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11/18大慈院イベントレポート②お茶席のお菓子

2017/11/17

立花家の人々、立花万起子です。

11月18日に開催の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」のレポート記事を綴ります。

 

お茶会のお菓子選びは楽しみでもあり悩みでもあります。今回のお菓子選びについては大慈院の実山閑征の奥さまから、

「一つは九州、もう一つは京都のお菓子、そういう組み合わせにしたらいかがでしょう」

とアドバイスをいただきました。そして名に惹かれて、九州からのお菓子は大宰府梅園菓子処の「宝満山御干菓子」を選びました。表面はさくっと、中はふんわり、卵のコクのある甘さの中で大徳寺納豆がアクセントになっているお菓子です。

 

<宝満山と宗茂>

お菓子の名前にある「宝満山」は現在の福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山で、立花宗茂とゆかりがあります。

 

16世紀半ばに宝満山に築かれた宝満山城、1570年に立花宗茂の実父である高橋紹運が城督となりました。おそらく宗茂も幼いころ、父の城がある宝満山を駆け巡ったことと思います。その後宝満山城は宗茂の弟に譲られ、父は岩屋城城主となります。

 

1586年、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城を攻め両城は陥落します。残念ながら宗茂の父、高橋紹運は岩間城陥落の際亡くなります。宗茂、さぞ無念だったでしょう。しかし島津軍が退くタイミングを察知した宗茂は500の手勢だけで岩間・宝満二城を奪還するのです。

 

私自身は小説などで読むばかりで、実際に宝満山を訪れたことはありません。イベントのために菓子処梅園さんと注文のやりとりをしていましたら、取締役の方からメールをいただきました。この方のご先祖は宗茂と同じく大友勢に仕えた一族であり、大好きな武将が立花宗茂、立花道雪(宗茂養父)と高橋紹運(宗茂実父)とのこと、大慈院のイベントに宝満山御干菓子を使うことをとても喜んでくださいました。そして晴れた空に堂々と映える宝満山の写真を送ってくださいました。

次に福岡を訪れるときはちゃんと宝満山を見てこようと思いました。

 

大宰府梅園菓子処 http://www.dazaifu-baien.jp/index.html

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11/18大慈院イベント準備⑥柳川藩の御用窯 蒲池窯へ

2017/11/1

立花家の人々、立花万起子です。

11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。

蒲池焼、ご存知でしょうか。

慶長9年(1604年)、家永彦三郎方親が、三潴郡蒲池村(現、福岡県柳川市西蒲池)で土器を焼いたことから始まりました。方親の作品をみた豊臣秀吉公はその土器を絶賛し御朱印状を与え、その後立花宗茂の目にもとまり柳川藩の御用窯となりました。

御用窯であったため、昔は一般への販売は禁止されていました。そして明治になって藩の保護を失うと、廃窯。一般に作品が出回っていなかったため、昭和にはどのような技法を使った焼き物であったかは忘れられていました。

1970年代に入って、伊東征隆さんはこの蒲池窯の復活させるため、現存する蒲池焼の作品をもとめて立花和雄(私の祖父)をたずねたそうです。立花家には蒲池焼の手あぶりがあり、それを研究したそうです。そして何年もの試行錯誤を経て、伊東さんは蒲池窯の再興に成功されました。

立花家伝来の蒲池焼手焙り(立花家史料館所蔵)

「手焙 家永彦三郎方悦」@Google Arts & Culture

9月中旬に柳川へ行ったときに、伊東さんに蒲池窯の工房をみせていただき、再興までについてのお話しを伺いました。最初は、柳川藩の御用窯であったという歴史に興味があって訪問を決めたのですが、100年近く失われていた技法の復活に祖父が関わっていたと知り、蒲池焼がより近く感じられました。

土器に分類される珍しい焼き物である蒲池焼、素焼きした器を煙で燻す「炭化焼成」という技法を使って器の肌に黒い模様をいれるのが特徴です。土器ではあまり見られない艶やかで柔らかい独特な黒色をしています。風炉、灰器、火入れなどの茶道具、土鍋などがつくられます。

火入れ、香合、蓋置きなどの小さい作品も工房では展示販売されていました。

蒲池焼の土風炉は有名です。もし今回のイベントが風炉の時期(夏)の開催でしたら是非使ってみたかったものです。雲のような白い模様は焼き方の調整によってできるそうです。この土風炉は裏千家鵬雲斎宗匠の御好みです。

最後に伊東さんに外の窯を案内していただきました。上部が作品を出し入れする口となっていて、空窯またはキセル窯ともいいます。松の木で窯は焚かれ、上は瓦で蓋をして、炭化焼成させるために途中で蓋も薪を入れる口も粘土で覆って密閉するそうです。

火を扱う場所だからでしょうか、神聖な感じがしました。蒲池窯再興をよろこんで昔の土器師たちがここを守っているように思えます。

宗茂の時代からの御用窯である蒲池焼の作品をイベントでは使いたいと思い、今回誂えました。何であるかは後日ご報告します。

蒲池窯に関する情報

http://www.crossroadfukuoka.jp/jp/event/?mode=detail&id=400000006707&isSpot=1

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公式イメージキャラクターの始動

2017/10/23

いろんな事が目まぐるしく動き出した2017年の春。
そのひとつに、当館で公式イメージキャラクターを利用した教育普及活動の開始があります。

正直、踏み切るには迷うところありましたが、柳川市の勢いと将来への布石を考えて思い切ってスタートをきりました。博物館の教育普及が目的ですので、観光PRとは少し違ったものになりますが、地域の歴史やそこから生まれ語りづがれる物語を、観光や地域振興に役立てていただけるのは本望です。

手探り状態ですが、当館のミッションに向かう道筋は外さないよう、当館にしか出来ないことを考えつつやってゆく所存です。どうか、暖かい目で見守ってやって下さい。

今月から本格的に動き出したのですが、現在HP上での情報発信については準備中です。12月からはサイト上で活動情報を得ることが出来るよう整えてゆきたいと思っておりますので、それまでは、五月雨式に当館のSNSを通じてお知らせをいたします。

というわけで、

早速、10月7日は奥州棚倉藩評定での「無双の花」朗読舞台デビューです。どうなることか、ドキドキしていたのは私だけでした…。殿がどれ程本番に強いか、よーくわかりました。そして、力強い助っ人の朗読組は、もう3回目となる熊本城おもてなし武将隊の面々。

ひとりじゃないって、素敵なこと…。殿の表情も明るかった。

終わってからの弾丸、大返しで九州へとってかえして、(島津義弘さんと一緒というのが運命的です)

翌8日は三柱神社でのイベントと御神幸行列。公式イメージキャラクター「宗茂と誾千代」初陣を飾りました。

小川福岡県知事と金子柳川市長に挟まれて紹介をいただく、戦国最強の夫婦。皆さんニコニコとよいムード。

周辺自治体からの期待も大変熱いものがあり、私共も強い決意で取り組まねばならないと意をあらたにしました。大分からは、大友宗麟鉄砲隊の方々が宗茂と誾千代の初陣のために、と駆けつけていただき、鉄砲演武をご披露下さいました。とても心強い援軍です。

そして、御神幸行列では騎馬でパレードをして、宗茂と誾千代のお披露目。

沿道の方から沢山の声援をいただき、殿と姫も笑顔で手を振ってくれましたが、なかなか凛々しいお姿でした。

一週間後、14日15日、今度は大分駅前広場で開催された宗麟公まつりに、こちらから宗茂と誾千代が出陣しました。

大友のお膝元、大分にはあちこちに杏葉紋が翻っていて、なんだかテンションが上がりますね。県外という感じがしません。ホームに戻ったよう。

福島県棚倉町での朗読舞台から、10月の立て続くご出馬、そして

17日は柳川商工会議所創立70周年記念式典で、「無双の花」朗読舞台での柳川デビュー。

朗読舞台では、熊本の熊本城おもてなし武将隊の皆さまが舞台を盛り上げて下さいました。

ひきつづき、お世話になり感謝いたします。

 

殿は当館イメージキャラクターの宗茂として活動を始めて、2ヶ月足らず。

朗読舞台のために、熊城隊朗読組の皆さまと何度も稽古を重ねてまいりましたが、その成果があらわれたよい舞台でした。

一般公開の舞台ではありませんでしたので、ごく一部をこちらからご覧下さい。

宗茂、誾千代との別れ

宗茂、雪下との別れ

宗茂、柳川復帰の日

柳川でのイメージキャラクター宗茂と誾千代は、二人でスタートしたばかり、

来年以降も継続をしてゆくためには、今まで以上に沢山の皆さまからの応援が必要です。どうぞよろしくお願い申し上げます。

http://www.tachibana-museum.jp/membership/index.html

http://www.tachibana-foundation.jp/support.html

準備が整いましたら、殿と姫からのご挨拶もアップいたしますが、

特別展「立花宗茂と柳川の武士たち」でも、活躍の予定です。そして、二人にとって、頼もしくて可愛い助っ人もその頃登場することになる予定ですので、当館の公式SNSを時々覗いてみて下さいね。

では、皆さまとお会いできることを楽しみにしています。

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11/18大慈院イベント準備⑤ご先祖さまにご挨拶

2017/10/15

立花家の人々、立花万起子です。

11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。

お寺まいりをしてきました。

やはりイベントがつつがなく開催されるためにはご先祖さまに見守っていただかなくては!ということで、宗茂さまと誾千代姫にご挨拶。

いつもはお正月に親戚一同でお寺まいりにいきます。そのときは極寒です。晴れ着/正装姿の私たちはお寺に着くと分厚い靴下を履いて、しんしんと冷えたお寺の廊下を歩いてご位牌にご挨拶、外のお墓にご挨拶します。

しかし、今回は9月のお寺まいり。なんと暖かく、心地よいこと!花が咲き、そのまわりを舞うトンボが秋が近いことを教えてくれます。

<良清寺>

まずいきましたのは良清寺(りょうせいじ)、宗茂の正室、誾千代姫の菩提寺です。

初代柳川藩主であった宗茂ですが関ヶ原で敗れたあと改易、浪人となって京都へ上ります。京都滞在中に残念ながら誾千代姫は熊本で病死。夫が大名として返り咲くことを願っていたことと思われますが、それを見届けることはできませんでした。1620年、宗茂が再び柳川藩主として戻ってきてまず取り組んだことは、誾千代姫を弔うお寺を作ることでした。

誾千代姫はいまここで静かに眠っています。

夫婦不仲であったといわれていますが、このお寺は夫婦愛の証だと私は思います。

<福厳寺>

福厳寺は宗茂の養父戸次道雪(誾千代姫の父)から、宗茂、歴代藩主の菩提寺です(非公開です)。こちらには現代にはいってからの先祖、私の祖父母のお墓もあります。藩主一人ひとりのお墓、夭折したお子さまたちのお墓、すべて合わせるといくつのお墓に手を合わせるのかわからないくらい多い・・・。

けれど今回はすべてではなく限定おまいりしてきました。

<天叟寺>

宗茂の実父、高橋紹運公の菩提寺です(非公開)。宗茂は高橋家の長男でしたが息子がいなかった道雪に乞われて15歳で立花家の養子となります。1586年、宗茂が19歳のときに、岩屋城の戦いで島津勢相手に奮戦しながらも亡くなります。やはり宗茂をこの世に送り出した実父紹運公にも挨拶しなくてはと思い、おまいりしてきました。

ご先祖さま、どうぞ見守ってくださいませ。

なお、

どのお寺も、無断でお墓に入ることは出来ないようになっております。お参りをされたい方は事前にお寺さんに許可をとっていただくようお願いいたします。

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11/18大慈院イベント準備④宗茂の書状

2017/10/1

立花家の人々、立花万起子です。

11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。

柳川古文書館へ行ってきました。さすが柳川、お堀の側に建つ古文書館の外観はお蔵のようでなまこ壁が施されていますので、街の雰囲気にとても馴染んでいます。

 柳川古文書館

ここには立花家ゆかりの文書が多く保管されています。いつもはガラスケース越しにしかみたことがない文書を、田渕館長の解説付きで実際にいくつか見せていただきました。

見せていただいたものは宗茂の書状で、贈り物に対するお礼を述べています。いつごろ書かれたのか、誰宛なのかなど、この書状からだけではわかりません。しかし、宗茂の花押や使われている言葉から、おそらく宗茂の晩年ごろのもので、目下のものへ送られた書状であるとわかるそうです。またもしかしたら書状は端が切り落とされているかもしれないということが、書状についた折り目やシミの具合で推測できるそうです。

 下の方が宗茂の花押

紙に書かれていること以外のこと、折り目、寸法、シミなども文書のことについて色々伝える大切な情報なのだと学び、感動・・・。書かれた時代や人について、今までより立体的に感じることができました。田渕館長、ありがとうございました。

さて、古文書館での見学がイベントとどのような関係があるか・・・。こちらも当日のお楽しみです。

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柳川での公式サポーター立花宗茂としての2年間

2017/9/30

熊本城おもてなし武将隊が一人、筑後国柳川城城主、立花宗茂である。

「立花宗茂生誕450年記念特別展 公式サポーター」そして昨年は「公益財団法人立花財団スペシャルサポーター」として活動し、計二年の間、我が領地柳川の為に尽力して参った。

思えば、多くの事があった。

 

当世に伝わる立花家所縁の品々を紹介する音声を収録したり、

福岡の地を走る鉄の箱「水都」にておもてなしを行なったり、其の儘「御花」を案内も致した。

「戦国時代立花家甲冑プログラム-414年を経て、今再び出会う宗茂と誾千代-」にて細川忠興殿、黒田官兵衛殿と共に「梅鶯東風」の披露や、

 

儂の一人演舞「月高忠心」の初お披露目も御花であったな。

 

「立花宗茂 立花家史料館21周年記念イラストコンテスト」では拙いものであるが、絵を描き披露した。

 

 

「柳川古文書館」にて儂を讃えて下さった秀吉様の書状も拝見した事もあったな。

そうそう、江戸にまで馳せ参じ、我が愛刀である「波游兼光」も見たな。儂の手にあってから四百年。あいも変わらず美しき刀身は見事の一言であった。

愛刀といえば、忘れてはならぬは「雷切丸」であるな。今も昔も変わらず、儂の力となってくれた。共に立花家の話を多くの者に伝えたのも、儂にとってはとても不思議で楽しいひと時であった。

それに其の絵姿を大久保ヤマト殿が描いて下さったのも誠に嬉しかったの。

 

………まあこの雷切丸が雷雲を呼び「七福神夏祭り」では突然雷が落ちて大変であったな。
あの時の祭りのすたっふの皆々の活躍は、儂にとって今でも多くに自慢したいと思う誇りである。

 

柳川にある「みのり幼稚園」にも幾度となく足を運んだ。発表会ではさぷらいずとして演舞を披露した時は、誠に緊張致したぞ。
あの時皆で舞った虎熊一刀は生涯忘れる事ない思い出だ。

 

直木賞作家である葉室麟殿の小説「無双の花」の朗読の催しは、本当に多くの方に足を運んで頂けた。
一度ならず二度も、あの美しき世界と、そして我が立花の歴史を伝えられた事、誠に嬉しく思う。

 

 

歴史とは、その者の受け取り方次第で如何様にも姿を変える。
歴史に関わらず、現実は常に己の感じ方次第。
そんな中、四百年前の人間である儂は、皆にはどう映っていたのであろうか。

……その答えは、其々が思う事であり、儂が知る必要はないと思っておる。
ただ儂は、四百年前と変わらず、立花宗茂として己の限りを尽くした。
その結果、少しでも儂の名が、そして儂を通じて柳川という場所が多くの者達に知られるきっかけとなって居れば、其れだけで充分だ。

儂は多くの方々の支えにより二年を過ごした。

 

常に儂の傍にて守り役を務めてくれた植野館長。
催しの度に忙しい中手助けをしてくれた立花家史料館の皆々、御花の皆々。

誠に美味な飯を振舞ってくれた岸原総料理長。

会う度に笑顔で快く迎えてくれた我が子孫、立花家十七代当主、立花宗鑑殿。

殿、と儂を慕ってくれておるみのり幼稚園の若、姫。

儂の名を伝えると「うちの殿」と笑顔で迎えてくれる柳川の民達。

「橋本あかね」姫を始め、共に戦場を駆け抜けてくれた多くの皆々。

誠に有難う御座った。

此れからは儂は居らぬ。
されど、もう一人の儂がおる。
当世の儂より「少しだけ」背が高く、堂々たる儂がおるのだ。
何も心配する事はない。

然し、立花宗茂という男は、多くの支えがあってこそ、其の力を存分に発揮する男。
皆々の変わらぬ支えが何よりも必要である。

四百年前から変わらぬ男だと、誾千代は笑うかも知れぬが、一人で何か成し遂げたとて、其処に何の意味があるのか。

多くの者と共にあり、絆を育む事こそ、大きな事を成す為に最も大切な事。

 

皆々、もう一人の儂の事を、宜しゅうお願い致す。

誠に良き二年間であった。

柳川の民の御多幸と、柳川のさらなる発展。
そして何より、其の温かき心がいつまでも変わらず受け継がれ続ける事を、願っておるぞ。

誠に、誠に有難う御座った。

筑後国柳川城城主 立花宗茂

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11/18大慈院イベント準備③細川家と立花家

2017/9/16

立花家の人々、立花万起子です。

11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。

戦国時代の大名たちは茶道をたしなむものが多く、立花宗茂も幼いころから茶道に触れていたのかもしれません。現代のビジネスマンが仕事で交際する上でゴルフが役に立つのと同じように、当時の大名たちは茶道を通して他の大名や商人と交流していたのでしょう。

関ヶ原で敗れてしばらく浪人生活をおくる宗茂ですが、20年後再び大名に取り立てられると、茶人としての素養が大いに役立つこととなりました。二代将軍秀忠の茶会にはたびたび招かれ、三代将軍家光が大名家の茶会へ御成りの際はほとんど相伴しているとのこと。

宗茂は肥後の大名細川三斎(忠興)とも茶道を通して交流があったようです。利休七哲(千利休の七人の高弟たち)の一人であった細川三斎は、宗茂の茶道への造詣を認めており、そのことを息子忠利への手紙で記しています。

 

細川家の19代当主の細川護光さんは陶芸家でらっしゃいます。細川さんとはお能のお稽古を通してご縁ができて間もないのですが、茶道関係の陶芸作品もお作りになっていると聞きましたので、先日護光さんの作品を拝見させていただくため熊本へ行きました。

熊本市中心からすこし離れた立田自然公園内、細川家の菩提寺であった泰勝寺跡へうかがいました。護光さんがご自身の作品でお茶を点ててくださいました。赤楽、信楽、井戸茶碗。現代に作られたものなのに落ち着いた風格のあるお茶碗たち、すてきです。

400年前、細川三斎と立花宗茂もここでこうしてお茶をともにいただいていたのかもしれません。

その後自然公園内にある細川家のお墓とお茶室仰松軒も案内いただきました。2016年の地震のあとお茶室は復旧作業中ということで中は拝見できませんでしたが、豊かな自然の空気に包まれていただくお茶を想像してみました。いつかここでお茶をいただきたいものです。

11月のイベントでは護光さんにお力添えいただけることになりました。どういう形でか・・・、それは当日までの楽しみにしていてください!

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新しい風

2017/9/2

館長の植野から秋のご挨拶です。

さまざまな新しい風が吹き込む季節です。

吹き寄せのように近況とかこれからの事とかブログで少しお話ししたいと思います。

今年は何かが起こる年(なにしろ立花宗茂生誕450年ですから)と予感がありましたが、

ホップ・ステップを省略して大河ドラマ招致キャンぺーンが始まってしまいました。

春頃から少しづつ動き出しておりましたが、いよいよ本格始動。

 復活の武将をテーマにした不死鳥のロゴマーク

沢山の組織や大勢の力が集まって大きな動きになっているのですが、その中でも

もちろん当館は極めて頑張らなければならない立場なのは言うまでもありません。

こういった動きを受けて、

新しいイメージキャラクターとしての立花統虎(宗茂)が立ち上がったのも

驚くべきことです。(これには涙ぐましい裏方の努力があり)

突然ですが、柳川の殿の設定集から一部をご紹介します。

例えて言えば、当館を劇場とすると、史料館監修の舞台劇「宗茂と誾千代の物語」(つまり史実に基づくフィクション!です)で超ロングラン公演中の主役であるというイメージ。

ビジュアルの設定年齢は21~25歳ですが、知識と記憶の設定では宗茂の全人生について熟知しており、
宗茂が現代を生きていれば、このように振舞うであろうという説得力を持たせたいところです。その本務はあくまでも史料館の教育普及事業です。

正式の名前は、名乗り口上でもご披露しましたように「立花左近将監源統虎」あらため「立花宗茂」。

その性格は、

… ここからは長くなるので、何かの機会で披露できればと思います。きっと立花宗茂を通じて当館へ親しんでいただいている皆さまの心の中にあるイメージに近いのではないかと思っています。

…辛口スッキリの見た目ですが、けっこう天然系です…柳川の殿がですよ。

さらに、イメージキャラクターは現代に生きる男子だけでなく、イラストも制作が進行中。

このイラストが、これがよいのです。見せたい!!でもまだ見せられない、のがじれったい。

と言っていたら、作者のご厚意で、まだ準備中の沢山のイラストから一部をご披露。誾千代姫になってどんな殿が現れるか、一緒にドギマギして待ちましょう。

完成した物語を乞うご期待。

もちろん、本資料の写真もかっこいいものを準備したいと企画検討中です。

     

3種類の媒体を縦横に行き来した教育普及活動を展開してゆきますので、親しみを持って迎えていただければと願うばかりです。

そのステージは、

当館公式の新しいインスタグラム、そして宗茂と誾千代大河招致キャンペーンのポータルサイト、です。

どちらも10月から始動を目指して準備中です。頑張ってます。

新しい風と皆さまのご支援が当館の支えとなります。

 

 

 

 

 

 

 

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11/18大慈院イベント準備②立花宗茂の肖像画

2017/9/2

立花家の人々、立花万起子です。
11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。
私が昔から見慣れている立花宗茂の肖像画は、イベントお知らせのチラシにも掲載しました立花家史料館が持っているものです。お顔が丸くてちょっと色黒で、父(立花宗鑑)に似ているな、といつも思っていました(宗茂が色黒なのは肖像画が古いからかもしれませんが、父の色黒は生まれつきです)。

 立花宗茂肖像画(立花家史料館所蔵)

 立花宗鑑(十七代目当主、立花財団理事長)

ぽっちゃり丸顔、鼻の形、ちょっと似ていませんか?

大慈院も立花宗茂の肖像画を所蔵しています。イベント当日は大慈院の本堂で宗茂の法要をしますが、そのときに大慈院でお持ちの肖像画をかけていただく予定になっています。
私はまだ実物を見たことがありません。父は以前大慈院の肖像画をご住職に見せていただいたそうです。こちらはすこし面長で色白、男前に描かれているとのこと。京都だとちょっとお公家さんのようになるのかしら、と思ってみたり。
大慈院の肖像画の宗茂さんがどれくらい男前か、どうぞ当日の法要のときにチェックしてください。

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11/18大慈院イベント準備①お茶室

2017/8/2

立花家の人々、立花万起子です。

11月18日に京都で開催予定の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」の準備を進めております。ブログでイベント準備の進捗状況を時々アップさせていただきます。

この企画は父、立花宗鑑(立花財団理事長)と昨年末くらいから考え始めました。大徳寺塔頭である大慈院の若住職が、どこへでも持ち歩ける竹の茶室「帰庵」をもって、日本各地の自然の中で茶道を楽しまれる記事を読んだことがきっかけでした。

”大慈院・茶道・立花宗茂・450年・・・大徳寺の塔頭でお茶席・・・あこがれる・・・”

そんな思いが頭を巡り、父と一緒に今年の2月にはじめて大慈院さんへ相談にうかがいました。

大徳寺の塔頭でお茶席を使わせていただくことは、茶道のお稽古をしている自分にしてみれば、一生のうちに一度あるかないかの稀な機会。宗茂の生誕450年を記念しての行事ならば、ここで行う意義がある、できれば美しい紅葉の季節であれば「京都感」も高まる!と構想妄想は楽しく順調でした。

そして春から具体的に動き始めました。いろいろと予期していないこともありますが、父と植野館長と、従姉妹で御花の千月香社長、東京の親戚や従姉妹に助けてもらいながら、11月にむけてコツコツと準備しております。

大慈院にはお茶室が二席ありますが、今回は青霄庵(せいしょうあん)を使わせていただく予定です。二面がガラス戸になっている広間は、お部屋にいながらお庭との一体感も味わえる開放的な空間です。紅葉の季節はどんな景色になるか楽しみです。

 

こちらはお茶室へ向かう路地からの眺め。まだ夏の景色です。

 

お茶室にある「青霄」の文字は表千家十三代目即中斎によるものです。

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