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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂①

2024/9/30

2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji


忠茂が亡くなったのは、延宝3年9月19日。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1675年 11月6日です。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



それでは、立花忠茂[1612~75]ってどんな人?

慶長17年(1612)7月7日 
立花宗茂の弟・直次の4男として誕生。即日、宗茂の養嗣子に。
元和8年(1622)12月27日 元服
寛永7年(1630)永井尚政の娘・玉樹院と祝言、同11年12月死別
寛永14年(1637)12月~翌2月末
島原の乱に参陣 ⇒註1

寛永16年(1639)4月3日
家督を相続、2代柳川藩主に。
正保元年(1644)伊達忠宗の娘・ 法雲院と祝言 ⇒註2
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、11月20日剃髪し「好雪」と号す。
延宝3年(1675)9月19日没 享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」



註1:忠茂が島原の乱に持参したと伝わる甲冑の話はコチラ

島原の乱は、忠茂が生涯で参陣した唯一の戦となりました。



註2:いろいろあった忠茂の結婚事情の話はコチラ



そして、忠茂と「雷切丸」の話。
実は忠茂は、義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまったのです。

とは言うものの、渡した相手は吉弘家を継ぐことになった息子の茂辰。
藩主になれない息子に、祖父・道雪ゆかりの「雷切丸」を譲った忠茂の心情は理解できます。
しかし茂辰は早世。遺品分与されそうになった「雷切丸」は、弟の茂堅が「大切の御重宝」として、自らが継いだ矢嶋家にて伝えることにしました。
そして宝暦9年(1759)、「雷切丸」は矢嶋家から7代藩主・ 鑑通へ進上され、再び柳川藩主立花家に戻ってきます。

「雷切丸」が離れていた期間は、およそ100年くらいでしょうか。
帰ってきた「雷切丸」の存在価値は、偉大なる祖父の愛刀として扱っていた忠茂の頃よりも、ずっとずっと増していました。
以来、「雷切丸」は立花家で大切に伝えられ、現在は立花家史料館が所蔵しています。



その「雷切丸」は今、雷を切った因縁の地「大分県」へ出張中。

2024年11月10日(日)から臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!~義を貫いた武将、戸次道雪・高橋紹運・立花宗茂~」展にて展示される予定です。(~12月22日)


臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!」
2024.9.29-12.22 チラシ


2代柳川藩主・忠茂のエピソードを紹介してきましたが、まだまったく語り尽くせていません。
次回こそが本題となりますので、乞うご期待!


◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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