左上に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



寛治の三番目の妻・鍈子(明治31年結婚)の居間が「花の間」です。
伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左をのぞくと見える欄間の意匠は梅、やわらかく洒落た雰囲気になっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



なんということでしょう!
各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。

さらに、視点を変えられて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

「御居間」の「床の間」を並べると、当主をトップとするヒエラルキーが見えてきます。
柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅だからこそでしょうか?

よそのおうちの「床の間」がとても気になる……
それに、数多くの作例を見るほど、「床の間」を “見る目” も養われていくはずです。


今回は、明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準作とし、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、《オンラインツアー「床の間」拝見》にGO!!



まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビューもオススメです*

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。
さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。かわりに襖に趣向が凝らされ、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。



床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格が下げられています。
ちなみに、紙貼り付け壁ですが、「四分一」はつけられていません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱は鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。 伯爵家から傳右エ門 嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1.5間の畳床、床柱は赤松の面皮柱筍面付、床框は三色黒漆塗の面皮塗残し、丸竹の落掛け。床脇は欅玉杢の一枚地板に亀甲組の天井が見えます。





次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

全体に伝統的な和風意匠を用いた住宅建築……大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。

文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』) より引用

贅を尽くした旧毛利家本邸では、 誰もが豪華さに圧倒されるでしょう。
さらに、”11万石外様” “伯爵”というウチ (立花伯爵邸) を基準としながら見ると、”薩長土肥” “公爵” という風格がより明確に感じられるので、オススメです。

*事前に「立花伯爵邸」(立花家史料館)をご見学いただいておくと、「 旧毛利家本邸」(毛利博物館)を十二分に楽しめます。ぜひ先に「立花伯爵邸」へどうぞ。
見る順が逆だと、ウチがしょぼく見えてしまうかもしれませんが、ウチには”西洋館”があるので大丈夫です *



わたしのイチオシの「旧毛利家本邸」の「本館客室(一階大広間)」をのぞきましたが、絶妙な画角での撮影で「床の間」を拝見することができませんでした。 惜しい!
とてもゴージャスなので、ぜひとも現地でご覧ください。





最後は、洋館と和館を併設した住宅というつながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名です。

今回は「大広間(和館)」をのぞいてみます。
床柱は正角、おそらく杉の四方柾でしょうか。この部屋の格の高さがわかります。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。
*勉強不足のため、この「床の間」の形式は、今後の課題です。畳床の畳を特注せず、縦に畳を使っている点が、とても合理的に思えます*




このオンラインツアー、とても楽しいです。
結論は、「みんなちがって、みんないい」



参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸HP(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、『飯塚市指定有形文化財 旧伊藤伝右衛門邸修復工事報告書』2007.3.31 飯塚市、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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フレキシブルな「大広間」床の間[前半]

2023/2/13

明治43年(1910)築の立花伯爵邸「大広間」が誇る、 “明るさと軽やかさと新しさ” 、その “新しさ” のアピールポイントは、まだあります。




再び、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、 『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手にまた選んでみました。

「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

しかし、今回は床の間の向かい側をくらべます。
お手数ですが、3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』「大広間」(Matterport)にて、ふりかえってみてください。

*実際にふりかえると、畳廊下をはさんで「使者之間」があります。つまり、「大広間」からは出てしまいます*



では、立花伯爵邸「大広間」は? 

立花伯爵邸のGoogleストリートビュー「大広間」 にて、ふりかえってみてください。

お分かりいただけますでしょうか?

ふりかえると見えるのは、こちらの床の間です。

立花伯爵邸「大広間」西床 修復後

そうです、
立花伯爵邸「大広間」には、床の間(床・棚・付書院)が2つあるのです。

『高山陣屋』のような近世の書院造では、一方向の軸性が強調されます。

他方、立花伯爵邸「大広間」は、南側の庭園「松濤園」を隅々まで見わたせるような部屋の配置で、東西に床の間があるため、横の広がりを感じさせます。

東の床の間が主であり、西の床の間は、広間を分割して使用する際につかわれたのでしょう。
このフレキシブルさが、近代ならではの新しさだといえます。



実は、今ご覧いただいている西の床の間「西床」は、平成28~31年(2016-2019)の修復工事によって復原されたものです。

修理前はステージが設けられ、貸会場として「大広間」を利用される際には大活躍していました。

立花伯爵邸「大広間」西側ステージ 修復前

もちろん、明治43年(1910)の建築当初は、写真のような床の間でした。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

昭和42年(1967)ころには、ステージへと改造されたようです。

床の間 → ステージ → 床の間復原 という変遷なら、をみると、ステージの時代は不要だったと思われるかもしれません。
しかし、フレキシブルに姿を変えてきた「西床」は、立花伯爵邸の歴史をそのまま反映しているのです。



昭和25年(1950)に立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なった状況で、収入源を確保するため、立花家は料亭・旅館業をはじめます。

「大広間」は、宴会場として地元の人々に頻繁に利用されるようになりました。
宴会には余興が欠かせません。
需要にこたえて「西床」が解かれ、ステージが設けられたのです。

時代に即したフレキシブルに 改装などにより、料亭旅館「御花」は創業70年をこえる老舗となり、立花伯爵邸は失われることなく、新築時からの姿を大きく変えずに残されました。


築50年は珍しくはありませんが、築100年をすぎると文化財として扱われるようになります。現に、旧大名家の明治期の住宅が良好に保存されている例は全国的に見ても希少であり、立花伯爵邸をふくめた「立花氏庭園」は、国の名勝に指定されています。



文化財となると、今度は「変わらない」努力が求められます。

文化庁の指導に基づき、国・福岡県・柳川市のご協力を賜りながら、適切な維持管理に努めるなかで、「大広間」の修復工事が計画され、そこに「西床」の復原も組み込まれたのです。
文化財建造物の修理の際に、改造前の姿に戻すことを「復原」と言います。


それでは、一枚の古写真と、柱や梁に残された痕跡をもとに、「西床」はどのように復原されたのでしょうか?




参考文献
高山陣屋HP(岐阜県)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ

2023/2/6

立花伯爵邸「大広間」の明るさと軽やかさのヒミツは、修復前の写真にも写っています。

お分かりいただけますでしょうか?

2016年7月 修復工事の直前

現代を生きる私たちは、明るくて広い室内空間に慣れすぎているため、驚きなく「大広間」を受け入れてしまいます。

よく畳の数を質問されますが、わたしが宣伝したいのは軽やかな開放感です。

ただし、「大広間」は襖で3室に区切られますが、近年はすべての襖をはずしているので、より開放感が増しております。

蛇足ですが、平成28~31年(2016-2019)の修復工事 で新調全交換した「大広間」の畳の数は、97枚+半畳2枚+本床2枚です


立花伯爵邸「大広間」は、室町時代にはじまる住宅建築の様式「書院造」をきちんと踏襲し、旧大名家にふさわしい格式を備えています。

書院造 →わかりやすい動画解説「書院造」(『NHK for School』)

本来は呼称のとおりの書斎でした。
 例:『吉水神社書院』【重要文化財】、『慈照寺東求堂【国宝】

時代が下がると、接客や儀礼の場として使われるようになり、大規模な書院もつくられました。
 例:『二条城 二の丸御殿【国宝】、『本願寺書院(対面所及び白書院)【国宝】、『名古屋城 本丸御殿(復元)』

※画像が見られる例を選びましたので、ぜひ各サイトもご覧ください。とくに名古屋城本丸御殿は、3Dバーチャルツアー (Matterport) 『本名古屋城丸御殿(表書院をスタート地点に設定)』も楽しめます。



しかし、明治41年(1908)築の立花伯爵邸「大広間」には、近代ならではの新しさもあります。


新しさを実感できるよう、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手に選んでみました。

岐阜県高山市「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

立花伯爵邸「大広間」修理後の写真ですが、見くらべやすいので

このように並べると、よくわかるのではないでしょうか?

立花伯爵邸「大広間」の柱の数が少ないのは、一目瞭然です。

3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』(Matterport)では測定もできます。
ためしに比べると〔 高山陣屋/立花伯爵邸 〕、 柱と柱の間は1.7m/5.88m と、立花伯爵邸「大広間」が3倍も広くなっています。ちなみに 柱の高さ2.83m/3.64m 、柱の太さ12cm/15cm でした。

2017年6月 障子の張り替え


また、障子・ガラス障子・欄間障子がはめられていて見過ごしがちですが、とにかく壁面がありません。
加えて天井も高いので、とても明るく軽やかで開放感がある室内空間となっています。






2017年7月 細い柱と長押しかありません



この開放感ある室内空間は、建築当時の新技術によって実現できました。
明治時代に日本へもたらされた技術の1つ、トラス構造で屋根を支えているのです。

立花伯爵邸「西洋館」「大広間」断面図  トラス構造「洋小屋」

従来の屋根の構造、いわゆる「和小屋」では、屋根を支える力を下へと流します。他方、三角形のトラス構造「洋小屋」は、力を外に分散させるので剛性が高くなり、各部材をより細く、柱と柱の間をより広くすることができます。

木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」
(明治36、7年頃)東京都立図書館蔵


例えば、同時代の設計例の木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」(明治36、7年頃 東京都立図書館蔵)は、斜めの筋交いはありますが、屋根の重量を1本の梁材にもたせる「和小屋」です。








東京都立図書館「木子文庫」
内裏の作事に関わる大工であった木子家に伝わる建築関係資料群。 明治期以降、帝国大学の建築学の講師や教授を勤めた木子清敬、幸三郎関係の建築図面や建築写真など約29,000点があり、明治宮殿をはじめ近代の宮殿建築の主要なものをほぼ網羅する。
*「立花伯爵邸」と同時代の建築図面や建築写真が多数公開されています*


現在も「和小屋」と「洋小屋」は使い分けられているので、新技術だからといって、日本の屋根の構造が一変した訳ではありません。

実際、立花伯爵邸「御居間」棟の屋根は「和小屋」です。必要な室内空間の広さにあわせて使い分けたのでしょう。

「大広間」の屋根を、並列する「西洋館」と同じトラス構造としたのは、近世にはなかった、明るく軽やかな広い空間が求められたからではないでしょうか。



また、立花家のお歴々は、とても「新しモノ好き」だったようです。



立花伯爵邸の新築から現在まで、およそ110年が過ぎました。
その間、めまぐるしく産業技術は更新され、最新技術がすぐに古びてしまいます。
現代において、はじめて伯爵邸がお披露目されたときの、人々の新鮮な驚きを追体験するのはとても難しい……

どうにか時代を遡って、立花伯爵邸「大広間」が誇る “明るさと軽やかさと新しさ” を実感してもらおうと、ここまで長々と書き連ねてきましたが、実はまだ終わりではありません。

この機会に声を大にして、とことんアピールしていきます。




参考文献
NHK for School国指定文化財等データベース(文化庁)吉水神社(奈良県)臨済宗相国寺派銀閣寺(京都府)元離宮二条城(京都府)西本願寺(京都府)名古屋城(愛知県)高山陣屋(岐阜県)木子文庫(東京都立図書館)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。

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山口旅行記5 ~萩の町、そして余裕の帰路~

2018/12/5

立花財団スタッフ・財団元スタッフ・御花スタッフの山口旅行記。

これまでのお話はこちらです

第1回 計画と出発

 

 

 

 

 

 

 

第2回 たどりつかない山口

 

 

 

 

 

 

 

第3回 夕暮れの角島

 

 

 

 

 

 

 

第4回 水上からの萩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水上からの萩を楽しんだ後は、陸上から萩を楽しみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治維新150年ということで
今年は萩でもいろいろな催しがあったようです。

 

さてそんな萩の町観光の、最初の目的地はこちら。

 

 

 

 

 

 

菊屋家住宅です。

道路沿いに張り出してあった案内板によると
こちらは萩藩の御用を務めた豪商の家で
現存する大型の町家として最古に属し、建築史上極めて貴重ということから
主屋や蔵、釜場などの5棟が国の重要文化財に指定されているとのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

見上げると古い雨樋が残っていました。
立花邸にもちょっと似た雨樋があります。

立花邸大広間の雨樋

 

 

 

 

 

 

 

 

受付を経てお座敷にあがると、手入れの行き届いたお庭に迎えられました。

 

 

 

 

 

 

見学中は知識の豊富なガイドさんがついてくださり
細かい質問にも的確にお答えいただけます。
おしゃれなポロシャツも印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立花家にはないけれど、ときどき見かけることのある
歴代当主の集合写真的な掛け軸、毛利家バージョン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古い電話室。
アルファベットの記述が「TELEPHONE」ではなく
「DENWA」なのがおもしろい。
電話番号は5番。

 

屋敷内では他にも、菊屋家でかつて使われていた道具類や部屋
さらに貴重な絵画、古文書類を見学できます。

このとき展示されていた絵画は鳥の絵が多く
菊屋家版の「いろトリどりの宝モノ」を堪能することができました。
ちなみに次回の立花家の「いろトリどりの宝モノ」は2019年7月19日からです。

 

そしてここで、この旅一番の蘇鉄に出会いました。

 

 

 

 

 

 

 

ダンスグループのフォーメーションを思わせるシルエット。
すっきりとしていて、それでいてボリューム感もあるフォルム。
さすがは藩の御用宅に借り上げられることしばしばというお家の蘇鉄。
貫禄と気品を感じました。

 

さて次の目的地は、菊屋家住宅を出てすぐにある御茶処 惺々庵です。

 

 

 

 

 

 

 

丁寧に点てられたお抹茶を、萩焼のお茶碗でいただきます。
暑い日で(既にお忘れかもしれませんが7月の話です)大量に汗をかいた後だったこともあり
体にしみこんで行くような一服でした。
突然大人数で訪れたにも関わらず、快くご対応いただきありがとうございました。

 

さて、夕方までに筑後地方へ帰り着く必要のある(第4回参照)我々の旅は
高速道路の開通状況や混雑具合を鑑みると
そろそろ帰路につかなければなりません。
萩の町に別れを告げ、高速道路をひた走り
壇之浦PAで休憩。

 

 

 

 

 

 

ここで、通行止め全線解除のニュースを得ます。
ということは一般道におりる必要はなくなり、高速一直線で帰ることができます。
お昼は車中で軽く、のつもりでしたが
時間に余裕ができたので
もう少し進んだところでゆっくり食べることにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

一蘭も入っている古賀SA(下り)で昼食休憩。
時間に余裕ができたら、気持ちにもお腹にも余裕ができ
ソフトクリームまで食べてしまいました。

古賀SAを出発し「宗茂トラックとすれ違わないかな」などと話しながらどんどん南下。
時間にまだ余裕があったので、基山PAでも休憩。
気持ちにもまだ余裕はありましたが、もう何も食べませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

休憩を重ねたことで、最終的にちょうどいい時間に到着。
解散となりました。

 

今回の旅は研修の意味合いは全くない旅だったので
立花家に関係しそうな場所や毛利家の歴史的な何かなどは訪れていません。
そばを食べて観光地をいくつかめぐり、蘇鉄を撮るという普通の観光旅行でした。

旅先ではついつい歴史に関する場所や美術館・博物館に行きがちな私たちですが
立花氏庭園という観光地内に位置する館のスタッフとしては
観光のための旅行というのもよい経験となりました。

 

以上、ずいぶん長くかかってしまいましたが、これで山口の旅の記録はおしまいです。
年を越さなくてよかった。

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熊本半日紀行 後編

2015/6/22

前編をおさらい】
熊本県立美術館の細川コレクション特集「茶わんまつり!」の
関連イベントであるミュージアムセミナーに参加するべく熊本へ。

途中、太平燕とケーキでお腹を満たし
熊本城の立花宗茂さんに念を送りつつ、熊本県美へ向かうと
会場にはあふれんばかりの受講者が。

大盛況のセミナー終了後には
特別ゲストの熊本城おもてなし武将隊・細川忠興さんに
夏衣装を見せていただいたのだった。

おさらいおしまい。

 

 

ミュージアムセミナー「細川忠興の茶道具収集」で予備知識を得たところで
さっそく「茶わんまつり」を観覧。

まつりの会場は、熊本県立美術館別棟の細川コレクション常設展示室。

20150621_05

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展示室に入るとそこには、茶わん茶わん茶わん。

忠興の時代から現代に至るまで
細川家によって集められた、珠玉の茶わんの数々。
そのバラエティゆたかなラインナップは、まさに茶わんまつり。
居並ぶ茶わんから、400年の歴史を感じることができます。

 

茶わんを見ながら
「そういえば、利休七哲って忠興以外に誰がいたっけな」と思ったとき
役立つのが、今となっては懐かしい戦国鍋TVの「たぶん利休七哲」。

「がもううーじーさーと、ほそーかわーただーおきー…」

この歌のおかげで、7人の名前がすらっと出てきます。
「メンバーには、諸説あーるーんーだー」ということで、あと2人も。

 

細川コレクション特集「茶わんまつり」は、今週末の6月28日まで。
ぜひみなさんも、この素晴らしいまつりにお出かけください。

 

茶わんを存分に堪能したところで
坂を下りた三の丸にある旧細川刑部邸へ移動。

20150621_07

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧細川刑部邸は、細川(長岡)刑部家の下屋敷を
25年程前に、熊本市東子飼町から現在の場所に移築復原したものだそうで
熊本県の重要文化財に指定されています。

20150621_08

 

 

 

 

 

 

 

柱の形とか、梁の太さとか、部屋の造りとか
建物の仕組みを探索しながら、屋敷内を巡ります。

一周したところで、全体的な構造がなんとなくわかった私達は
確認のため、さらにもう一周してみることに。

同じタイミングで見学していたお客さん(おじ様)も
なぜか一緒にもう一周。

みんなで語り合いながらの二周目では
ここは松の間、ここは藤の間みたいな感じか、と立花邸と比較したり
家族スペースと使用人スペースの違いや分かれ方を確認したり
部屋の並びから動線を考えてみたりと
屋敷をより深く楽しみました。

 

20150621_09

 

 

 

 

 

 

 

それにつけても、どこへ行っても蘇鉄が気になる。
古い葉を刈らない場合、新しい葉がどういう風に出てくるのか
ここの蘇鉄で知ることができました。

 

旅の締めくくりは桜の馬場 城彩苑での買い物。

20150621_10

 

 

 

 

 

 

 

夕闇迫る熊本を後にし、一路福岡へと帰ったのでした。

 

最後に
途中、北熊本サービスエリアで食べた「ネギパン」が美味であったことを
ここに書き添えておきます。

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