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〚館長が語る6終〛再封後の宗茂と晩年の活躍

2024/9/1
立花宗茂[1567~1642]

元和6年(1620)、旧領柳川に復活を遂げた宗茂は、10万9千石余の領知を与えられました。










そのため、奥州南郷での家臣に加え、これまで肥後加藤家のもとにいた旧家臣達を呼び寄せたり新規の召し抱えを加えたりし、家格に相応しい体制を整えてゆきます。柳川藩の江戸屋敷の普請や、江戸城の城郭普請への動員、将軍の共をして上洛(京都に上ること)するなど、忙しく過ごすことになります。

また、徳川秀忠、家光の御成(将軍の外出)の供も多く、江戸を離れることがなかなか出来ない状況であったようです。

宗茂自身、家臣に宛てた手紙でも、帰国の御暇を許されないことは譜代並の処遇(それだけ、側近く必要とされている)だと自慢げに記しています。




新しい体制を整えてゆく多忙な日々の中、元和8年(1622)12月27日、実弟直次の四男として生まれ、 直後に宗茂の養子となっていた嫡嗣忠茂が将軍秀忠の御前で元服をします。



寛永6年(1629)、63歳となった宗茂は下屋敷へ転居をし、内々に隠居の準備と忠茂への権限移譲を進めてゆくのですが、将軍からは正式に隠居の許しを得ることはできず、これまで以上に二代将軍秀忠、そして三代将軍家光からも重用され、側近く仕えることになります。

この頃の様子を忠茂に宛てた書状に自ら次のように語っています。

「…つねづねかように其の日ほど出頭仕り候は、国の五ヶ国三ヶ国も取り候程の様子にて候つる、おかしく候、 …(中略)…猶以て毎日罷り出、隙無く草臥候事推量有るべく候」(特別な酒宴の席に臨席できたのは、国の五ヶ国三ヶ国も取ったような栄誉を感じています…なおも毎日将軍にお供し、休む暇もなく疲れていることはご推察ください)

忠茂に対し、どこか誇らしげな宗茂の様子に微笑ましささえ感じます。




寛永15年(1638)2月6日、宗茂は、前年より勃発した天草・島原の乱鎮圧に苦戦する幕府軍の原城総攻撃に参陣するため満を持して着陣。この時72歳でした。
往年の勇将の面目躍如だったのでしょう。「軍神再来」と囁かれたというエピソードが伝わっ ています。

この年10月20日、宗茂は正式に隠居を許され、「立斎 リッサイ 」と号します。



その翌年、年を重ねる宗茂の体調を気遣う家光から、風邪をひかぬよう、転ばぬようにと紅裏烏巾(黒頭巾)と紫竹の杖を賜りますが、これを名誉なこととその姿を肖像画にしたものが、宗茂の晩年の姿を伝える貴重な資料として伝わっています。

* 宗茂晩年の姿は、コチラで *
「琢玄宗璋賛 立花宗茂像」慶應義塾 センチュリー赤尾コレクション蔵
◎「立花宗茂肖像」 小野恭裕氏寄贈 柳川古文書館蔵
 ⇒白石直樹「寄贈された『立花宗茂肖像』と『小野鎮幸像』」 (広報やながわ2024年4月号 新市史抄片196 より)

※ちなみにコチラは、立花家に伝来して、当館が所蔵する宗茂の肖像画。

立花宗茂像 立花家史料館蔵




宗茂は多くの人々に惜しまれ、寛永19年(1642)11月25日夕方、江戸にて他界、享年76でした。

立花宗茂と誾千代の生涯について6回にわたりお話しましたが、大河招致活動を応援していただけるよう、今後も普及活動を続けてゆきたいと思います。



立花宗茂[1567~1642]ってどんな人?

立花家史料館 館長が語る”立花宗茂と誾千代” 
第1話 近世大名立花氏の誕生と戸次道雪
第2話 女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代
第3話 柳川城主となった立花宗茂
第4話 関ケ原合戦後の立花宗茂
第5話 立花宗茂、柳川藩主への復活
第6話 再封後の宗茂と晩年の活躍

文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/




「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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